2013年11月30日土曜日

第14回 参議院議員 脇 雅史さん(後編)

■震災復興と国土強靭化の関係とは?

山岡 前回のお話で、国土強靭化への政府、与党の意識の高さはよくわかりました。一方で、大震災からの復興に目を向けると、先行きへの不安感が漂っているのも事実です。先日も、取材で福島県の自治体の首長さんたちに会ったのですが、国土強靭化と東京五輪のインフラ整備に人、モノ、金が流れて復興は後回しにされるのではないか、という強い不安感を皆さん、口にしておられました。

 復興も強靭化、五輪もすべてやらなくちゃいけません。日本はできるはずです。明治期も、敗戦後の昭和の時代も日本は貧しかった。貧しいなかで懸命にやりくりしてインフラを建設したのです。あれだけ貧しい時代にできたことが、いまできないはずがない。かつて、貧しかったにも関わらず、なぜできたのかというと、将来への確かな手ごたえがあったからです。将来、その方向に伸びるとわかっていたから、設備投資もできた。国土強靭化は、そのような方向性を示したものなのです。だからデフレマインドを振り払い、皆で歯を食いしばって努力しなくちゃいけない。その気構えも重要です。

山岡 ただ、現実の復興は、かなり遅れていますね。復興事業の入札は不調続きです。

 津波の被災地では営々と築いてきたまちが、不幸にして、一挙に崩れました。そこから立ち上がるのは並大抵のことではないでしょう。しかし、地域をどう復興させるかを決める主体は、その地域で生活を営む皆さんです。高台に移るか、それとも海に近い場所を活かすか、国家ではなく、地域の皆さんに主体的に考えていただきたい。
だから、復興庁を立ち上げるとき、私は現地事務所をまずつくるよう、当時の民主党政権にも働きかけました。担当大臣は東京にいないと仕事になりませんが、現地の2~3市町村ごとに復興事務所を置き、各省庁の代表を送り込む。県や市町村の担当、商工会議所、地域の諸団体や住民の方々がそこに集まって、アイデアを出し合ってプランをまとめる体制をつくるよう言いました。鍵になるのは事務所長です。役所のOBでもいいから、行政経験がある人が現地の作戦本部長になって仕切ればいい、と随分、意見を言いましたが、進みませんでした。

山岡 震災前、数十億円規模だった予算が、一気に数百億円に膨らんだ被災自治体もありますが、これがなかなか消化できていません。宝の持ち腐れのようになっています。

 予算をつけても地元が意思決定しなければ、国があそこに住みなさい、ここに住みなさいとは言えません。破壊されたまちをつくり直すのは容易ではないでしょう。道路ひとつ隔てて、壊れたところと、無事に家が立っているところもあります。合意形成は、難しい。しかし、くり返すようですが、現地に権限をしっかり委ねれば、いろいろ意見があっても議論をすればどこかに落ち着きますよ。必要は発明の母です。現地の方々が判断できるような方向に持っていくことが復興庁の役割です。政権交代して、以前より、少しはよくなったと思いますが、まだ、困難が続いています。

山岡 そうしたなかで、宮城県の女川町のように津波で市街地の7割が流出しながら、山林を切りひらいた高台にまちを移転する「1000年に一度のまちづくり」も始まっています。7600人に減った人口を震災前の1万人に戻そうと、女川町が住民の土地を買い上げ、UR都市再生機構と包括的なパートナーシップを締結し、住宅と公共施設は高台移転。沿岸部は漁業と観光交流エリアにする壮大な計画のようですが、この女川モデルは国土強靭化ともリンクすると考えていいのでしょうか。

 そうです。強靭化を先行してやっているということですね。

山岡 女川町、あるいは宮城県東松島市の野蒜地区、岩手県陸前高田市などのプロジェクトでは、国土交通省の指導の下でUR都市機構がコンストラクション・マネジメント(CM)アットリスク型という設計から施工までをの発注する新たな建設工事契約が導入されています。この契約方式の意味とは?

 要するに、元々の発注者である市町村には、大規模な復興事業で契約上の実行管理をするノウハウは蓄積されていませんね。それでマネジメントも含めてURに委託し、着実に、やっていこうということです。いま、工事の予定価をつくって復興事業を遂行しようとしていますが、その工事がいくらなら妥当か判断できる技術者がいない市町村もたくさんある。インフラの冬の時代が続いた影響ですね。それで、実態に合った契約方式で、できないところはできる機関に委ねる。適正な競争のなかで整合性のとれた契約方式を選ぼうというわけです。とくに珍しいことではないです。


■公共調達における契約の根本的誤り

山岡 では、このあたりで脇さんご自身の歩みについてお聞きしたいのですが、どういう経緯で、建設官僚から政治家へ転身されたのでしょうか。

 建設省では河川局や道路局で公共事業に携わっておりました。伝統的に建設省は国会議員を輩出してきました。公共事業をしっかり行ない、建設産業を育てるには立法府にも人がいたほうがいいという組織的な判断ですね。そのことも建設省の大切な役割だと思っていました。あるとき、先輩議員がお辞めになる際、人事担当者が誰かやりたい人はいませんか、と省内に呼びかけたんです。カチンときましてね。ふざけたことを言うな、と。大事な役目なのだから、きちんと考え、誰か選ぶべきだろうと言ったんです。そしたら、しばらくして、では、あなたに決めました(笑)、と指名された。

山岡 投げかけた言葉がブーメランのように返ってきたわけだ(笑)。官界から政界に転じて、ご自身のなかで何がどう変わりましたか。

 河川や道路の公共事業に携わっていたときは、税金で、いかにいいものをつくるかに神経を集中していました。税金で仕事をしているのだから、国民への責任があります。立派なインフラをつくることが使命です。現場にずっと関わっていたので、業界とも付き合いは多少ありましたが、業界を健全にしようとか、契約方法を何とかしようとはあまり考えなかった。しかし、舞台が変わって、建設業界の代表として国会に入りました。公共事業が目の敵にされて、建設業界は死にかけていた。当然、どうすれば業界が健全になるのか考えます。そこで契約問題に行きあたり、根本的な誤りに気づいたのです。

山岡 何ですか。根本的な誤りとは。

 行政が「買い手」で、建設業は「売り手」だという根本的関係を取り違えているのです。私たちは、つい仕事を発注する行政が売り手で、建設業は買い手だと思いがちですが、実は、建設業はインフラをつくって国や自治体に売るからお金をもらえる。れっきとした売り手です。だけど、本来、生産者が有する値付けや商品の質や量をコントロールする術はない。すべて買い手の行政の指示に従わねばならない。売り手だけど弱い立場なので市場メカニズムなど働きません。ところが経済学者は公共事業にも市場原理を持ち込んで、市場メカニズムに従え、という。その結果、入札金額も、ただ単に安ければいいとなる。ダンピング合戦になって、業界が衰退しても平気。経済学者は独占禁止法まで持ち出して、正しい競争をしろと建設業を追い込む。そもそも独禁法は、生産者より弱い立場で、情報量も極めて少ない買い手の消費者を守るための法律です。行政は買い手とはいえ、圧倒的に強い、断然強い。業法に則って、売り手の建設業者を潰すことさえできる。公共事業で、何を、いつまでに、いくらでつくるかも決められる。それほど強い買い手を独禁法で保護するのは間違いです。業者間の正しい競争は必要ですが、公共調達をふつうの市場に置き変えようとする発想自体、間違いです。公共調達は、国や県、自治体が決めているのです。

山岡 なるほど、公共調達では売り手のほうが弱いんですね。なのに、一般に土木建設業界は強いと見られています。それは建築の分野で、家を建てたり、買ったりする場合、買い手である消費者のほうが弱く、当然、独禁法などで守られており、そのイメージが強いからではないでしょうか。

 そうそう。それはありますけど、震災後の国のお金の使われ方はどうもおかしい。たとえば、民主党政権は、サプライチェーンを守らなければならないと言い出して、部品メーカーとか、多くの企業に材料を提供している企業に3000億円、4000億円というお金をバラマキました。融資ではなく、返さなくていい補助金です。税金を私的企業にくれてやるのです。その根拠法は何かと訊くと、ない、と言う。そもそも税金は法定主義で、個人のお金を徴収するには法律に拠らねばなりません。だったら、自治体や公共団体に補助をするのならともかく、私的企業にお金を出すにも法律がいるはずだけど、ないのです。
 一方で、土木事業の入札で行政が設定した予定価格の9割以上で取ったら、不正があるのではないか、と拒絶される。安くしろ、安くしろです。建設業が疲弊したら災害復旧もできません。被災地で、真っ先に動きだすのは地場の建設業です。

山岡 確かに。東日本大震災後、地元の建設業がいかに懸命に「啓開」に取り組んだか、私も取材を通して知りました。

 大混乱のなかで動きだすのだから、行政と契約なんて交わしている暇はない。自分の家が地震で潰れても、真っ先に動かなくちゃ、人命を救えない。ところが、やっと状況が落ち着いて、かかった費用の精算をしようとすると「1社でやったのはおかしい。談合だ」とクレームをつけられる。これはまったくおかしい狂っています。議員になって15年、公共事業契約の適正化を主張し続けて、やっと最近、安ければいいではなく、まともな価格で受・発注する方向へ少しずつ変わってきました。

山岡 復興現場では、技術者不足、資材不足で労務単価、資材の高騰でコストがどんどんあがり、落札率も落ち込んでいるようですが……。

 それはいいんです。全部が筋道だってうまくいかなくても、デフレマインドを消すためには、それも必要。長いスパンで考えねばなりません。

■地方の定住性確保~「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ」

山岡 高知県の南海地震に対する多重的な防御、福井県のLNG(液化天然ガス)関連のインフラ整備、そして北陸新幹線。これらのプランも強靭化に位置づけられますか。

 そうです。地域それぞれの状況を入れこんでいます。そういう必要に応じて、先導的に強靭化が進んでいくでしょう。

山岡 米国のシェール革命の影響でロシアが慌てて、日本に天然ガスを売り込んできた。福井のLNG基地の建設は、エネルギー安全保障上も重要な意味を持ちます。最近、地方の衰退は仕方ない、大都市圏だけ活性化すればいいと極論を唱える人が増えていますが、地方が衰えたら、大都市圏も死んでしまいますね。

 現在の名産品のほとんどが幕藩体制下の江戸時代に生まれています。要するに各藩レベルの定住性がないと地域は栄えません。江戸が栄えたのも、そういう地方の繁栄が下支えしていました。定住性が確保されていないと、伝統文化も育ちません。その地域が嫌なら出ていけばいいという人たちの間では保守思想もひんまがってしまう。いまの自民党の保守思想も正しいものとは言い難い。保守と革新を取り違えています。

山岡 財政破綻したデトロイトからは市民がどんどん脱け出し、180万人くらいだった人口が70万人まで減っています。行政サービスは最悪。米国は土地が広くて、地価も安いから、嫌なら出て行けばいいけれど、平地が狭く、人口密度の高い日本では無理です。

 だから定住性の確保が重要なのです。私は、勝手に「7対3の法則」と言っていますが、その地域に生まれた人の7割くらいは定住して、3割は転勤族でもいいと思う。そのためには地方の産業とインフラは一体的に整備していかねばなりません。建設省に入って、最初に赴任したのが北陸地方建設局旧信濃川工事事務所でした。大河津分水路に立ってみると、天地雄大で青山士の「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ」という記念碑の文言がずっしりと胸に響きました。明治の先達は、乾坤一擲の気概で事に当たり、大工事を成し遂げ、新潟の穀倉地帯が守られたのだと感じました。安ければいいという情けない発想は微塵もない。

山岡 インフラの価値を、私たちはつい忘れがちになります。

 9月中旬の台風18号の襲来で、京都の嵐山の近くを流れる桂川が氾濫して、渡月橋付近の旅館やホテル、みやげ物店、30件以上が浸水被害を受けましたね。京都市は、市民約27万人に避難指示を出しました。渡月橋は濁流を受けていましたが、あの災害で、もし桂川上流にダムがなかったら、橋は完全に破壊されていますよ。浸水被害はどこまで拡大したかわからない。国交省には、そういうデータも出して、ダムはいらないと言っている人たちに本気で考えてもらえ、と言っているんです。

山岡 戦後から高度成長期にかけて、とにかく、早くつくれ、とインフラが構築されたわけですが、その過程では政治を巻き込んだ歪みも生じています。最初の赴任地が新潟だったとのことですが、いまだに毀誉褒貶の激しい田中角栄・元首相をどうとらえていますか。「日本列島改造論」と国土強靭化の違いは何でしょうか。

