■土木技術者の仕事師はマネジメントができる
山岡 前回は戦前~戦後、高度成長の華・東海道新幹線の建設に至る鉄道事業の流れを歴史の証人として語っていただきました。今回は、経営者の視点で鉄道事業をふり返ってもらいたいと思います。なかでも国鉄改革、分割・民営化の渦中で総裁に就任され、改革に尽力されたことは現代史のエポックでもありました。まずは、公共事業とマネジメントについて、どのようにとらえればいいでしょうか。
仁杉 土木技術者の本当の仕事師というのは、マネジメントができる人です。技術者もマネジャーでなければと思います。古い話になるけれど、1959年12月末、僕は国鉄の名古屋幹線工事局長に就いて、名古屋に赴任しました。夕方、名古屋駅に着く特急で行ったら、迎えは総務課長を含めてたった3人。人がいなかった(笑)。局長が先に決まって、他の職員はまだ職務発令されていなかった。その晩は、事務所の当直室みたいな所に泊まりました。
局長で着任したのはいいけれど、全然、体制も整っておらず、人を集めるところから始めました。当時は、名古屋でも鉄筋コンクリートの建物はほとんどなくて、伊勢湾台風(59年9月)で傾いたままの大きな家が城山にあったので、そこを借りて、幹部の宿舎にしたんです。賄いのおばさんを頼んでね。
山岡 名古屋は新幹線建設の要所ですよね。工事局の人はどこから集めたのですか。
仁杉 一番たくさん出してくれたのが下関と岐阜の国鉄工事局、名古屋や金沢の鉄道管理局、東北、北海道、大阪など全国から集まってきました。事務所がないものですから、名古屋鉄道管理局に頼みこんで、管理局の五階の講堂に事務所を置かせてもった。講堂だから、大部屋も大部屋(笑)。仕切りが何もなくて、だだっ広いところに、幹線工事局に集まった約300人のうち現場に出ている人以外の100人あまりが机を持ち込んで、作業に当たりました。こういう体制づくりは、大学の先生が黒板に何か書いて教えるのとは違います。人を集めて、寝泊まりできる場所を確保し、彼らを働かさなきゃいけない。しかも国鉄のなかの人だけでなく、外の人もいる。大切なのは、マネジメント。そういうことを知っている土木技術者は、非常に少ない。そこを教えなきゃいけないのだけどね。
■用地買収の難しさ~相手を説得することが不可欠
山岡 新幹線の建設では、用地買収も大変だったと聞いています。仁杉 名古屋の幹線工事局の範囲内では、戦前に計画された弾丸列車の用地として、豊橋から蒲郡あたりまで土地を買ってありました。終戦後、返還運動も起きましたが、売り戻さず、耕作を認める形で処理していました。新幹線は、ほぼこのルートを走ることになり、東京―名古屋間は概ね決まりました。ただし、1964年10月の東京オリンピックまでに新幹線を開業させねばならない。それが至上命題でした。
山岡 沿線の家々と土地の売買契約を結ぶわけでしょ。膨大な交渉ごとになりますよね。
仁杉 国鉄が実際に一軒、一軒と交渉していてはとても間に合いません。そこで沿線の各市町村に対策委員会のようなものをつくってもらい、協力していただきました。各市町村や県会議員、国会議員の方々にずいぶんお願いに上がり、汗も流しましたね。
山岡 いまでも語り草になっているのが、名古屋から関ヶ原のルートの選定です。名古屋を出た下りの新幹線は、枇杷島、清州あたりまで、しばらく東海道線と並行に北上します。その後、南へカーブして、稲沢市、尾西市の外れを通って「岐阜羽島駅」を経由し、大垣市、垂井町を通過して、ふたたび東海道線と少し並走して関ヶ原に至る。このルートは、どのようにして決定されたのでしょうか。
仁杉 当初は、もっと南の、名古屋から岐阜羽島より南の桑原を通って、まっすぐ養老山系に向かい、北東に曲がって関ヶ原へ抜けるルート案が考えられていました。ルート案に沿って、本社の職員がある程度、杭を打って歩いていた。この案では、名古屋と関ヶ原の間に駅を設ける計画はなかったんです。ところが、岐阜は、自民党の党人派の大御所、大野伴睦さんの地元です。大野さんから「何だ。俺のところを通りながら、駅を造らないとは」とお叱りを受け、桑原に駅を置こうとなったんです。すると、こんどは岐阜県知事の松野幸泰さんが、「あんな南のほうへ線路をもっていかられても困る、もっと北へあげてくれ、そうでなければ協力しない」と言いだした。
