2013年8月15日木曜日

第7回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(前編)

対談日:2013年5月21日  於:土木学会会議室

仁杉 巌さんプロフィール
1915年東京生まれ。工学博士。1938年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。鉄道省入省。鉄道技術研究所、大阪工事事務所、名古屋幹線工事局長、東京幹線工事局長、本社建設局長、常務理事、第66代土木学会会長、日本鉄道建設公団総裁、日本国有鉄道総裁。西武鉄道取締役社長、FM埼玉取締役社長、FKK取締役最高顧問などの要職を歴任。
専門はコンクリート、鉄道マネージャー、著書に『挑戦 鉄道とコンクリートと共に六十年』(2003年 (株)交通新聞社)など。








■戦時下、松花江に「舟橋」を架ける特殊任務

山岡 今回は、ゲストに鉄道界の重鎮、仁杉巌さんをお迎えしました。戦中に鉄道省へ入省されて以来、敗戦後の混乱、公共企業体としての国鉄の発足、東海道新幹線の建設、そして激動の国鉄分割民営化の渦中での総裁就任、さらには民間の西武鉄道の経営と、総合的に鉄道事業に携わってこられました。まさに昭和、平成の鉄道史の生き証人です。「8月15日」という歴史をふり返る重要な節目に仁杉さんのお話を掲載できるのは光栄です。
 いろいろお聞きしたいのですが、そもそも鉄道と関わられるようになったのは、1936(昭和11)年の夏、東大の土木工学科2年のときに「南満州鉄道株式会社(満鉄)」へ実習に行かれたのがキッカケだったとか……。

仁杉  そうそう。船に乗って、大連に着いてね。内地にはない超大型の石炭埠頭が見えて、いよいよ満洲に来たなぁ、と興奮したものです。満鉄本社を訪ねると、白城子(現・白城市)という大興安嶺山脈の麓の街の建設事務所に行くことになった。当時、満鉄が世界一と自慢していた、時速130キロの特急「あじあ号」で四平街(現・四平市)へ出て、チチハル行きに乗り換えて白城子で降りました。蒸気機関車が牽引する「あじあ号」に冷房がついていたのに驚いたな。実習地はね、白城子からさらに西へ300キロ入った大興安嶺の頂上付近、長さ2キロのトンネル建設現場でした。そこで一か月実習したんです。

山岡 かなりモンゴルに近いところでは?

仁杉  そうです。山頂の向こうは内蒙古の草原で、ハロンアルシャンという野天の温泉地があった。そこから西へ100キロぐらいのところがノモンハン。

山岡 関東軍がソ連軍に惨敗を喫した「ノモンハン事件」(1939年)の舞台ですね。仁杉さんはノモンハン事件の3年前にハロンアルシャンを見ておられるわけですが、日ソ間の国境紛争が起きそうな兆しはあったでしょうか。

仁杉  いや。ハロンアルシャンには掘立小屋みたいな湯治場が並んでいて、ハイラルから来たロシア人がのんびり過ごしていた。まだ緊張感なんて感じなかった。

山岡 大学を卒業して、鉄道省に入省されました。

仁杉  満鉄に入ろうかと思ったんだけど、父は一人息子が外地に出るのに賛成しなくて、鉄道省を受けて採用されました。当時の日本の鉄道は、狭軌(1,067mm)の全国網が一応出来あがりつつある状況だった。難所の丹那トンネル(熱海~函南間7,804m、1934年開通)、清水トンネル(群馬~新潟県境9,702m、1931年開通)が完成し、鉄道の土木技術者は、さぁ、次は何をしよう、とわいわいやっていた。そこで浮上したのが「弾丸列車計画」。東京から大阪、下関、将来は関釜連絡船で玄界灘を渡って、釜山に上陸し、さらに朝鮮総督府鉄道、満鉄とつないで欧州へ、という壮大な計画だ。列車が大陸に渡っても、そのまま使えるように標準軌(1,435mm)でやろう、と賑やかに議論していた。僕は、研究所の設計課のコンクリート係に配属され、ドイツ語の原書を読んだりして、苦心惨憺、鉄道橋の設計に取り組みました。