 入省したばかりでぺーぺーだった私は、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中さんにお目にかかる機会はありませんでしたが、大きな役割を果たした政治家だと思います。列島改造論は、当時のことですから、新幹線、高速道路、橋など交通体系をよくすることが主眼だったように感じられます。総論としては、地方の産業とインフラ整備をリンクさせていますが、手法論の側面が強かったように思います。

山岡 総論としては大都市圏への集中を緩和し、地方に産業を分散し、国土の均衡ある発展を唱えていますね。

 ええ、国土強靭化と、根っこではつながっていますよ。しかし、過密、過疎がここまで進んでしまうと、本気で県レベル、自治体レベルで、じぶんたちの地域をどうするか考え直さなければ、取り返しのつかないことになる。国土強靭化は、そんな国家の構造そのものをしっかり見直そうと言っているのです。開発というより、国としてのありよう、地方としてのありよう、それを住民レベルでつくり直そうと提唱しています。どこかの業界、政党のためではありません。本気で国家の構造を考えず、地方分権と言いながら、わけのわからない「道州制」へと誘導したりするのは間違いでしょう。

山岡 道州制論議も、つきつめると行政の効率化ということですか。

 安ければいいという考え方の延長にある改革論です。だから疑問点だらけなのです。国会発の道州制論があってもいいけど、本当にそれでいいのか。国家が何を担い、地方政府は何を担当するのか。そのときに本当に道州制がいいのか。もう一回、国のあり方を原点から考え直す必要があります。そのために参議院では「国の統治機構に関する調査会」(会長・武見敬三氏)を立ち上げて、これから本格的に議論をしていきます。

山岡 この国のかたちが、いま真剣に問われていますね。

 国土強靭化は、そういう議論の入口でもあります。


2013年11月15日金曜日

第13回 参議院議員 脇 雅史さん(前編)

対談日:2013年9月27日  於:参議院会館

脇 雅史(わき まさし)さんプロフィール

1945年東京生まれ 1967年東京大学工学部土木工学科卒 参議院議員 土木学会フェロー会員

1967年建設省入省(北陸地方建設局旧信濃川工事事務所)、1974年中国地方建設局太田川工事事務所、1981年河川局開発課長補佐、1983年中部地方建設局三重工事事務所長、1985年河川局海岸課海洋開発官、1990年河川局治水課都市河川室長、1992年関東地方建設局河川部長、1993年道路局国道第二課長、1994年河川局河川計画課長、1995年近畿地方建設局長、1997年建設省退官
1998年参議院議員初当選(比例区自由民主党)、2004年参議院議員再選、2010年参議院議員3期目当選。

 この間、参議院国土交通委員会理事、外交防衛委員会理事、東日本大震災復興特別委員会理事、政治倫理審査会会長、参議院自由民主党国会対策委員長、参議院自由民主党幹事長、国土強靭化総合調査会顧問などを歴任


■公共事業悪玉論を払拭する国土強靭化

山岡 今回は「国土強靭化」に焦点を絞り、政界で最もパワフルに、この政策をけん引してこられた参議院議員・脇 雅史さんに話をうかがいます。現在、国会で「防災・減災等に資する国土強靭化基本法案」の審議が行われています。可決、成立は間違いないと思われますが、そもそも「自民党国土強靭化総合調査会」ができたのは2011年10月21日。東日本大震災の発生から7カ月後でした。会長は元運輸大臣の二階俊博さん、脇さんは副会長に就任し、法制化の陣頭指揮をとってこられました。調査会発足から、こんにちまでをふり返りつつ、国土強靭化とは一体何なのか語り起こしていただけますか。

 国土強靭化を最初に言い出したのは、京都大学の藤井聡教授ですね。『列島強靱化論――日本復活5カ年計画』(文春新書)を著しておられます。東日本大震災が発生し、日本は自然災害リスクに弱いことが明らかになった。こんな災害は二度と起こしてはならない。ハードだけでなく、ソフトも含めて、災害に強い、しなやかな国づくりをしようと谷垣総裁の下、自民党内に総裁直属の調査会を立ち上げました。ちょうど欧州や米国も同じような考え方で動いていました。リスクに強い国家構造にするには「コンクリートから人へ」は間違いです。コンクリートを使わねばならない大切なところもあります。いろいろ私たちも勉強するなかで法律がいるだろうとなって、当時、野党時代でしたが、「(旧)国土強靭化基本法案」をつくりました。

山岡 自民党は2012年6月に旧国土強靭化基本法案をまとめました。法案が発表されると、メディアは総投資額200兆円という数字をクローズアップしましたね。

 200兆円という数字は、ほとんど意味がありません。メディアは、そういうところばかりを強調するけれど、あまり意味はない。元々あった公共事業投資に震災の復興事業費を30兆、20兆と積み重ねていけば、10年で200兆くらいになるという話で、大した意味はないのです。それよりも重要だったのは、公共事業悪玉論、悪しき解釈で公共事業が沈んでいく現実を逆転させることでした。インフラをきちんと維持する価値観を復活させたかった。公共事業は悪で、予算も減らせばいいという極論が何をもたらすか。中央高速のトンネル事故は、その象徴でした。予め災害対応で、インフラの維持管理にお金を使っておけば、結果的に人の命も助かるし、施設も長持ちする。そのための強靭化です。

山岡 確かに、ここ十数年、公共事業の計画自体が害悪視されてきました。

 そもそもインフラは道路であれ、ダム、港湾、空港であれ、計画的につくらねばなりません。毎年、単年度でできるわけがない。10年、20年の期間を鑑み、計画的に建設しなくては整備できません。ただし、インフラ計画は単独のそれだけでは成り立ちません。上部概念としての国民生活、経済、社会活動をこうしたいから、下部としてのインフラが必要という関係になっていなければいけない。わが国は、戦後の焼け野原で、まず産業復興に着手しました。太平洋臨海部を中心に工業を発展させましたが、インフラ整備が遅れ、歪みが生じました。過密と過疎が起こる。そんな状況で、道路がない、製品をどう運ぶのか、と慌ててインフラをつくりだす。とにかく早く、実行することが正義で、なぜインフラが必要なのか訊くだけ野暮。30年もそういうことをやっていれば、当然、インフラも需要に追いついてくる。そうすると、地元との合意が難しくなり、何でダムや道路、橋がいるのか、と素朴な疑問が出てくる。その問いかけへの行政の答え方が不親切でした。その点は反省しなくてはなりません。上部と下部、経済計画と国土総合開発計画を大きなところでは繋いでいたが、各地域に落とし込んだ細かいリンクを張っていませんでした。そこに折悪しく、財政が悪化し、大蔵省(現財務省)が公共工事不要論を仕掛けたふしもあります。かつて自民党政権下で、インフラの整備計画自体が悪だ、と決めつけられて計画を放棄した。挙句の果てに「コンクリートから人へ」で息の根を止められる。半端な経済学者は計画論イコール統制経済とみなして、すべて市場でやればいい、と言ったのです。

山岡 新自由主義的な市場原理主義の台頭ですね。市場メカニズムを絶対視しています。

 そういうインフラ整備への不幸な経緯を、国土強靭化は払拭するのです。

山岡 しかし、旧強靭化基本法案は野田政権下で廃案になりましたね。

 民主党内にも少数でしたが、われわれの考えに賛同する動きもありました。藤井さんも民主党内の勉強会に招かれています。党派を超えた共感もあった。が、現実的に野党の立場では、政策を遂行できませんし、予算も使えない。政府との打合せもできない。まず私たちの考えを世間にアピールしなくちゃいけません。若干、荒唐無稽でも理念を明示する法律をぶちあげる必要がありました。そこで旧強靭化法案をまとめたのですが、世に訴える法案ですから、パフォーマンスの側面がなくもない(笑)。野党時代と、与党時代の法案が違うのはおかしいと言う人もいるが、法案の持っている意味合いが違いました。


■国土強靭化の目玉は都道府県、市町村による「国土強靭化地域計画」

山岡 昨年末、自民党が政権を取り戻し、第二次安倍政権が誕生しました。首相の安倍さんは内閣官房に「国土強靭化推進室」を設け、側近の古屋圭司さんを担当大臣のポストに就けました。自民党の国土靭化総合調査会のメンバーが担当大臣になるのかな、と見ていたら、やや意外でした。党と政府の間にすきま風みたいなものは……(笑)

 ないです。閣僚人事は総理の専権事項ですからね。

山岡 官邸の国土強靭化推進室は、諮問機関の「ナショナル・レジリエンス懇談会」を設け、藤井さんを座長に強靭化の具体案を練りました。一方、自民党は連立相手の公明党と「国土強靭化基本法案プロジェクトチーム(PT)」立ち上げ、脇さんが座長に就かれた。

 それは、自民党が政権与党に返り咲いて、強靭化を進めることを前提に法制化を図ろうとなりまして、PTの座長になるよう私に要請があり、お受けしたんです。

山岡 野党時代とは違う、与党としての法制化のポイントは何ですか?

 インフラ整備の不幸な経緯の払拭とともに「デフレからの脱却」も重要なポイントです。国土強靭化は、アベノミクスの「3本の矢(金融緩和・財政出動・成長戦略)」の2本目に位置づけられるわけで、デフレギャップを埋める有効策です。デフレギャップは10兆円ぐらいあるけど、不必要なものに公費は使えない。一方で、地震対策やインフラの維持管理にお金が要るのは自明ですから、まずは、そこに投資をしましょう、というわけです。デフレ脱却の財政出動に論理的解答を与えることも国土強靭化の使命だと、私は思っています。それとデフレから脱却するには、消極的な縮み志向の「デフレマインド」も振り払わねばなりません。公共事業の予算を減らせばいいという考え方の背景にも、心理的なデフレマインドがあります。

山岡 デフレが続くと、企業は内部留保をため込みながら、積極的な投資をしなくなる。個人も消費にお金を回さず、預貯金でため込む。経済的に余裕のある高齢者は、物価低迷の恩恵に浴して幸福感を味わえるかもしれないが、若い世代は給料が上がらず、非正規雇用も増えて将来への希望が持てない。悪循環が続きますね。

 だから、そこを断ち切るのです。新たな国土強靭化基本法案では、強靭化の基本計画をしっかり立てることを主眼に置いています。基本計画によって、政府全体に必要な分野に取り組んでもらわなくちゃいけない。すでに各省庁にはそれぞれ計画があります。

山岡 強靭化の議論から浮上したのは、①行政機能/警察・消防等、②住宅・都市施設、③保健医療・福祉、④エネルギー、⑤金融、⑥情報通信、⑦産業構造、⑧交通・物流、⑨農林水産、⑩国土保全、⑪環境、⑫土地利用などの分野ですね。

 そうそう。政府が国家として、日本のぜい弱性を、いろんな分野ごとに評価し、洗い出す。そのなかで、優先順位をつけ、国土強靭化の理念に沿った基本計画をつくる。その基本計画のもとに各計画をすべて見直し、実際の事業に取り組んでいく。ですから、国土強靭化基本法は、全体を覆う傘、いわゆるアンブレラ方式で各プランを包括するのです。難しいのは、今までの行政の事業をどう整理するか。それぞれの行政が、この予算科目は強靭化に入れる、入れないとすべてを強靭化で吸い上げようとしたら、わけのわからない計画になりますね。だから、現在、すでにある計画を強靭化の概念に沿って、リスクを管理し、より安全で安心なものにするには何をすべきか、自発的に考えてやりなさい、という意味で基本法なんですよ。

山岡 と、言うことは、国土強靭化という国家プロジェクトがあって、そのために特別の財布をこしらえて公的資金を入れ、公共事業を執行する、というのではないのですね。各省庁が既存の計画を、国土強靭化の理念と優先順位に沿って見直し、実行する、と。

 その時々の財政事情が違うわけですから、強靭化でこれだけ必要だから、この金を使えといっても、できないものはできない。デフレ脱却と同時に財政再建も重要だし、状況は変わります。だから200兆円云々なんて意味がない、と申し上げています。来年度の予算要求では、各分野で強靭化の脆弱性調査を行い、とくに急がれるものを拾い上げて、5000億円程度になっています。すでにできるところから始めています。