山岡 岐阜側は、もっと北へと要望したのですね。歴史的に徳川家の親藩御三家のひとつ「尾張(愛知)」と、北の「美濃(岐阜)」には対立感情があったようですね。特に木曽三川の治水をめぐって、堤防で守られた愛知側に対し、岐阜側は反感を抱いたとか。『仁杉巌の決断のとき』(大内雅博編/交通新聞社)を拝読すると、愛知県と岐阜県のルート争いは、知事どうしで話し合えず、国鉄本社も交渉できない、とありました。尾西市の市庁舎には「新幹線関係者立ち入り禁止」の横断幕が張り出されていたそうですね。
仁杉 そうです。「立ち入り禁止」とやられては、入っていくこともできません。しかし、入らないと仕事は進まない。相手の気もちをつかむのは大変でした。あるとき、あの周辺に大水が出てね。消毒に石灰が必要なのだが、運ぶことができなくて地元が弱っていると言ってきた。表面的には立ち入り禁止でも、話し合うパイプはつないでいた。なんとか石灰を持ってきてくれ、とSOSが入った。そこで、貨車に石灰積んで、東海道線の稲沢駅まで運んで、地元に持ち込んだ。それを契機に「国鉄は一生懸命やっているのだから、あの横断幕だけはとろうよ」となって、堂々と交渉ができるようになった。
なかなか話し合いの席に着いてくれない県会議員の先生もいましたね。ある日、その先生の家に不幸があったことを新聞で知った。日曜だったけど、担当者にすぐに香典を持って行け、と命じた。すると先生は「おお、来てくれたか」と迎えてくれました。先生も公共事業に反対しているけど、内心、忸怩たるものがあったんだね。きっかけさえつかめば、こっちを振り向いてくれる。そういうチャンスの芽をどう活かすかだ。こんなこと、大学の講義じゃ教えないね。公共事業への賛成や反対と党派はあまり関係ない。要は人ですよ。
山岡 世間は岐阜羽島に駅ができて驚いたけれど、さまざまな政治的、経済的力学を鑑みれば、岐阜羽島駅がベストだったと……。
仁杉 あそこ以外にありません。国鉄本社には伝えなくても、僕の腹は決まっていた。だから、あそこに収斂させるために、ああでもない、こうでもないと考えて、知事や市長、国会議員を説得して、了解をとったわけです。
山岡 利害関係者を説得するための勘所は何でしょう。
仁杉 向こうを説得すること。相手をバカにしては、ダメです。なかには話が通じない人もいますよ。でも、相手をその気にさせなきゃ仕事は進まない。俺は局長だ、所長だ、偉いんだというような顔をしたら、絶対にダメ。地元の有力者を探すのも大事だね。ボスのいないところはまとめにくい。ふつうは市長が実力者だけれど、議長という場合もある。そこを見極めて、しっかりつかまえなくちゃいけない。一番困るのは、自分の意見がハッキリしていない市長だ。道路なり、鉄道なり造らなきゃ、交通体系上、その自治体は困るとわかっていても、建設反対派の住民を敵に回したら選挙で不利になると考えて、なんとなく反対する市長がいる。そこをどうするか。腹のなかと言っていることが違っているケースもありますね。
■国鉄の赤字の主因は、都市部への莫大な投資を運賃値上げで回収できなかったこと
山岡 極論すれば、マネジメントは人間の気もちをどうつかむか。技術者も、ときには心理学者兼営業マンに変身しなくてはならないのでしょう。さて、1964年に東海道新幹線はめでたく開通します。東京五輪に間に合った。一方、国鉄は、この年から「赤字」に転落しました。そり後、坂を転がる雪だるまにように借金が増えて、国鉄改革待ったなし、となっていきます。素朴な疑問ですが、赤字の原因は何だったのでしょうか。仁杉 投資に見合うように運賃水準を上げられなかった。運賃値上げをできなかったことが赤字が増えた要因ですね。世間の人は、国鉄の財政破綻の原因は赤字ローカル線の建設と思い込みがちだが、そうじゃない。大きな借金を背負ったのは、第三次長期計画(1964~68)での既設線の輸送の隘路の解消、つまり輸送力増強のための工事が主因。輸送の隘路というのはね、ほとんどが都市部にあって、地方にローカル線を建設するよりも、はるかに多くの金がかかる。用地代も、構造物も違う。いろんなものが高くなる。地方で1キロ当たり10億円でできる工事が、都会では100億円かかってしまう。
たとえば、すでに地上に用地のある東京駅の広場の地下に総武線を乗り入れさせるために、丸の内側の地下に総武線用の地下駅を建設しました。現在の総武快速・横須賀線と成田エキスプレスが発着している地下ホーム。あれには莫大な金がかかった。あんなに金を注ぎ込んで大丈夫なのか、と思った。あれをつくって経営がうまくいくのか心配でした。かくも金のかかる投資をしながら、運賃値上げは国会で抑え込まれた。一方で、せっせと高い金をかけて、さらに線路がつくられる。運賃値上げは抑え込まれる。これじゃ破綻するのは当然だ。