山岡 日中戦争は、もう始まっていますね。戦争の影がどんどん伸びているころですね。

仁杉  それで1939年1月、鉄道連隊へ幹部候補生として入隊したんだ。鉄道連隊は千葉県の津田沼町(現習志野市)にあって、いま日本大学生産工学部のキャンパスになってる。

山岡 鉄道連隊の任務は、鉄道の敷設ですか。

仁杉  敷設は従で、戦地で機関車を動かしたり、枕木を敷いたりもするのが主だったね。入隊して、最初の四か月は一般兵と一緒に重たい枕木を二人一組で運んでレールに落とし、犬釘で打ち付ける訓練ばかり。その後、試験を受けて、僕は甲種合格だったので見習士官に昇格しました。入隊わずか11カ月で一兵卒から将校に変わった。一般社会じゃ考えられない。それから幹部候補生の教官を務めました。

山岡 戦地へは?

仁杉  1941年6月に鉄道連隊が満洲に派遣されることになり、僕もそのなかに入った。じつは、われわれの大隊は、鉄道の仕事から離れて、特殊な任務に就いてね。ソ連との開戦を想定して、松花江に「舟橋」を架ける作業に1年半もかかりきりになった。

山岡 舟橋ですか?

仁杉  上流から大きなボートを流して、二つを組み合わせて繋いでケタを架けるんだよ。日ソ戦が始まれば16トン戦車を通せる強度の舟橋を黒竜江にも架ける任務を与えられていたので、どこにも動かず、舟橋づくりに没頭していたわけだね。

山岡 貴重な証言ですね。日本とソ連は1941年4月に「日ソ中立条約」を締結し、ソ連は対ドイツのモスクワ防衛戦のために極東部隊を西へ移動させていた最中ですよね。いわば緊張緩和の状態です。でも関東軍上層部は、中立条約なんて全然信じていなかったんだ。

仁杉  関東軍総司令官の梅津美治郎が、わざわざ舟橋のようすを検閲にきたよ。僕らは対ソ戦が始まったら、飛行機でやられてダメだと思ったけど、そんなこと言っても仕方ないからね。鉄道連隊の仲間のなかには、中支や、南方に送られて、亡くなった人も大勢いる。舟橋をつくっていたお陰で、僕らは生き延びられた。1943年に兵役を解かれ、鉄道省の研究所に戻って、吉田徳次郎先生に弟子入りして、PSコンクリート(プレストレスト・コンクリート)の研究を再開しました。


■国鉄の「本家」意識と東海道新幹線の夢

山岡 戦中は、物資も資金も人も足りず、ご苦労されたことでしょう。

仁杉  PSコンクリートは、まず枕木の材料として考えられました。将来、橋梁に使うなんて想像もできなかった。戦争中は哀れなものでね、セメントも砂利、砂もプレストレス用の鋼材材料もない。それで当時、先輩が担当していた信濃川発電所が工事をやっていて、お願いして、貨車に材料を積んでもってきた。そこからPSコンクリートの枕木の原型ができたんだよ。

山岡 長い戦争が敗戦で終わりました。やはり、虚脱状態のように……。


仁杉  研究所には、もう何もないし、運輸省の施設課に移って、行政に携わるようになりました。新線建設のチェックなどをしたね。1949年に運輸省から日本国有鉄道が分離すると、東京鉄道局施設部工事課長を拝命し、戦災の復旧事業にとりかかった。

山岡 国鉄の発足当時、旧鉄道省出身者には、自分たちが鉄道行政を司る「本家」であり、運輸省が監督官庁になることに反感を抱く人もいたとか……。

仁杉  ハッキリ言って、もとは鉄道省なんですよ。鉄道省のなかに私鉄の監督局とか、運輸省がその後やるような仕事も入っていたんだよ。それを、運輸省を国鉄の監督官庁みたいにした。おれのほうが偉いのに何だ、運輸省は、という空気はあったと思います。だけど、まぁ歳月が経てば、運輸省は運輸省、国鉄は国鉄。とにかく、公共企業体として鉄道事業を行い、路線をつくるのは僕らだからね。時の流れが解決したと思いますよ。