山岡 そこで、重要になってくるのが都道府県、市町村の役割ですね。

 そうです。国土強靭化の最大の目玉は、都道府県や市町村が基本計画を受けて「国土強靭化地域計画」をつくることです。地方自身が強靭化の視点で20年後、30年後、どんな地域にしたいか、どんな産業を栄えさせ、どんな暮らしを営みたいかを考え、アイデアを提案する。そこに各省庁の補助金などが組みこまれていくわけです。

山岡 地方自治体が自らビジョンを描くのですね。それは理想でしょうが、困難でもある。

 正直言って、計画づくりに慣れていない地方は戸惑うかもしれません。しかし、地方も自立が求められています。いいアイデアを出した地方にはお金がつく一方、悪いアイデアしかないところは衰えていく。それが実情でしょう。いまでも、山の中の過疎地に、電柱が一本もない街ができて、産業の活性化が進んでいるところもあります。いいアイデアを出すには住民の意見を採り入れ、地方政府も頑張らなきゃいけません。そのためには、これまでの消極的なデフレマインドと決別して、前に進むしかないのです。

■国土強靭化か、ナショナル・レジリエンスか――法案名称をめぐる綱引き

山岡 話題を、法案策定のプロセスに移したいのですが、今年5月20日、二階さんが提案者代表になって、自民党、公明党の共同提案で「防災、減災等に資する国土強靭化基本法案」が国会に提出されました。与党のPTと官邸の強靭化推進室との役割分担はどうなっていたのでしょうか。

 さまざまな面で調整しながら進めましたよ。われわれ立法府の役割は、法案を審議し、成立させることですが、実際に仕事をするのは役人、行政ですね。法案をつくる際には理念の整理、実際の行政上、こんな法案でいいのかどうか、推進室はもとより、各省庁と調整しながら、進めました。総理大臣以下、役割分担は法案に書いていますから、国会を通れば、すぐに実行可能になります。

山岡 法案は議員立法で提出されましたね。なぜ内閣提出法案にしなかったのですか。

 本質論として、閣法がいいと私は思います。閣法は、内閣法制局がこれまでのすべての法律と法案を突き合わせ、体系的に整理し、齟齬がないよう膨大な審査作業をしてまとめます。非常に完成度が高い。一方、議員立法は、衆・参法制局が審査しますが、どうしても力関係からして、ツメの甘い部分がでてきます。議員の熱意にほだされて、まぁ害がなければいいか、とまとめられるケースもあります。私は、閣法でやるべきだと奨めたのですが、時間的制約がありました。アベノミクスが現実に始まり、第二の矢の理論的支柱である国土強靭化を遅らせるわけにいかない。速度を重視し、議員立法にしたんです。ただし、内閣法制局は通らなくても、各省の目は全部、通させました。

山岡 法案の名称に「ナショナル・レジリエンス」と入れるかどうかで厳しく対立した局面もあったとか……。

 それは二階会長の強靭化への思い入れの強さですね。党の調査会の設置以来、一年半、数十回にわたって議論してきたわけですよ。なじみのなかった強靭化という言葉も、やっと法律用語になり、一人前になりかけたときに公明党が強靭化では嫌だ、と言いだして、何を言うか、とやりとりがあって、若干の調整が必要でした。

山岡 公明党は選挙公約に「防災・減災ニューディール」と称し、公共事業推進の看板を掲げていました。災害対策面を強調するとともに、公共事業へのバラマキ批判を交わすためだったとも伝わっています。支持母体の創価学会の防災、減災へのこだわりも強い。それで内閣府の参与が自公の間を取り持つつもりでナショナル・レジリエンスという言葉を持ってきた。実際に官邸の有識者会議には、その名前がつきました。しかし、二階さんは、冗談じゃないと、突っぱねたのですね。

 ええ。二階会長は、強靭化の名で会議をしてきたのに急に変えるのはおかしい。そんなに愛着のないことでどうするんだ、とお考えでした。地方のお年寄りにレジリエンスなんて言っても通じない。なんで今さらという自負心ですね。私は、個人的には名前にこだわりはなく、理念がしっかりしていれば強靭化でなくてもいいかな、と思いましたが、二階会長の強い思いを尊重したんです。最終的には総理に決断しもらおうかと思いましたが、そこまで煩わせてはいけないので、「防災、減災等に資する」とつけて法案名にしました。

山岡 法案が成立すると、基本計画をまとめる「国土強靭化推進本部」が重要な鍵を握ります。総理を本部長に官房長官、担当大臣、国交大臣が副部長として入る。本部の組織体制はどうなりますか。

 そこは行政の仕事だから、私が口を出す筋合いではありませんが、総理は、強靭化の重要性を認識しているから、各省庁から代表者を集め、ふさわしい組織にするでしょう。

山岡 ナショナル・レジリエンス懇談会の藤井座長は「大至急対応が必要な『重点プログラム』における施策例」として、住宅・建築物の耐震化、大規模津波対策総合事業、都市部における集中豪雨対策、巨大地震リスクを想定した食料供給体制の強靭化などを示しています。これらは強靭化の具体的メニューととらえていいのでしょうか。

 はい、そうですね。ただ、くり返しますが、財政事情で変わります。強靭化基本計画は、財政事情で決まる毎年度の予算、あるいは5年、10年先の予算に対する「元帳」みたいなもの。財政事情やデフレ脱却というさまざまな政策のなかで、毎年度、元帳に照らして、強靭化への予算も変わる。元の計画ですから、200兆どころか1000兆あっても困りはしませんよ。

(後編に続く)

2013年10月31日木曜日

第12回 鹿島建設副社長 田代民治さん

対談日:2013年8月27日  於:土木学会会議室

田代民治さんプロフィール

1948年福岡生まれ 1971年東京大学工学部土木工学科卒 鹿島建設株式会社代表取締役副社長.
1971年鹿島建設入社.川治ダム,恵那山トンネル,厳木ダムなどの工事事務所を経て1994年同社横浜支店宮ケ瀬ダム本体JV工事事務所長,1995年広島支店温井ダムJV工事事務所工事長,2000年東京支店土木部長,2005年執行役員東京土木支店長,2007年常務執行役員土木管理本部長,2009年取締役専務執行役員土木管理本部長.2010年から現職.
この間,日本建設業連合会公共工事委員長,日本建設情報総合センター(JACIC)理事,日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)理事,エンジニアリング協会理事,日本河川協会常任理事,ダム工学会副会長,日本ダム協会理事・施工技術研究会委員長,日本大ダム会議理事,土木学会理事・副会長などを歴任.


■川治ダムで職人たちに教えられた現場感覚

山岡 本日は、インフラ建設の現場を知り尽くす田代民治さんに技術者の本音をお聞きしたいと思います。田代さんは1971年に鹿島建設に入社され、川治ダムを振り出しに、中央高速の恵那山トンネル、厳木(きゅうらぎ)ダム、宮ケ瀬ダム、温井ダムと1974年から26年間、現場に関わった後、管理部門に移られました。そもそもインフラづくりを志したきっかけは何だったのですか?

田代 大学は橋梁研究室を出たのですが、自然を相手に巨大で人の役に立つものをこしらえたいと思い、山岳土木を志向しました。学生時代に観た『黒部の太陽』(1968年公開)の影響もありますね。黒部川第四発電所(黒四ダム)建設では、資材輸送のための「関電(大町)トンネル」の開通工事が難航を極めました。破砕帯の突破に7カ月もかかったのです。この映画は困難に立ち向かった男たちの物語です。主演の三船敏郎さん、石原裕次郎さん、さらにトンネルの先に建設された実際の黒四ダムの圧倒的なスケールに心打たれました。

山岡 最初の現場、川治ダムでは、どのようなことを先輩から教えられましたか?

田代 現場の所長が、ダムの上流側に私を連れて行ってくれまして、「きみ、ダムができた姿が見えるかね。俺には見える。きみも見えるようになったら一流のダム屋だ」と言われました。びっくりしました。目の前には雄大な山と、渓谷があるだけですからね。

山岡 明治維新の軍略家・大村益次郎は地形が読めて作戦を立案できたと言いますが、現場の所長の想像力は相当なものですね。

田代 おそらく頭のなかで三次元の図面を組みたてていたのでしょう。現場では、職人から技術を教わりました。彼らは、荒っぽくて気難しそうだけど、凄い感覚を身につけていた。たとえば、山の稜線は一律に同じ角度で傾斜しているわけではなく、部分的に平なところもあります。図面では、その下の急斜面から切る(掘削する)ようになっていても、ちょっと待て、平なところから切ったほうが安全だ、と教えられました。ごくわずかの角度の変化なのですが、彼らは、それを見抜く目を持っていました。あるいは、発破をかける職人は、岩盤の目の具合や、吹き飛ばした土石の崩れ方、どの方向にブルドーザーで押して、どうすくって土捨て場に運ぶのかを考えたうえで、爆薬や詰め物を調整していました。そして、最も効率のいい方向へ岩盤を倒していた。他にもケーブルクレーンを据え付ける職人、コンクリートを締め固める職人、それぞれ土木屋としての高いプライドを持って働いていました。新人だった私は、彼らから土木技術の現場における基本を教わりました。

山岡 以前、私は、70代の元建設官僚から、田中角栄・元首相に中央工学校で土木のイロハを教えたのは、東京都建設局長を経て参議院議員、衆議院議員を務めた石井桂氏だったと教えられました。「田中に青竹でコンクリートを突いて、締め固めるのを教えたのは俺だ」と石井氏は言っていたそうですが、田中の政治家としての国土建設への執念は、現場の経験、現場に継承された土木の遺伝子なくしてはありえなかったと思ったものです。

田代 われわれの時代は、もう竹で突っつくようなことはなかったのですが、昔は、一輪車にセメントと砂利を載せて運んで、コンクリートを練ることもやっていました。ものをつくるからには、きちんと仕上げたい、いいものにしたいと思うのは、日本人に共通のDNAだと思いますねぇ。



■自然と調和する感覚を三次元CADで視覚化したい

山岡 田代さんが技術者として研鑽を積まれた1970~80年代は、土木技術が急速に進んだ時代でもありました。

田代 その象徴が油圧式機械の普及です。油圧式で小さな装置で大きなものを動かせるようになり、微妙なコントロールもできるようになった。コンクリートの締め固めも油圧式機械でやるようになりました。安全面でも格段に向上した。油圧革命と言ってもいいでしょう。

山岡 機械の進歩が、熟練した技術者の研ぎ澄まされた感覚を後景に追いやったのかもしれませんが、図面では描けない現場感覚、あれっ、これは少し違うぞとか、もっとこうしたほうがいいという感覚は、機械が代行できるものなのでしょうか。

田代 その「あれっ」という感覚は、私なりに言うと、自然と調和する、自然となじむ感覚なんです。それは山や川と毎日、向き合って培われます。じつは、私は、その感覚を、何とか視覚化したくて、三次元CADを初めてダムの計画に応用したんですよ。宮ケ瀬ダムの計画のときでした。たぶん日本で一番早く、入れたんじゃないかな。土木の設計・計画にとって重要なのは、見えないものを見えるようにすることです。地形とか、地質とか、情報を全部入れて、三次元CADにすれば完成形に近いものができると思ったのです。

山岡 川治ダムの所長が「俺には見える」と言ったダムの姿を三次元CADで描こう、と。

田代 そうですね。図面上でも三次元にすれば、ここはちょっとおかしいな、というのは気がつきます。実際にはまだ山を掘っていなくても、図面上でも一応掘った形が見えます。だから、宮ケ瀬ダムの片側の天端は、もともと道路をつけるプランだったのですが、三次元CADでチェックしたら、山が無茶苦茶になってしまうので、トンネルに変えてもらいました。

山岡 景観的なこともシミュレーションできるということですか。

田代 そうですね。世のなかが景観重視へ変わるにつれて、三次元CADで視点を変えて、いろいろ描いてチェックするようになりました。それと、設計段階を大きく変えたのはコンピュータの発達ですね。私たちが新入社員だったころは、まだ手回し式の「タイガー計算機」でした。足し算、引き算機能があって、加減計算を連続して行うことで掛け算、割り算にも対応するというものです。その後、関数計算機が出て、コンピュータになって、自動化がどんどん進みました。測量の分野では、光波測距儀が普及して、いまではGPSも利用できるようになりました。まさに隔世の感があります。しかし、そうやって技術が進んだために職人を現場から追い出してしまったのかもしれないですねぇ。

山岡 技術が進む一方で、1990年代に入ると、自然環境とダムのあり方を見直す声が高まりました。脱ダム宣言も出されました。どのように受けとめましたか?