山岡 運賃を上げられなかった要因は何でしょうか。政治家が公共料金の値上げを言えば、選挙で不利になるからでしょうか。
仁杉 運賃値上げは国民の反感を買うから、国会はなかなか承認しません。その背景では、鉄道省出身で、運輸大臣、総理大臣を務めた佐藤栄作さんは鉄道省出身のエースです。あの人が運輸大臣のころの国鉄運賃は確かに高かった。国鉄は金持ちでした。だから佐藤さんは国鉄には金がある。運賃は上げなくてもいい、という考え方を採ったという話があります。本当かどうか私には解りませんが、でも、時代とともにそうではなくなった。佐藤首相に対して、運賃を上げないと国鉄が潰れます、と直言する人が国鉄幹部にいなかった。鉄道省の大先輩に「運賃を抑えてはいけない」と正論をぶつける人がいませんでした。
山岡 官僚機構の序列の絶対性を打ち破れなかった。やはり政治ですね。佐藤栄作の後継者となった田中角栄は、どんな政治家でしたか。毀誉褒貶の激しい人ですが……。
仁杉 僕は田中角栄さんにはかわいがられて、いろいろやらせてもらいました。そのひとつに鉄道と道路の立体交差事業がある。鉄道の立体化工事は、だいたい費用の三分の一を鉄道が負担し、残りの三分の二を県や市町村が負担するのが原則でした。が、輸送力増強工事などで国鉄の台所が火の車になるのとは逆に地方都市が活気づいてきて、街の中心に国鉄が走っていると都市計画の邪魔になるので立体化してほしいという声が高まってきました。鉄道を立体化し、踏切をなくして道路を交差させたい、と言ってくる。
これは国鉄だけでなく、建設省、運輸省、それに自治省も絡むわけです。なんとかしようと国鉄で試算してみたら、踏切を取り除いて得られる利益のうち国鉄の分は一割程度しかなかった。メリットはさほど多くない。先に鉄道が走っていたところに道路が延びてきて立体交差を希望しているわけでしょ。それで事業費の三割も、四割も出せない。利益の九割を得る道路側、つまり建設省が立体化事業の金を出せ、と僕は要求したんです。そしたら、建設省は嫌だ、と。しょうがないから角さんのところに行って、こういう話です。建設省との話がつかないので、鉄道の立体化が進みません、と言ったら、うんわかった、とその場で田中派の道路族のボスに電話をしたんです。それで、道路特別会計から立体化事業の資金が出ることになりました。負担は、国鉄1割、建設省9割です。角さんは即断即決です。影響力も甚大でした。他の政治家には真似が出来ない。中国との国交回復も、角さんしかできなかったでしょう。ものすごい政治家ですよ。
山岡 アメリカとの関係をもう少し、うまく築いておけば……。
仁杉 惜しかったですね。戦後、仕事をした総理ではナンバーワン。もう少しスタッフをお持ちになったほうがよかった。孤立しちゃったね。
■国鉄総裁、退き際の「決断」とは……
山岡 仁杉さんは国鉄の常務理事を退任し、私鉄の西武鉄道の経営に当たられた後、土木学会会長、鉄建公団総裁を経て、中曽根政権下の1983年12月に古巣の国鉄に総裁として復帰されました。当時は、「財界の荒法師」と呼ばれた土光敏夫が会長を務めた第二臨時行政調査会(第二臨調)で国鉄の分割・民営化方針が打ち出され、大変な状況でした。国鉄を死守したい国鉄幹部、労働組合、運輸族議員、地方自治体などに対し、分割・民営化を熱望する国鉄の若手エリート、運輸省、経済界などが激しくぶつかり合っていました。分割・民営化の方針は示されたけれど、実行は至難の業。いわば渦中の栗を拾う形で総裁に就任されました。どんな気もちで政府からの要請を受けたのですか。仁杉 ある日、後藤田正晴官房長官に急に呼ばれまして、「きみに国鉄総裁をやってほしい」と言われました。国鉄総裁に指名されたんです。辞退したい気持ちが強かったけれど、長い間鉄道で飯を食ってきながら、国鉄が大変な困難に直面しているときに、逃げだすわけにもいかない。西武鉄道のオーナー・堤義明さんの意見も聞いたうえで、引き受けました。次年度の予算も組めない状況で総裁に就任したのですが、僕自身は民営にするかどうかは負債や年金などの問題解決が前提になるので別問題としても、とにかく分割は必須と思っていた。
山岡 国鉄という組織が大きすぎる、と?