山岡 国鉄は、政治的判断もあって、外地からの引揚者を大量に雇用しました。職員数は、50~60万人にも達しています。それが後々の赤字につながりますね。

仁杉  満鉄や朝鮮鉄道、中支の鉄道などに勤務していた人が帰ってきたら、原則として国鉄に入ったんですよ。

山岡 国鉄発足のタイミングで、「下山事件」あるいは「三鷹事件」「松川事件」が起きます。時の下山貞則国鉄総裁が誘拐後、轢死体で発見されたり、無人の電車が暴走したり……。この当時の国鉄の空気って、どんな感じだったのでしょうか。

仁杉  下山総裁がいなくなったのは、その日の夕方にわかった。翌日未明に死体が発見されたけれど、何がなんだか見当もつかない。土木屋の僕らより、車輌屋や保線屋のほうが詳しいだろうが、自殺説、他殺説、どちらの可能性もあった。わからなかったね。

山岡 ああいう事件が日々の仕事に何か影響を与えましたか。

仁杉  現場では、とにかく毎日、汽車を動かすだけで大変だった。列車の窓に板が打ちつけてある状況だよ。いまのJRからは想像もできない。そこに外地から戻った人がどっと入ってくる。そりゃね、ああいう事件は起きちゃいけないけど、あの混沌からすれば起きても不思議じゃなかった。われわれは、早く、この混乱から脱却して、新しい鉄道を打ち立てたい。安全で快適な鉄道運行を実現したい。そういう意識のほうが強かった。突っついてもわからない事件は事件として、それよりも早く鉄道事業を再建して、お客さんにいいサービスしたい、と思ってたな。国鉄ができて、10年ちかくは戦災復興に追われた。車輌も線路も悪かった。敗戦の痛手はそのくらい続きました。そして、新しい鉄道のひとつの目標として浮かび上がったのが東海道新幹線だったんです。

■頭のなかで新幹線を走らせていた天才技師・島秀雄

山岡 東海道新幹線建設の立役者は、十河信二総裁と、親子二代の国鉄マン・島秀雄技師長だと言われていますが、仁杉さんは島さんの下におられたのですね。

仁杉  そうです。1955(昭和30)年に東海道線の輸送力増強をどうするかの議論が始まって、そこから新幹線へ向かう。島さんなくして、新幹線はなかった。技術的には、島さんの頭のなかには現在の新幹線の構想があったと思う。こんな列車で、こんなふうに走るのだと、島さんの頭のなかにしか、それはなかった。たとえば動力分散型にするとか、交流電化、下り坂では電力を吸い上げるとか、安全装置はどうとか、すべて島さんの頭にあった。当時はわからなかったが、後で考えるとそうとしか思えない。全体像があの人にはあったんです。

山岡 島氏は、まるで頭の中で新幹線を走らせていたようですね。いつ、それを確立したのでしょうか。

仁杉  彼の生い立ちから考えなくちゃいけない。関西鉄道出身の親父さんも技師で1,435mmの標準軌道論者です。狭軌ではスピードが上がらないし、外国から車輌を輸入すると後で改良しなくてはいけない。だから標準軌だ、と主張しておられた。息子の島さんは、そういう意見を聞いて育っている。おまけに頭がものすごくいい。天才的だ。六ヶ国語を喋ったといいます。親父にくっついて欧米諸国に行っているから、鉄道のことは何でも知っている。それで、海外の進んだ点を、日本で真っ先にやってみたのが、交流電化です。フランスの技術を参考に、仙山線を筆頭にあちこちでやった。新幹線への布石を打っています。電車に動力を分散するのも、小田急鉄道から特急車輌を借りてきて、東海道線で動かしているんです。国鉄のOBのツテで小田急から電車の車輌を借りています。