田代 脱ダムで、インフラいらない、と言われると、俺たちは、いったい何のためにやってきたのか、と愕然としました。私は、インフラをつくって人の役に立てる、自然と向き合って、ものをつくる。この二つを人生の大きな歓びにしていました。それを、いらない、と言われると……。現場の人間としては歯がゆかったですね。確かに、ダムの建設によって先祖代々暮らしてきた土地を追われた方々もいました。故郷が水没してしまう悲しみは想像を絶するものかもしれません。そういう方々ともおつき合いしてきました。それなりに新しい生活に踏み出された方もいます。だから、自然破壊だと言われると、ちょっと待ってほしい。高度成長を支えた電力は、どうやってつくられたのですか。戦後、毎年のように水害で多くの人が命を落としていたのを安全に治水ができるようになったのは、ダムと関係ないのですか。水がない、渇水だ、ダムをつくれと、マスコミは大騒ぎをしていたのを忘れたのでしょうか。冷静に、インフラを見つめてほしいです。

■アルジェリアの高速道路建設

山岡 この連載を通して「適切な公共事業とは何か」「正しいインフラ整備って何だろう」と私は自問してきました。戦後の高度成長期からバブル期にかけて、右肩上がりの成長プロセスで、残念ながら土木建設業界と政界、官界が癒着し、国民の信用を失ったのは事実です。無駄な公共事業もあったでしょう。だからといって、公共事業はすべて悪、公共投資は減らせるだけ減らせばいい、というのは無謀です。極端な二項対立、オール・オア・ナッシングの思考は混乱しか生みません。では、社会全体にとって理想的なインフラ整備とは何か。よりよい方向へ進むにはどうすればいいのか。改めてそこが問われています。

田代 海外に行きますと、日本は、なぜ、あんな小さな国なのにアメリカや中国に劣らない力を持っているのか、敗戦の痛手も受けたのに、なぜ経済力をつけたのかと不思議がられます。日本が力をつけた理由のひとつは、インフラの力だと思います。世界で水道の水が飲めるのは日本くらいです。交通網が整備され、分刻みで鉄道が正確に運行されている。電力供給のシステムが整い、停電はほとんどありません。このような高いレベルの生活が維持できているのは、インフラがきちんとつくられてきたからではないでしょうか。すべてインフラだけが支えているとは言いませんが、大切な要素には違いないと思う。

山岡 日本人の勤勉さや、互いに協力しながら何かをこしらえる特性が、質の高いインフラを構築してきたのでしょう。

田代 じつは、うちの会社はJVで北アフリカのアルジェリアで高速道路の建設をしています。なかなか、お金を払ってもらえなくて、苦労しているのですが(笑)。東西に走る1200㎞の高速道路のうち、日本は400㎞を担当しています。600キロは中国が請負っています。アルジェリアでは、お世辞半分にしても、日本の技術はすごいと言われます。われわれの受け持ち区間にはアージライトと呼ばれる超脆弱な地質のところがあって、トンネルを掘るのに苦労をしてきたのですが、日本の技術なら大丈夫だと信頼されています。この技術的信用力が、日本のバックボーンなのです

山岡 中国が気になりますが、中国はどんな方法で高速道路を建設しているのですか。

田代 日本と違って、人海戦術が中心ですね。彼らは労働者もごっそり中国から連れてきます。国策でやっていますから、パワーを感じます。舗装など普通の作業だけなら、そんなに難しくないです。人海戦術は、日本には真似できません。われわれには、現地の人を使い、現地の技術を高めることも期待されていますからね。

山岡 中国の労働者海外派遣にはいろんな噂がつきまとっていますが……。

田代 労働者がどういう人たちなのか、わかりませんが、現地で宿舎を建てて生活をしている状態を見ると、豊かな人たちではない。どこでも暮らせる雰囲気の人たちですね。

山岡 アルジェリアの現地の人をどう使うか。マネジメントは難しいでしょう。

田代 やはり、宗教の違いが大きいですね。とくにイスラムの人たちとは。向こうが日本人の良さを理解してくれるといいのですけど、なかなか難しい。地質の悪い、難しい工区では、どうしてもキチッと日本人はやりたがる。いい加減なものはつくれないという自負があります。それは江戸時代の玉川上水をつくったころから日本人の土木屋のなかで積み重ねで養われてきたものです。だから、ついやり過ぎてしまう。そうすると、うまく利用されてしまう。なかなか簡単ではない。



■土木の未来

山岡 では、将来に向けて、土木技術をさらに発展させていくには、どのような課題が考えられるでしょうか。

田代 日本の土木技術は、複雑な地質や地形、さまざまな状況に対して、ハイレベルを維持しています。しかし、それだけでは世界に売れません。やはり、総体的なシステムとして売ることを考えねばならないと思います。新幹線のシステムの売り込みは、よく話題に上りますが、水の配分システムも十分可能性があると思います。川の上流にダムをつくって、浄水場で処理して、飲める水を管理して配る。上下水道のシステムを、建設会社だけでなく、オールジャパン体制で輸出する。ある程度、パッケージにすることが大切でしょう。そういう意味では、土木技術者は、全体を俯瞰できる目があるのではないでしょうか。全体を見とおす力を、土木は学問的に持っています。

山岡 常々、私が着目しているのは「海」です。日本の海岸線は非常に長く、領海と、沿岸から200海里の「排他的経済水域」を合わせた広さは、世界で第六位。そこには、豊富な海洋資源が眠っています。

田代 海は、重要な視点ですね。わが社もJV代表会社としてゼネコン、マリコン、ファブリケータなどと一緒に、羽田空港の四本目の滑走路「D滑走路」の建設工事を行いました。世界でも珍しい埋立と桟橋を組み合わせたハイブリッド工法を採用しました。海洋の可能性は高まっています。これからの技術開発の焦点になるでしょう。

山岡 インフラの老朽化問題は、どのようにとらえていますか。

田代 高いレベルの生活を保つには、よりよい性能へとインフラを更新する必要があります。高速道路のトンネルの天井版だって、最近の高速道路には設置していません。古いものをそのままにせず、新しくして質の向上を図る。鉄道は、リニア新幹線が決まって技術力は上がるでしょうが、他の分野でもイノベーションのためにはインフラの更新が不可欠です。ダムにしても、電力と治水のダムを組み合わせれば、新たな可能性が拡がります。

山岡 電気、水道、ガスなどライフラインの老朽化も進んでいます。

田代 シールド工法が確立されて、ライフラインをまとめて地下に通す「共同溝」が、すでに出現しています。東京湾や名古屋湾の海底の地下では、エネルギーの供給ラインが共同溝で造られている。シールドにしておけば、点検も簡単にできるし設備の交換も容易で、長寿命化につながります。古くなったインフラを、ずっと使い続ける、朽ちるのを遅らせるというだけでは、限界があると思います。更新が次々と行なわれ、身近なインフラが変わって注目されれば、現場の人間たちの士気も間違いなく、上がります。

山岡 見えないものを見る「可視化」は、今後も土木技術の鍵を握りますか。

田代 「時間」を取り込んだ四次元へと可視化の範囲は拡がるのではないでしょうか。物理的に見えない部分を透視するとともに、この時期、この時期、と時間経過でものを眺めることが、土木にとっては有効なのです。見えない水脈や、地質の断層を可視化すると同時に時間軸を入れた情報を組み合わせてみると、非常におもしろくなりますよ。

山岡 最近は、CGを駆使した津波シミュレーションとか、土石流の解析シミュレーションなども開発され、防災・減災面での活用が拡がっています。

田代 あれは、動画として時間を採り込んでいますね。勝手な想像かもしれませんが、日本全国、すべての地質がね、情報として見えたら、それはすごい話になります。よくハザードマップと称して、危険地帯を示したりしていますが、どこまで危険なのか、なかなかわからない。あれを、もっと統一的に詳細に広範囲でまとめたら、かなり有効なデータになるでしょう。

山岡 不動産業界は震え上がるかもしれませんが、徹底的にやったらすばらしい。


2013年10月15日火曜日

第11回 橋梁調査会専務理事 西川和廣さん

対談日:2013年7月26日  於:土木学会会議室

西川和廣さんプロフィール

1953年東京生まれ 1978年東京工業大学大学院 理工学研究科 修士課程 土木工学専攻。(一財)橋梁調査会専務理事。
1978年建設省土木研究所橋梁研究室研究員、89年建設省東北地方建設局酒田工事事務所長、91年建設省土木研究所橋梁研究室長、2003年(独)土木研究所企画部長、2009年国土交通省国土技術政策総合研究所長などを歴任。

専門は橋梁工学。橋梁の維持管理の第一人者。道路橋示方書の改訂に長期にわたり参画。阪神淡路大震災時には鋼製橋脚の耐震補強の研究にも携わる。土木学会論文集他、学協会誌掲載論文多数。


■「荒廃するアメリカ」と山形県酒田の現場―トリアージで救える橋がある

山岡 今日は、橋梁に焦点を絞り、維持管理の理論と実践のトップランナー、西川和廣さんをお迎えしました。西川さんは、橋の経年変化、老朽化の問題に工学的視点から最も早く、警鐘を鳴らした専門家です。1980年代初頭、米国でインフラの老朽化が大きな問題となり、『荒廃するアメリカ』という本がベストセラーになりました。まさにあの時期に渡米し、維持管理の研究をされておられます。

西川 83年9月から1年間、ペンシルベニア州のベツレヘムという町のLehigh大学で研究をしました。米国道路庁の人に会って、率直に訊ねたところ、「米国では最近まで橋の維持管理をしなくてはいけないとは思っていなかった」と言われました。やっぱり、そうだったのか。日本とまったく同じだった(笑)。ただ、米国では1968年にシルバー橋が落ちて、2年に1回点検する法律ができて、点検する技術者を教育するNHI(National Highway Institute )もつくられており、しくみは素晴らしかったのです。ところが、その割に橋が落ちる(笑)。行政が予算をつけて「米国の橋はなぜ落ちるのか?」と大学に研究させました。結論は、財源の問題。維持管理にお金が回らないからです。米国でも別途予算を用意しなくてはなりませんでした。当時、ガソリン1ガロンに対して、ガソリン税を4セント増やして道路の維持管理費に充てていました。

山岡 米国の道路や橋は、かなり傷んでいましたか?

西川 ニューヨークの高速道路はガタガタでしたね。でも、まだ使っていました。ベツレヘムの地元紙にはいつもどこそこの橋が閉鎖されたと載っていました。現場に行ってみると、橋に穴があいたり、腐っていたり……。財源的理由とは別の意味で、工学的観点からみても、実際に米国の橋はよく落ちました。理論通りにつくっているから、理論通りに落ちる。日本の橋は、欧州の橋と設計の流儀が近いからかもしれませんが、なかなか落ちません。

山岡 日本は安全率を高く見積もっているからですか。

西川 いや、そうではなく、思想の違いです。日本では橋の床であるコンクリートの床版と、それを支える床桁を、橋本体のトラス構造とガチッとくっつけて固定しています。そうしたほうが、何かあったとき役に立つだろう、という考え方です。米国はそうではなく、本体の上に支承という支点をかませて、その上に床桁をポンと置いている。だから落ちる時はストーンと落ちる。日本の橋は、トラスが一本くらい切れても、床ががんばって首の皮一枚で止まる。先輩方のつくり方がフェイルセーフになっていました。欧州流が役立ったのでしょう。

山岡 米国から戻られて、建設省本省の道路局を経て、東北地方建設局酒田工事事務所長に就任されていますね。そこで、過酷な状況に直面されたそうですが……。

西川 ええ。山形県の日本海側を走る国道7号線、ここは波浪のしぶきが危険で交通止めになるほど海岸に近い場所を通っています。それで塩害が凄かった。コンクリート橋が架けて10年後くらいから塩害が出始めて、ピアノ線で引っぱっていたけれど、コンクリートのなかはボロボロ。構造的な計算をしたら、落ちないのが不思議なくらいでした。ここでも床版が頑張ってくれたお陰で、落橋を免れていた。損傷のダメージの大きな順に橋を直していたのですが、追いつかない。最終的に15橋、すべてを架け替えることになりました。いまから思えば、トリアージをして、損傷度の低い橋から直せばよかった。