仁杉 職員30万人、北は北海道から南は鹿児島まで、ひとりの総裁が掌握できるはずがない。おまけに労働組合は、労使対立はもちろん、労労対立も激しくて、当局の言うことはきかない。現場と対話すらままならない。若手の課長クラスが「総裁、どうしたらいいでしょう。処方箋がありません」と言うので、とにかく日本には多くの私鉄があって主体的に経営している。そこにヒントがあるはずだ、と応えた。国鉄の全国の路線をA,B,Cのランクにわけて、それぞれ同じクラスの私鉄とくらべて、どんな運営をしているか勉強するところからスタートさせました。1984年の連休明けくらいにその調査がまとまった。その結果、トータルで18万人くらいの職員で十分という結論が出ました。
山岡 84年6月に記者クラブで講演をなさって、国鉄の財務状況などを説明したあとで、ご自身の意見を訊ねられましたね。「分割賛成」とお応えになって、国鉄内が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。仁杉さん以外の幹部は、ほとんど分割反対でした。
仁杉 副総裁以下、各常務は、いわゆる国体護持派でね、分割反対で凝り固まっていた。彼らの気もちの奥底には、前回の対談で、戦前の鉄道省から運輸省へと官僚機構が変わった経緯のところでお話しましたが、運輸省には負けたくない、そういう意識が根強く残っていた。根っこが官僚なのかねぇ。運輸省の言うことなんて聴けるか、というグループがいたんだな。上層部にも。一時的に騒いで、収まるかと思ったのだが……。
山岡 84年暮れには仁杉総裁の下で国鉄改革の「基本方策」ができました。しかし、第二臨調の答申を受けて国鉄改革を担当する国鉄再建監理委員会は、その案に反対しましたね。委員長の亀井正夫さんは基本方策を突っぱねました。
仁杉 監理委員会とは互いに原案を示し、フリートーキングする方向で亀井さんとも何度も話し合いました。しかし、監理委員会の案が遅れて、われわれの基本方策が先になり、ああいう形になった。あとで亀井さんは僕に丁寧に謝られましたよ。
一方で、国鉄の副総裁以下の常務には累積した20兆円の債務を担いだままでは再建は無理。債務を引き継いでくれるのは政府しかないじゃないか、と説得しました。だが、どうしても分割反対だという。事態を収拾するには「ショック療法」しかないと思い、自分が辞めるのと一緒に役員にも辞表を出してもらう策にいきついたのです。
山岡 マスコミは総裁更迭と書きましたが、随分前から仁杉さんの腹は決まっておられたのですね。
仁杉 85年の3月半ばには決心して、運輸省のごく一部の人には伝えておきました。その後、たぶん運輸省から話が洩れたのでしょう。政官界、マスコミの一部からそのような見方をされた。僕が辞める、辞めないなど、どうでもよかった。国鉄改革を前に進めるには、ある時期がきたら辞意を表明して、分割・民営化反対者も一緒に、と考えていた。やや柔軟性に欠けたかもしれないけど、自分でしまったとは思っていませんよ。僕は、どうも人とは違う考え方をしているようだ。うまく立ち回る人からみたら、ダメだろうな。だけど自分で考えたことを実行するには、言いたいことを言わなきゃいけない。
山岡 これからの土木、公共事業のあり方は、どう考えていけばいいでしょうか。
仁杉 だんだん本当のことを喋る人が少なくなってきたが、皆、フランクに、立場ばかり主張せず、日本としてこうあるべきという案をつくらなきゃいけません。作った案は変えてもいいが、土台がない。公共工事をやれと言うが、お金も人間も、材料も足りなくなって行きづまる。強靭化云々といっても、そこまで考えてないんじゃないか。
震災で東北の海岸が壊滅的被害に遭いました。住居は仮でもいいが、真っ先に港、製氷会社、魚の処理工場などを再建して、人が働ける場所を確保すきべです。いくら高い防潮堤を造る、仮設住宅、復興住宅を建てると言ったって、住民が働けなきゃどうしようもないね。そこが出発点でしょ。私個人としてはそんな風に考えています。
山岡 いまだに建築基準法39条の災害危険区域指定に難航して、復興が進んでいないところがたくさんあります。
仁杉 決断が大事です。そして、一度決めたらどんどん下に任せる。そして、最後は俺が責任を持つ、俺についてこい。そういうリーダーが必要なんだ。