山岡 国鉄と私鉄じゃ垣根がありますよね。

仁杉  その動力分散型の車輌を設計したのは国鉄の人だったし、小田急も渋い顔をしたわけではないが、島さんは私鉄に頭を下げてでも手を打つ立派な人でした。

山岡 島氏は、1951年に国鉄の桜木町駅構内で起きた列車火災事故(桜木町事故)の後、一度、国鉄を退職していますね。そのシコリのようなものはありませんでしたか。

仁杉  あの事故には二つの問題がありました。車輌の窓が開かず、乗客が外に出られなかったこと。もうひとつは、列車の車両間を行き来できなかったことです。細かくは、直流電化であったために電流を切断できなかったとか、いろいろですが、やむを得ない面があった。三段窓だって、材料があればあんなことはしなくて済んだ。工作局長の島さんとすれば、嫌な思いもあったでしょうが、国鉄を退職されて住友金属に移った。そこを十河さんが、技師長として戻ってくれ、と引っぱりました。十河さんは島さんのお父さんをよく知っていますからね。島さん自身、国鉄に戻ってからは、新幹線に全身全霊を傾けていましたね。


■日本の危機の本質は国土計画がないこと。

山岡 十河総裁の功績も大きいですね。

仁杉  十河さんがいなければ島さんも活躍できなかったでしょう。多くは語れないけれど、僕は秘書室で十河さんが島さんを呼ぶ工作のお手伝いをしました。島さんは、十河さんの下で働くのならいいけど、他の幹部の下では嫌だ、と。ごもっともですよ。でも、国鉄という法律で決められた組織では、そう言っても通じない。日本国有鉄道法の条文を直さなきゃいけない。それを僕が引き受けて、秘書課長とか、副総裁とかを口説いて歩きました。
もちろん十河さんもバックアップしてくれたから、それが通った。あそこで頓挫していたら、島さんも国鉄に来られなかったかもしれない。この話、知っている人は他にいません。

山岡 いま、初めて明かされる「秘話」ですね(笑)。十河さんが新幹線にこだわったのは、やはり戦中の「弾丸列車」へのこだわりでしょうか。

仁杉  十河さんは満鉄の理事だったでしょ。やっぱり「あじあ号」のロマンじゃないかな。世界一の列車をつくりたいという夢ですね。それには島さんが絶対に必要だった。戦中の弾丸列車計画は、東海道、山陽道に一本線が引いてあるだけですが、島さんは、鉄道省の上層部に浜松に試験線をつくってくれ、と要求しています。試験線で、動力分散や交流電化などを試してみようとしたようだね。試験線の考え方は、東海道新幹線の開発で、小田原~相模川間で採り入れられ、進められました。

山岡 戦争という巨大な障害に直面しても、島氏のなかではずっと高速鉄道の構想が熟成していたのですね。技術者の凄みを感じます。

仁杉  いくら僕が鯱鉾立ちしても、島さんにはかないません。僕も、東海道新幹線では、何百というPSコンクリート橋を架けたけどね(笑)。いま、新幹線の代わりに新しい鉄道をつくると言っているが、本当にそこまで技術が進んでいるのか、しっかり分析して、構想を立てられる島さんみたいな人はいません。一つひとつの技術はある。リニアなら、リニアという技術はある。しかし、どこが急所か、本当に知っている人は、残念ながらいないでしょうね。

山岡 技術者が総合的な視点を持ちにくいのは、あまりに技術が高度化、細分化しすぎたせいでしょうか。

仁杉  技術屋というのは、どうも細かいことに意識が向きすぎる。その道のことは詳しいが、全体を見られない。僕は、いまね、土木屋で一番足りないのは国土計画だと思うんですよ。これが、ないからね、どうしようもない。大学の先生は重箱の隅を突っついてばかりです。官僚も落ち着いて広い視野の勉強をしていない。日本の危機の本質はそこにある。「国土強靭化計画」とかやっていますね。いいですよ、強靭にするというのは。だけどどのくらい金がかかるのか、何からやるのか、強靭化で橋ばかりつくっても仕方ない。
 それは、土木だけではないかもしれません。電気やコンピュータは、大きなビジョンをつくっているのでしょうか。トータルなビジョン、これをどうするか。太平洋側に地震がくるかもしれないから巨大な構造物をつくるというが、お金はどうします。どんどんお札を刷るのもいいでしょう。でも、その後はどうしますか。

山岡 おっしゃりとおりです。向こう百年とは言えなくても、せめてひと世代、30年先くらいは考えておきたいです。次回は、技術論から経営論に転じて、国鉄分割民営化などの秘話をお聞きしたいと思います。

(後編へ続く)