山岡 トリアージは、災害救援時の緊急医療の考え方ですね。手当てをしても助かる見込みのない患者より、救える可能性のある患者の治療を優先する。厳しいようですが、ひとりでも多くの命を救おうという取組みですね。

西川 維持管理というのは、リアリズムの世界なんです。起きている現象に対して、帰納的にどう対応していくかが重要です。一方、新しい橋をつくる設計は、理論、仮定、条件を積み重ねると一定の正解にたどりつきます。つまり演繹的手法。学校でも教えやすい。しかし、維持管理は、そうではない。波しぶきを毎日のようにかぶる、とてつもない重量のクルマが通るなど、与条件がどんどん変わります。そこで発生した現象の解釈から始まり、帰納的に対策を立てねばなりません。設計と維持管理は思考回路が逆なのです。

山岡 おもしろいですねぇ。それは法学と臨床医学の違いに似ています。法学は、演繹的に法体系を構築する。逆に臨床医学は、患者の体で起きている現象、症状を診断し、帰納的に治療方法を探る。思考のベクトルが違うので、たとえば医療現場で起きた事故を、法的に裁こうとすると難しい。医療側の明らかなミスや怠慢は別ですが、患者の生命を救おうとした治療の過程で起きた事故を、法体系の枠組みで解釈するのは困難です。


西川 おっしゃるとおり、維持管理は臨床医学に似ているんです。コンクリート橋にとって塩害は大敵です。橋の寿命を縮める。どうすれば予防できるのか、延命できるのか、いろいろ試行錯誤しました。その結果、要するに塩害は「肝臓病」だと気づきました。肝臓は我慢強い臓器なので、症状が出てからでは遅すぎる。だったら「血液検査」をしましょう。橋のコンクリートのコアを適当な時期に抜いて、輪切りにして検査をします。コアの表面にどの程度塩が飛んできているかと、浸透した塩分量でコンクリートの質がどうかをチェックすれば、将来像が大体わかります。

■1990年代前半に提唱した「工学的永久橋」と「ミニマムメンテナンス」

山岡 なるほど。そうした研鑽を経て、西川さんが提唱されたのが橋の長寿命化に向けた「ミニマムメンテナンス」。1990年代前半、土木業界では「橋の寿命は50年」と言われていた時代に、長持ちさせて、きちんと補修しながら使おうと正論を唱えられた。なかなか勇気がいったでしょう(笑)。

西川 ははは。土木学会の研究討論会で長寿命化の話をしたら、そんなことをしたら橋の需要がなくなるじゃないか、と面と向かって言われました。私、そのとき大声で怒鳴り返しました。そういう時代でした。

山岡 怒りはどこからこみあげてきたのですか。

西川 あのころ、15m以上の主要な橋が13万橋。50年で寿命が尽きるなら、13万橋を維持するには、13万を50で割って、毎年2,600橋架け替えないといけないことになります。新設橋は年間大体2,000橋でした。更地につくることが多い新設橋と違って、使われている橋の架け替えは仮橋をこしらえたり、交通規制を行なったりしながらの工事になる。お金も手間も時間もかかります。日本各地で、そんな工事が行われれば大渋滞が発生して、途方もない社会的損失になる。現実問題として2,600橋の架け替えなどできるわけがない。

山岡 できもしないことを、当然のように言うのは幻想ですね。西川さんの維持管理のリアリズムに反したわけだ。では、ミニマムメンテナンスとは?

西川 「工学的永久橋」という概念を提唱しました。そもそもメンテナンスフリーで、全然手入れをしないというのは大間違いです。最小限の手入れ=ミニマムメンテナンスで、永久橋、当時は1000年橋と言っていましたが、最近、かなり値切られて100年になりましたけど、要は長持ちする橋をつくろう、という考え方を提起しました。最小限の手入れでも、永久橋ができる。橋の寿命を延ばすには、計画設計、施工、維持管理の3回チャンスがあります。まずは、計画設計段階で、環境に応じた仕様が大切です。たとえば、橋桁の鋼材でも、山間部の寒冷地で腐食の心配が少ないところなら耐候性鋼材の無塗装のものが使える。一方、海岸部であれば、塩害、腐食のリスクが高いので溶融亜鉛めっきと塗装の併用が望ましい、とか。

山岡 1000年橋とは、強烈なインパクトがあったでしょうね。


西川 橋梁メーカーはショックを受けたようですが、いろいろ一緒に考えてくれるようにもなりました。誤解しないでほしいのは、私は橋の架け替えがダメだと言っているわけではないのです。重要度の高い橋や、損傷の度合いの大きな橋のなかには、当然、架け替えねばならないものもあります。あるいは国に経済的に余裕ができて、陳腐化した橋を国民の生活水準に合ったものに架け替えようというのであれば、やればいい。問題は、根拠の薄弱な理由で、どんどん架け替えればいいとする、安易な考え方なのです。年間2600橋の架け替えなんて無理。橋の平均寿命が50年というのは、50年経った橋の50%がダメになるという考え方です。私は、この割合を20%、10%にできないか、と考えたのです。全体を後ろのほうに倒すのであれば、架け替えの仕事も、なくなりはしません。

■市町村が管理する橋に国のモノサシ(保全基準)は合わない

山岡 時代を先取りしたミニマムメンテナンスの提案から、20年ちかく過ぎました。予想どおり、古い橋が増えています。ところが、橋の維持管理をできる技術者が減っていると聞きます。これは由々しき問題ではありませんか。

西川 かつては、建設省が土木・建築業界にどのくらいの需要があるか目配りをしていました。昨今は、公共事業削減が続く中でほとんど目配りできていない。その結果、最低限必要な技術者すらいなくなっています。その一方で、技術開発、技術の継承をしろ、というのは矛盾でしょう。困っているのは、長大橋です。すごく厳しいです。10年以上、日本の企業は大きな吊り橋を架けていませんからね。辛うじて、海外で下請けの架設をやっていたり、地方自治体の離島架橋をやっていたりしていますが、技術の継承と言ってもぎりぎりのところではないでしょうか。

山岡 本四連絡橋は、日本の橋梁技術の高さを象徴するものでしたが……。

西川 残念ながらもう仕事がないんです。本四の会社に残っている人で、実際にご自身で吊り橋をつくることに関わった人は、ほとんど退職した。あるいは辞める間際の人しか残っていません。その後、入った人たちは、気の毒だけど、つくるところは経験していない。でも、本四連絡橋は、当初、かなりお金をかけているし、対策も練っています。まだ、大丈夫です。

山岡 では、日本の橋全体の維持管理は、どこから、どう手をつければいいでしょうか。

西川 私も国交省にいたころは、国直轄の国道とか、高速道路の橋しか頭になかったのですが、いまは地方のことで頭がいっぱいです。小さな橋を含めると日本には60~70万もの橋があります。そのうち76~77%が市町村の管理なんです。国は、えらそうなことを言ってますが、直轄は、数で3.1%、延長にしても12%足らずです。圧倒的多数の市町村管理の橋が、ピンチです。点検する人も、補修する人も足りません。

山岡 過疎地の市町村道では橋の維持管理が問題になりますよね。

西川 そもそも国の高速道路や直轄国道は、地図に落とせば日本の骨格になっています。どこかの路線が使えなくなれば、国の形が崩れます。だから、考える余地もなく、朽ちてきたら架け替えます。ハイレベルの予防保全基準に則って、高度な管理をしなくてはいけません。が、しかし、よく見てください。地方道は、骨格ではなく、むしろ神経系にたとえた方がよさそうです。とくに市町村道は、行政サービスなどを住民ひとり一人に伝える末梢神経です。ですから、神経につながる地域や集落の動向によってきめ細かい対応をする必要があるのに、国道に近い維持管理が求められて困っているようです。

山岡 中央官庁は、このような問題があることをわかっているのでしょうか。

西川 わかっているとは思えません。たとえば、市町村が橋を架け替えたり、大規模な補強をしたりする際、とくに国から補助金を支給された場合は、国の技術基準に準拠しなくてはなりません。この要求水準が高すぎて、地元の土建屋さんは背伸びをしても届かないのです。これでは意味がない。手の届くレベルにして、向こう10年間、とにかく、騙し、騙し使ってもたせる。まずは応急処置でやってみて、期限がきたら、また手を加える。そんな方法も検討されていい。今後、日本全体の人口が減っていくなかで、高度成長期の右肩上がりのころの基準は、使い勝手が悪いのです。

山岡 国のモノサシは合わないのですね。ただ基準を下げて、安全面はどうですか。 

西川 南海トラフが動いて、大地震が発生したら、ごめんなさい、です。過疎地で橋の維持管理に困っている人たちに、そう言ったら、皆さん、「そうなったら仕方ない、いいんだよ」とおっしゃいます。これは、一種のリスクコミュニケーションかもしれません。

山岡 実際に西川さんは、地方に出向いて、橋の維持管理の指導もされていますね。

西川 はい。一例をあげると、長野に「NPO法人 橋梁メンテナンス技術研究所」があり、「あなたもできる橋の点検」と題して、素人の向けの点検要領をつくっています。点検要領は紙1枚で、「橋の下から眺めて、白い筋が入っていませんか」などのチェック項目に、○×で応えるといった、まさに「あなたにもできる」点検になっています。また、宮崎県では、全体を見て、橋が折れたり、くの字になっていたら、まずい。桁の端部だけ近寄って見なさい。ハシゴで行ける所までで点検は止めて、高くて、怖いところには行ってはいけません、など基本的な助言をしました。

山岡 住民自身が、点検をすることで、どんなメリットがあるのでしょうか。

西川 まず、人件費のコストを下げられますよね。また、問題のない橋を省けるので、橋当たりの点検料が節約できるし、情報を早く集められます。自信のない人は、最後の判断をしてはいけませんが、見ないで放置するよりは、よほどいい。


■人口減少下の維持管理―キーワードは日本流「共通善」

山岡 もうひとつ気になるのが、施工不良の問題です。老朽化が進むうえに、元々の施工が悪ければ、これは大惨事になる怖れがあります。

西川 つくった後の施工チェックは、難しい、わからないんですよ。コンクリートが固まったら見かけでは判断できません。鉄も、工場で溶接してしまうと、なかなかチェックできない。だから施工中の品質管理が大事なんです。鋼橋では、大事なところは、超音波とエックス線撮影で検査をします。海外の落橋事故のなかには、鋼材の溶接が薄皮一枚のような状態だったケースもあります。本来はエックス線検査をすべきだったのでしょうが……。

山岡 東京五輪の突貫工事でつくった道路や橋は大丈夫でしょうか。

西川 工期が短かったので、多少、懸念はありますね。ただ、日本人の感覚から考えて、危険につながるようなひどい手抜きはしていないでしょう。2000年ごろに首都高速に疲労亀裂が出たので、橋脚を一つひとつきめ細かく点検し、補修しました。道路に比べると、鉄道の維持管理はレベルが高いです。ほとんどすべての橋が標準設計なので、あるところに亀裂が出たら、同じ条件の場所を洗いだして、一斉に点検する。並行して、亀裂の原因解明と改良方法を練る。検討結果が出たら、まだ亀裂が出ていない所も含めて、全部、改良するんです。何か問題があれば、問題自体を消す、いわゆるトラブル・シューティング。米国海軍流の最高レベルの予防保全です。

山岡 さて、国土強靭化基本法も、国会に提出されました。いままで後回しにされていたインフラの維持保全にも光が当たりそうですか。

西川 現場は、手応えを感じ始めたところでしょうか。われわれは、いま、三つの大きな災厄に向きあわねばならないと思っています。ひとつは、確実に発生すると予告されている巨大地震、二つ目がインフラの老朽化、三つ目が想像を超えた人口減少です。国土技術政策総合研究所の所長時代、毎月、部長会議で、この三つを同時に考えてほしいと言い続けました。

山岡 人口減少社会を前提に、どんな優先順位で取捨選択をするか。悩ましいですね。

西川 人が足りないということは動かせない前提条件なので、発想を逆転して、「全員参加」をモットーになるべくたくさんの一般住民の方を橋のちかくまでお連れして、維持管理の話をしています。皆さん、非常に興味を持っていきいきと聞いておられます。インフラの大切さを再認識されるのですが、地域を支える基盤との距離が縮まることは非常に重要だと思います。
山岡 今日、お話しながら、広い意味で私たちの思想が試されていると感じました。インフラに手を入れて、長く使い続けることの正しさは、おそらく政治学でいう「共通善(Common good)」に直結しています。共通善とは、聞き慣れない言葉だと感じる人が多いかもしれませんが、単純化して言えば、社会や国家など政治共同体全体にとっての善を指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものです。明治維新以降、日本が真似た西欧社会の底辺に脈々と流れている価値観ですね。そこが、いま試されているのだろうと思います。

西川 米国なら、仮に橋や道路が荒廃しても、極論すれば、ダメになったところは放り出して、どこかへ行けばいい。国土が広いですし、社会にそういう価値観が根づいています。古い街並みがスラム化して、治安が悪化すれば、お金のある人は、どんどん他へ移る。日本では、そのやり方は不可能です。山が大部分を占める国土で、平地という平地は開発し尽くされています。ダメになって放り出せば、社会機能がマヒする。なんとか手を入れて、長持ちさせて、使いながら、更新できるものは更新する。ステップ・バイ・ステップで、やっていくしかありませんね。

山岡 日本には「もったいない」と「お互いさま」という二つのキーワードがあります。そのあたりが、日本流の「共通善」の鍵を握るような気がします。

2013年9月30日月曜日

第10回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(後編)

■土木と医学と化学工学の三本柱で「環境工学」を開拓

山岡 丹保さんの学問領域は、土木と医学(衛生学・細菌学)、化学工学の三本柱で成り立っておられます。土木から他分野へと専門が拡大した経緯を教えてくれませんか。

丹保 僕が北海道大学に入学した1950年当時、日本の水道普及率は、わずか26%です。都市問題イコール水問題だったので、ダムを造りたくて土木の河川工学を専攻しました。昭和27年の北大3年生の時の実習先は建設中の東京水道の小河内ダムでした。1938年に着工して戦争で工事が中断し、米国のフーバーダムやTVAのダムのテキストを参考にして、何とか造っていました。機械もフーバーダム建設で使った中古品でね、しばしば故障していました。僕の目の前でケーブルクレーンの支索が切れて、二人の作業員がビューンとはね飛ばされて亡くなりました。生まれて初めての経験です。それから1週間、工事は止まって、お葬式が行われました。現場で人が亡くなるとは、こういうことかと知りました。小河内ダムでは87名の方が犠牲になっています。

山岡 いまとは比べものにならないほど危険だったのですね。

丹保 そのままダムをやるつもりだったのですが、大学4年のときに日本で初めて、京大とともに北大に「衛生工学科」ができることになりまして、指導教授から、先発要員として行ってはどうか、と言われ、従いました。大学院では土木に籍を置きながら、半分、医学部に通って細菌学、衛生学を勉強しました。1957年に日本で最初の衛生工学科が北大に設置され、講師、助教授となって、米国へ留学したんです。

山岡 助教授時代、日本の河川では初めて、石狩川の水質基準を決める調査をなさっていますね。

丹保 はい。当時、江戸川と石狩川で水質基準が作られることになりました。どちらも製紙会社が廃水を川に流して、周辺の漁民、農民と衝突していました。江戸川は建設省の御膝元ですから調査はできます。北海道はなかなか人がいない。開発局から北大の研究室でやってくれないか、と丸投げで依頼されました。山歩き用の大きなリュックに、川水採取用の瓶をいっぱい詰めて、列車で最寄り駅まで行く。そこに開発局のジープが待っていて、現地へ行って水を採取して戻って分析、試験をする。毎週、毎週、そうやって石狩川の上流から下流までくまなく歩いて、石狩川の最初の水質基準を定める基礎資料を作りました。

山岡 米国留学のきっかけは?

丹保 あるとき、東北大学で開かれた物理科学分野の「コロイド(膠質)化学」のシンポジウムが催され、水処理の基礎を学ぼうと聴きに行きました。ところが、何のことやらさっぱりわからない。三日か四日聴いたけど、さっぱりわからない。これが理解できなければ、水処理の分野には踏み込めません。そこで米国で物理化学/化学工学を勉強することにしたんです。戦後の占領期間中、GHQはマッカーサーの指示で、日本の大学の応用化学の講座を化学工学に切り替えるよう助言したのですが、北大は出遅れていました。留学すれば、遅れを取り戻せるだろう、と。

山岡 GHQは日本の石油化学の勃興を視野に、化学工学を奨励したのでしょうか。

丹保 GHQの工業教育使節団が日本で遅れている分野として化学工学の全面的展開と中心的大学に3校ほどの衛生工学を作るように文部省に勧告しました。とにかくプラスチックができたばかり、ナイロンが出始めたばかりでした。化学工学は先端の科学でした。いまでこそ流体や応用力学と同じように扱われていますが、化学工学は最先端だった。日本には化学を産業化する機械工学との組み合わせの化学工学、医学と土木の組み合わせの衛生工学といった複合的な総合工学がないと示唆したのです。それで米国に渡って、水を凝集して、水がもっている物理、化学的なことなどを勉強しました。だから米国の友だちは、いまでも僕は物理工学、化学工学屋だと思っています。

山岡 そのまま米国に残ろうとは思わなかったのですか。

丹保 独身だったけど、米国人として残ろうとは思いませんでした。当時、北大の給料は70ドル(2万5200円)。米国の研究機関の給料が540ドル(19万4400円)。研究所のボスに「ここにいたら、来年は年俸1万ドルのポジションをつくってやる」と言われたけど、帰国しました。衛生工学を一歩進めて、日本に環境工学を確立するために留学したわけですからね。

■水処理における東西文化の違い

山岡 米国から戻られた翌年、1964年に東京五輪が開催されています。東京五輪は渇水危機のなかで、開幕が迫っていたのでしたね。

丹保 あの年、東京で国際水質汚濁会議が開かれました。平河町の都市センターが会場でした。現在の建物とは違う、古い建物だったのですが、水がなくてね、宇井純や、僕らはトイレで流す水をバケツで汲んで運びあげていました。

山岡 水俣告発で有名な、東大都市工の良心といわれた宇井さんとご一緒に、ですか。

丹保 そうです。都市センターでトイレを流す水がないものだから、外の井戸でバケツに汲んで、せっせと運びあげました。まったくひどいもんです(笑)。東京の水道は利根川とつながっていなかったから、小河内ダムができても焼け石に水。河野一郎さんの英断で、中川とつながってやっとオリンピックができました。

山岡 それからの上下水道の普及の早さは、目を見張るものがあります。下水道の普及率は、現在では75%くらいになっていますね。

丹保 日本は官僚組織が全国一律、号令一下、補助金つけて一気にインフラを普及させました。欧州で100年かかったところを、30~40年でやった。だから日本の上下水道は、バリエーションがなく、おもしろみに欠けます(笑)。フランスは、パリのなかでも200年くらいの幅で建設した水道、下水道の設備があります。だから、古いものをリフォームする際、最先端の技術を採り入れられる。ドイツもそう。ルール川は、広域水道、下水道のトップランナーを走っています。

山岡 汚れた水をきれいにする水処理の方法は、それぞれ国柄の違いがあるのでしょうか。

丹保 国による違いよりは時代の違いが顕著です。1930年代頃までは緩速砂濾過法という方法が採られています。ふつうの沈殿池に原水を、半日くらい静かに置いて、それを静水圧で1日に3~4mというゆっくりした速度で濾過を均一に進行させて浄水をつくります。もとは1820年ころ英国で発明された濾過方法なのですが、テムズ川のほとりに大きな池をいっぱいつくっていて、半日から1日、場合によれば10日も溜めた水を濾過している。自然発生的な技術です。1900年代に入って人口増加の著しいアメリカ東部で、アルミニュームや鉄塩の凝集剤を用いて水中の粒子を集塊沈殿させて、その水を1日に120m程で高速濾過する急速濾過法が開発され世界に普及します。日本の処理法の大半もそうです。

ライン川の下流に位置するドイツやオランダでは様々の微量汚染物質が流れ込んでくる長大河川の下流の複雑な水質から人々を守るために、活性炭吸着をして、さらに地下帯水層に流しこみます。それを井戸で汲んで、配っています。地下帯水層に長時間おくことによって、瞬間的に原水に汚染物質が混じるようなことがあっても長時間の平均化で対応できますよね。オランダでもアムステルダムの砂丘の浸透濾過池に水を突っ込んで、3か月くらい溜めてから出して、処理して配る。一回、地中に戻した水は、大地の恵み、と欧州人は思っているようです。発想が全然違います。

山岡 江戸時代の江戸は、水の循環が衛生的で優れていたとよく耳にしますが。

丹保 江戸だけでなく、当時の城下町はきれいな浄水を汲んで飲んでいましたね。そしてし尿は全部肥料に回していた。し尿は資源でした。汚水といっても、当時はそんなに出さないでしょ。米のとぎ汁くらいなもので、紙だって、全部手習いの習字に使って、最後は焚きつけですね。ほとんど始末がついていた。それが明治以降、人口が増えて、大正時代に東京市清掃条例というのができた。し尿を汲みとって、きれいに処理しましょう、垂れ流してはいけませんという条例です。ここからし尿が廃棄物になりました。

■水循環はフラクタクル―皇居のお濠の水も飲めるようになる

山岡 水をコントロールする技術は、自然と人工との合作なのですね。

丹保 要するに、溜まって止まっている「静水」と、流れている「流水」の組み合わせなんです。静水と流水のいろんなパターンが、小川から大河川まで、フラクタクルにくり返されています。東京のような大都市は、フラクタクルなパターンをぶち抜いて水道、下水という大規模なパイプ網をつくって高速で流していますが、田舎の一軒家のなかには天水を溜めて、使って、排水しているところもありますね。これはフラクタクルの一部のエレメントです。分散型の極小といえるでしょう。

山岡 分散自立型の水代謝のシステムをつくろうとしたら、このフラクタクル構造を利用し、制御しなくてはならないのですね。そうすると、どの程度の規模なら分散型でコントロールできるのでしょうか。

丹保 それは情報系によって決まります。一軒家くらい小さければ、少ない情報を家主がコントロールして水を使えますが、地方の自治体レベルでやろうとすると、知恵も腕力もないリーダーが変なことをして失敗するよりは、能力のある都道府県レベルに頼もうか、となるかもしれません。情報をコントロールできる能力が、規模の大小を決めます。

山岡 ふと『方丈記』の冒頭を思い出しました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。この淀みに浮かぶ泡の生滅もフラクタクルの一要素のようです。フラクタクルの概念が最適化された分散自立の規模とは、どのくらいなのでしょうか。

丹保 わかりませんね。水道水だったら、1日に大きくて10万トン。小さければ、数千トンでしょうか。その場合でも、情報は人間が使うものだから、ネットワーク系をつくって、ハードウェアは小さくても、トータルで制御している人がいればいいんです。つまりインテグレート・システムでやればいい。たとえば東京なら、皇居の周りのお濠にあれだけの水があります。でも、お濠の水、飲めませんでしょ。あれを全部きれいにして、飲めるようにするのは、さほど難しくない。いっぺんにやろうとしたら大変です。しかしお濠の裏側に小さな浄水場をつくらせていただくとか、たくさんの水を皇居の林に捲かせていただくとか、毎日、水を回していけば浄化できます。もしも東京で大災害が起きたら、すべて補給品になりますね。

山岡 それこそ国土強靭化ですね。大きな堤防をつくるだけが能じゃない。

丹保 利根川の上流に新しいダムを造りたくなければ、飲み水だけは既存のダムから東京に運ぶ。そしてビルや工場の雑用水は、芝浦運河を淡水化して賄う。芝浦に水門を造ってね、品川運河をすべて淡水化してしまう。膜処理技術が発達したから、ビルなら通常の正常な淡水さえ手に入れば、困らないでしょう。いずれ、そういうローカルな分散自立型のシステムはできるだろうと僕は思っています。隅田川で泳ぐのは夢ではないのです。

■「ふたつで一つ」の日本文明が「近代の崖」を超える?

山岡 前回の対談で、丹保さんは2100年、世界人口が100億人に達したら、近代文明は終わる、日本は、そのとき新たな文明の担い手として浮上するチャンスがある、とおっしゃいました。『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンチントン氏や、生態学者の梅棹忠夫氏は、日本文明を融通無碍で東洋と西洋の仲立ちをし、融合できるものととらえていました。そのあたりにも「近代の崖」を超える可能性を感じておられるのでしょうか。

丹保 日本は中華文明の端に位置しているのですが、縄文から定住して一万年の歴史を持っています。中国は、確かに巨大だけれど、時代ごとに中心の場所が変わっています。もともと西方に位置していた国が山東半島まで掌中に収めたのです。こうして見ると、一万年前に縄文文化を持った日本の普遍性は、注目されていい。先端に出るかもしれません。

山岡 日本文明の普遍性ですが、突きつめると「ふたつで一つ」という原理ではないかと思います。『西欧キリスト教文明の終焉―日本人と日本の風土が育んだ自然と生命の摂理』(中西真彦・土居正稔著 JPS出版局)という本に示唆を受けたのですが、たとえば、朝廷と幕府、風神と雷神、火の神と水の神、あうんの狛犬……日本では大切なものをふたつ用意してきました。天皇の権威と政府の権力を使い分けてもきました。両方が並び立って、初めてひとつとなる。この考え方が基本にあったから、外から流入してくる文物を相対化し、多元的にとらえられたのではないか、と想像します。都市づくりや、インフラ整備も「ふたつで一つ」といった対概念、補完的な思考が不可欠ではないかと思います。

丹保 確かに伊勢神宮も、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)という二つの正宮がありますね。伊勢神宮は、インフラの神様ともいえます。式年遷宮もあり、新陳代謝=メタボリズムを象徴しています。メタボリズムは人間の生活の基本です。建築家のなかにはメタボリズムの名を借りたグループもありましたが、建築物の水道や下水を「裏から見た○○」といった言い方しかしない。建築家のメタボリズムは、せいぜい空調と揚排水までです。やっぱり違うなぁと思いますね。

山岡 彼らは様式美や意匠への関心が強すぎて、メタボリズムの本質論まで深められないのではないでしょうか。構造物や建物をデザインする人が、せめて対概念をもっていないと、単一的で直線的な価値観にとらわれる。そういうデザインは、弱い。

丹保 僕は大学に長くいましたが、半世紀以上も前、留学した米国のシビル・エンジニアリング学科には、経済学、生物学、素材学の教授たちがいましたよ。土木一辺倒じゃない。

山岡 多角的なアプローチのほうが、学びは深まりますね。

丹保 そうです。近代というのは科学技術の文明です。違った表現をすれば、真似ることが学ぶこと。日本では大学の4年間で決まった範囲しか学ばない。米国の大学は、社会人がどんどん入ってきます。社会で経験を積んで大学に戻るから、全体のレベルが上がります。

山岡 日本の製造業が元気だったころ、新卒の学生を会社は全人的に鍛えるしかない、とモノづくりの大部屋に叩きこみました。エンジニアや営業、技能士、デザイナーや購買が一緒になって「知識創造」をして、モノをつくった。そのなかからイノベーションが起きて、市場を変革しました。大学教育の実践編を企業が担っていました。

丹保 そのときに、企業は大学を利用しなかったのですよ。なぜ、米国の大学が世界で1、2のレベルにあるかというと、そのときに大学を使うんです。工学系では、世界で一番優秀なのはカリフォルニア工科大学、次がハーバードかMITですが、企業で経験を積んだ人が、ポスドクとして大学に勉強しにきている。博士号を取った上で、別の勉強をする。だからレベルが高いんです。

山岡 科学技術、あるいは学問というのは、さまざまな刺激を受けて、単純に直線的に上昇するのではなく、スパラル状に向上します。そういう道筋を大切にしてほしい。

丹保 おっしゃるとおり。歴史も、必ずスパイラルです。そして、この伸びしろが学問の進歩なんだと思います。基本的には、クローズとオープンで、歴史も回っています。閉じたり、開いたりの連続です。縄文時代から、古代、中世、近代、そしてまた新中世。「閉じた代謝と開いた心」の文明が始まるかもしれません。文明を支える技術は、すべて違います。しかも、伸びしろがあります。伸びしろは、人が増えるからできます。アイヌの人は確かに自然と共存していました。そのころのアイヌの人の人口密度は1平方キロに0.5人。いま、北海道には1平方キロ60人が住んでいます。日本全体では350人。東京では6000人を超えています。これでは、アイヌの人と同じ文明では暮らせません。地球の人口が100億人を突破するまで、あと80年余りです。私たちの置かれている状態をしっかり認識し、将来ビジョンを議論しなくてはならないでしょう。

2013年9月15日日曜日

第9回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(前編)

対談日:2013年6月28日  於:土木学会会議室


丹保憲仁さんプロフィール
1933年北海道生まれ。工学博士。1957年北海道大学大学院工学研究科土木工学修士課程修了。北海道立総合研究機構理事長。第89代土木学会会長。北海道大学総長、放送大学長などの要職を歴任。
専門は環境工学、著書に『人口減少下の社会資本整備-拡大から縮小への処方箋』(2002年、土木学会など。)









■2100年、世界人口が100億人を突破したら「近代」が終焉

山岡 水の循環、環境システム分野のオーソリティである丹保憲仁さんは、文明史的観点から地球の近未来に警鐘を鳴らし、近代の終焉、文明転換の必要性を説いておられます。バブル期にデザイン界がもてはやしたポストモダン論などとは次元の違う、本質的な問題提起だと思います。まずは、そのあたりから、お話をお聞かせいただけますか。

丹保 この図が、今日お話したいことの根本にあります。


西欧は産業革命後、西暦1700年ごろから中世に別れを告げ、近代へと入ります。蒸気機関、内燃機関が発明され、石炭、石油の化石燃料をエネルギー源として大量生産、大量消費のパターンが世界に広まりました。食料が増産され、列強諸国は海外に植民地を求め、人口が爆発的に増えます。北海道立総合研究機構の研究者に「そもそも現生人類は、紀元前1万年くらい前から現在までに何人ぐらい生まれたのか。西暦1800年以降の近代が始まってから今日までにどのくらい生まれたのか」と問いかけて、推算してもらいました。

山岡 文明史的に人口増加の変化を推定したわけですね。

丹保 すると、生まれた現生人類の総数は1050億人ほど。そのうち紀元前1万年から西暦1800年にかけて、つまり1万年以上かけて誕生した数は700億人ほど。これに対して、近代に入った1800年以降、わずか200年少々で生まれた数は、なんと350億人ほど。近代以降は、それ以前と比べて平均して年間25倍ほどの勢いで増えていることになりそうです。

山岡 今後、日本は人口が減っていきますが、中国、インド、アフリカを中心に世界人口はしばらく増加し続けますね。

丹保 2100年に100億人に達します。ここで僕は近代文明が終わる、と思います。その終わり方がカタストロフィーなのか、そこから少しずつ人口を減らしてじりじりと違う文明へと移行するのか、わからない。大変なことが起きる予感がします。たとえば地球の水の総量と、世界総人口の大きさを比べてみましょう。100億人になれば、世界人口10億人の時代に西欧でつくられた近代上下水道システムを使い続けるのは難しくなるでしょう。100億人超の時代がきても、1人1年間2000m3ほどの水がなければ食物生産を含む生存のための需要は満たせません。できれば2000~3000m3の水が欲しい。1000m3の極限量に世界人口100億人を掛けると世界の総降水量の15%が必要となる。常識的にはその2倍が恒常的な農業生産の維持に必要なので、総降水量の30%が必要になります。これでは、インド亜大陸、中国本土、中近東、アフリカ乾燥地帯では近代の水システムを未来にわたって使うのは困難です。まったく異なる水利用/循環のシステムが求められます。

山岡 水と並んで、従来型のエネルギー資源も枯渇の壁にぶち当たりますね。

丹保 いま、現代人は、化石エネルギーに核分裂型の原子力エネルギーを併せ持って、人類史上初めて、そしておそらくただ一度の最大量と思われる105TWh/年ほどの非再生型エネルギーを使って、地球規模で高速大量輸送技術に支えられた大量生産、大量消費の日々を営んでいます。しかし100年も経てば、化石燃料や核分裂(ウラン235型)によるエネルギー供給は難しくなります。次の集中型エネルギー源に核融合がくるのでしょうか。100億人超の地球を支える再生可能な新自然エネルギー時代を、現生人類は、エネルギー・イノベーションで、いつ、どのような規模で迎えるのでしょうか。社会構造を変えて成長型の近代文明を止揚し、はびこりすぎた人類の数と過剰資源消費を漸減させ共生の新文明にたどり着く前に、滅亡の危機に合わないで済むのでしょうか。大切なのは、100億人超の時代とその先の後近代に向けて、論点を絞りながら検討を進めることです。


■最後は腹を切る覚悟で西欧技術を身につけた近代の父たち

山岡 人口爆発に従来型システムでは対応できない「近代の崖」にわれわれは追い込まれているようです。が、一方で私たちの思考は1900年ごろの「坂の上の雲」を追った当時の開放型、膨張型のパターンに慣れてしまっています。グローバル化した市場での競争が死活問題と信じ込み、ついそのような近代的パターンを志向しがちになります。

丹保 日本が明治維新後、わずか数十年で近代システムを取り込み、西欧列強に対抗する国家になったのは、近代の礎をつくった世代が「サムライ」だったからです。たとえば後藤新平(1857~1929)、内村鑑三(1861~1930)、新渡戸稲造(1862~1933)、彼らはそれぞれの分野で日本の近代化を推し進めたキーパーソンですが、少年期には、ちょん髷つけて漢籍を学んでいます。根っこの精神は近代でも何でもない。根性はサムライで、最後は腹を切る覚悟で、西欧の新しい技術やしくみを身につけようと猛烈にがんばった。だから、強い。後藤新平なんて、相当に過激なことをしていますね。

山岡 ええ。台湾で民政長官を務めていた初期には、日本の統治を受け入れようとしない人たちを大勢殺しています。後藤自身がそう言っている。あるいはアヘン政策、敵対する言論への弾圧など、凄まじい行動をとっています。最後は、政治の倫理化運動のために脳溢血で死ぬのを覚悟で岡山へ演説に赴く列車のなかで倒れ、京都で亡くなりました。

丹保 腹を切る覚悟で生きているから、近代化をあんなに速く達成できたのです。新渡戸の同級生に廣井勇(1862~1928)という「港湾工学の父」と呼ばれた土木技術者がいます。小樽港や上海の築港に辣腕をふるい、多大な業績を残しています。彼は、自分が設計した橋梁の上を、列車が試運転する「渡り初め」のとき、橋のたもとで震えていたというんです。そのくらい自分がやった仕事が怖かった。彼らが幼少期に習った学問と、西欧近代技術というのはもの凄いギャップがありました。だから緊張し、緊張に耐えて、技術を採り入れた。パイオニアは、自分のやったことを自分では評価しないものです。震えながら他人の評価を受け入れる。そういう姿勢がまた緊張感を生むのでしょう。

山岡 なるほど。かつて福沢諭吉が『瘠我慢の説』という本を書き、勝海舟を批判した際、事実誤認や訂正があれば教えてくれ、と草稿を勝に見せました。すると勝は、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候」と応えた。出処進退は自分で決めること。その善し悪しを論じるのは他人の仕事。どんな評価を下していただこうとも、まったく依存はございません。送ってくださった草稿は、(おもしろいので)このままいただきたい、と切り返した。福沢も福沢なら、勝も勝です。

丹保 やはりサムライなんですね。

■世界に例のない東海道メガロポリスと海洋開放系

山岡 日本は戦争に敗れ、国が破綻しましたが、戦後の復興、高度成長にはサムライに薫陶を受けた世代がまだ生きていました。戦後の経済発展をどうとらえればいいでしょう。

丹保 日本という国で、ふつうに太陽エネルギーだけで生きていける人口は4000万人です。日本列島を潜水艦に囲まれ、封鎖されても4000万人なら飢え死にせず、喧嘩しないで生きていけます。ところが、現実は1億2500万人。8500万人も過剰です。これだけの人口が生きていられるのは、東海道から山陽道、北九州に至る沿岸部に、千葉、東京、川崎、横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡とメトロポリスが連なり、世界最大(断突)の東海道メガロポリスを形成しているからです。海岸線にこんなに巨大都市が連なった例は、世界にありません。世界中見渡しても、半径50キロを超えるメトロポリスはない。水を運んで、下水に捨てて、ゴミを処理して、都市交通体系で通勤できる都市を造ったら半径50キロ圏になってしまう。それを超えそうになるとパリでもニューヨークでも衛星都市をつくる。ところが、日本は、太平洋岸に串刺しのようにメトロポリスを連ねました。

山岡 そして、太平洋ベルト地帯に工業生産が集中しました。

丹保 石油、石炭、鉄鉱石など原料はすべて大容量の船で海から運んできて、大量にものを製造しました。だいたい50兆円ほどの原材料を輸入し、50~60兆円ほどの輸出をして貿易黒字を出してきた。現在は、円安と石油・天然ガスなど輸入燃料の価格高騰で貿易赤字になっていますが、おおよそ日本のGDPは約500兆円で、貿易依存度は10~15%少々。じつは、ものすごく内需の大きな国です。イギリスは外需の割合が15%、ドイツが40%、韓国は50%ちかいですね。東海道メガロポリスは、膨大な内需と外需を支える生産地帯。土木は、インフラを構築することで、その大都市帯建設に貢献してきました。海を介して、外へ開き、大量のものを運ぶシステムが機能してきたのです。

山岡 日本の強みは海を媒介にできる点です。列島が南北にのび、海岸線が長い日本は、領海と、沿岸から200カイリの「排他的経済水域」を合わせた海の広さが447万平方キロメートルと世界6位。しきりに太平洋へ出ようとしている中国の場合、領海と排他的経済水域を足しても89万平方キロメールと、日本の約5分の1です。

丹保 中国は、歴史的に鄭和(1371~1434)の遠征以来、しきりに海洋へ出ようと試みましたが、本質的に大陸国家です。いくら経済発展してきたからといって、日本のように沿岸部にずらりとメトロポリスを建設することはできません。北京の港は天津、そこから上海まで沿岸部に大都市はできない。大艦隊を建造して、太平洋に出てきても、運べる資源がもうすぐなくなる。アフリカが成長したら中国に資源を渡さなくなるでしょう。

山岡 中国は2030年に14億超で人口のピークを迎えるといわれていますが、かつて日本がたどった近代化コースをもの凄いスピードで走ってきています。

丹保 中国は、いまのうちにきちんとインフラを造っておかないと、高度成長を維持できなくなったとき、社会不安が増大します。大陸や半島での動乱で、大量の難民が日本に押し寄せてきたら、大変な事態になるでしょう。

山岡 日本の高度成長途上では、交通インフラも動脈としての役割を担ってきました。

丹保 なかでも東海道新幹線は、世界で初めて人間しか乗せない高速鉄道として産声を上げました。人間しか乗せないのだから、新幹線は情報系なんですよ。東京―大阪間を日帰りできるほどの高速で人間が行き交い、情報を創造することで高度成長は達成できたともいえるでしょう。

■ポスト近代「閉じた代謝と開いた心」へどう転換するか

山岡 東海道メガロポリスの産業集積は、海の向こうに開いて、1億2500万人の人口を支えてきたわけですが、さぁ、あと80年少々で、世界人口が100億人を突破します。一方で、日本の人口は7000万人くらいまで減ります。日本が22世紀もしっかり生き延びていくには、どのようなパラダイムの転換が求められるのでしょうか。

丹保 ひょっとすると、長い歴史時間の中で、中華文明の下流に位置する日本が、近代を駆け抜けて、一番先に脱近代のチャンスをつかめるかもしれません。縄文以来で初めて、この列島の住人が、世界の次の文明をリードするチャンスを得るかもしれない、と思います。ふり返れば、近代以前の中世は、水や食物、エネルギーの代謝が一定の範囲で閉じ、人びとの心も宗教的規範に従って閉じていました。宗教的規範に忠実に生きる人が、尊敬を集めました。近代は、逆に代謝を開放し、人の心も開放させました。宗教に代わって経済が価値の中心に移って、市場の拡大を善としてシステムが増殖したのですが、それだけでは世界が立ち行かなくなる状況が次々と近代社会を揺さぶり始めます。日本は、世界に先駆けて「閉じた代謝と開いた心」を持った新文明へと転換する成熟度と実力を兼ね備えています。分散自立型都市代謝システムの確立と自然生態系の安定確保がポイントです。

山岡 具体的に、たとえばインフラの整備はどうとらえればいいでしょう。近代150年かけて築いたインフラが老朽化の波をかぶりながら、広範囲にちらばっています。

丹保 思い切ったスケールダウンは必要でしょうね。それと自然とのジョイントをいかにうまくするか。地中にパイプも電線も入っていますけど、それをうまく使いながら、質が若干劣っていてもいいものは、そのまま使う。質の高いものにだけ投資をする、とか。
電力や水、食べ物にしても、質によって使い分けるのが次のテーマだと思います。日本は一番質のいいものを、必要な量だけ供給する近代のぜいたくを尽くした末に、その過剰インフラ構造の保全更新に困難を感じ始めているわけです。現在、日本の食料自給率はカロリーベースで40%ですが、コストベースでいくと70%ちかい。すごく高いものを食べています。食べ物を買えるときは買ってもいい。自給だけを目的に社会を動かすとおかしくなります。しかし、アメリカ・オーストラリア、ロシア・ブラジルが食べ物を売ってくれなくなったとき、どうするのか。中国がもしも人口減少に失敗してね、海外の食べ物にどんどん手を伸ばしてきたら、どうするのか。そこを考え、実行するのは為政者、経世学者の仕事ではないでしょうか。まぁ、インフラ施設は50年かけないと格好がつきません。100年かからないとモノになりません。上下水道にしてもそうです。だから、慌てないこと。ボロボロになったら、手を加えて使えるところだけを使っていればいい。

山岡 情報系とおっしゃった新幹線は、東海メガロポリスだけでなく、東北、上信越、北陸、九州、さらに北海道へと延びようとしています。地方でも情報系の効力は生きますか。

丹保 いや、まったく違うものになるでしょう。東海道では、経済的闘争のために新幹線を10分に1本走らせていますが、北海道や九州では1時間に1本で十分です。人だけを運ぶのではなく、収穫された労働集約型の高級農作物を積む軽貨物車輌をひとつくらい連結して、関東地方に運んで配ってもいい。朝積めば、昼には関東のマーケットにくるでしょう。

山岡 自然とのジョイントもポイントと指摘されましが、どういうイメージですか。

丹保 川で言えば、利根川も隅田川も上流から下流まで泳げるようにする。全部、泳げるように再生する。永代橋のたもとあたりで、とぶーんと飛び込んで水泳大会をしてもいい。江戸時代なんて、そんな感じでしょう。川の上下流(流域)で、江戸の諸藩はまとまりをもって郷国を作り上げてきました。川はその要です。

山岡 都市の構造そのものが変わるのでしょうね。

丹保 これは乱暴な意見かもしれませんが、日本人は22世紀初頭に7000千万人に減っても、グリーン自立には2000万人くらい過剰です。そこで日本を二層構造にして、東京をシンガポールのような経済特区する。そして2000万人の経済戦士に東京圏に住んでもらう。特区ですから、税金のかからないフリーマーケットにして、電力も水も食料も、他地域からお金を払って買ってもらう。東京はグローバルな競争に勝ち抜くための戦士の集団と化す。そして闘いに疲れたら、北海道にきて休んでいただく(笑)。

山岡 人口7000万人社会を前に、どんなビジョンを描くかが大切ですね。東京の話で思い出しましたが、ご著書の『都市・地域 水代謝システムの歴史と技術』(鹿島出版会)によれば、首都圏の水資源量は極端に少ないのですね。

丹保 世界で住民一人当たりで最も水がないところは、年間1000m3/人程度しかないサハラ砂漠以南のサブサハラアフリカです。年間1人1千トンの水で、辛うじて生存を維持しています。その次に少ないのが、日本の関東地方なんです。4000万人もの人が集中していて、GDPはフランスより高く、経済活動で水を使いまくっています。関西には琵琶湖がありますが、関東は利根川上流に、大量に溜めておくところがない。

山岡 関東圏はいつ水飢饉が起きても不思議ではないのですか。水の代謝を維持しようとしたら、周辺にたくさんの水甕(ダム)を造らなきゃいけなかったのですね

丹保 はい。雨はコンスタントには降りませんね。ふだんは水が足りなくても、大雨が降れば洪水が起きる。ある程度溜めておかなければいけません。それで利根川上流に20幾つものダムが造られたのです。

山岡 では、後半は、水の循環、上下水道のシステムに話題を移したいと思います。
(後編に続く)

2013年8月31日土曜日

第8回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(後編)

■土木技術者の仕事師はマネジメントができる

山岡 前回は戦前~戦後、高度成長の華・東海道新幹線の建設に至る鉄道事業の流れを歴史の証人として語っていただきました。今回は、経営者の視点で鉄道事業をふり返ってもらいたいと思います。なかでも国鉄改革、分割・民営化の渦中で総裁に就任され、改革に尽力されたことは現代史のエポックでもありました。
 まずは、公共事業とマネジメントについて、どのようにとらえればいいでしょうか。

仁杉 土木技術者の本当の仕事師というのは、マネジメントができる人です。技術者もマネジャーでなければと思います。古い話になるけれど、1959年12月末、僕は国鉄の名古屋幹線工事局長に就いて、名古屋に赴任しました。夕方、名古屋駅に着く特急で行ったら、迎えは総務課長を含めてたった3人。人がいなかった(笑)。局長が先に決まって、他の職員はまだ職務発令されていなかった。その晩は、事務所の当直室みたいな所に泊まりました。
 局長で着任したのはいいけれど、全然、体制も整っておらず、人を集めるところから始めました。当時は、名古屋でも鉄筋コンクリートの建物はほとんどなくて、伊勢湾台風(59年9月)で傾いたままの大きな家が城山にあったので、そこを借りて、幹部の宿舎にしたんです。賄いのおばさんを頼んでね。

山岡 名古屋は新幹線建設の要所ですよね。工事局の人はどこから集めたのですか。

仁杉 一番たくさん出してくれたのが下関と岐阜の国鉄工事局、名古屋や金沢の鉄道管理局、東北、北海道、大阪など全国から集まってきました。事務所がないものですから、名古屋鉄道管理局に頼みこんで、管理局の五階の講堂に事務所を置かせてもった。講堂だから、大部屋も大部屋(笑)。仕切りが何もなくて、だだっ広いところに、幹線工事局に集まった約300人のうち現場に出ている人以外の100人あまりが机を持ち込んで、作業に当たりました。こういう体制づくりは、大学の先生が黒板に何か書いて教えるのとは違います。人を集めて、寝泊まりできる場所を確保し、彼らを働かさなきゃいけない。しかも国鉄のなかの人だけでなく、外の人もいる。大切なのは、マネジメント。そういうことを知っている土木技術者は、非常に少ない。そこを教えなきゃいけないのだけどね。


■用地買収の難しさ~相手を説得することが不可欠

山岡 新幹線の建設では、用地買収も大変だったと聞いています。

仁杉 名古屋の幹線工事局の範囲内では、戦前に計画された弾丸列車の用地として、豊橋から蒲郡あたりまで土地を買ってありました。終戦後、返還運動も起きましたが、売り戻さず、耕作を認める形で処理していました。新幹線は、ほぼこのルートを走ることになり、東京―名古屋間は概ね決まりました。ただし、1964年10月の東京オリンピックまでに新幹線を開業させねばならない。それが至上命題でした。

山岡 沿線の家々と土地の売買契約を結ぶわけでしょ。膨大な交渉ごとになりますよね。

仁杉 国鉄が実際に一軒、一軒と交渉していてはとても間に合いません。そこで沿線の各市町村に対策委員会のようなものをつくってもらい、協力していただきました。各市町村や県会議員、国会議員の方々にずいぶんお願いに上がり、汗も流しましたね。

山岡 いまでも語り草になっているのが、名古屋から関ヶ原のルートの選定です。名古屋を出た下りの新幹線は、枇杷島、清州あたりまで、しばらく東海道線と並行に北上します。その後、南へカーブして、稲沢市、尾西市の外れを通って「岐阜羽島駅」を経由し、大垣市、垂井町を通過して、ふたたび東海道線と少し並走して関ヶ原に至る。このルートは、どのようにして決定されたのでしょうか。

仁杉 当初は、もっと南の、名古屋から岐阜羽島より南の桑原を通って、まっすぐ養老山系に向かい、北東に曲がって関ヶ原へ抜けるルート案が考えられていました。ルート案に沿って、本社の職員がある程度、杭を打って歩いていた。この案では、名古屋と関ヶ原の間に駅を設ける計画はなかったんです。ところが、岐阜は、自民党の党人派の大御所、大野伴睦さんの地元です。大野さんから「何だ。俺のところを通りながら、駅を造らないとは」とお叱りを受け、桑原に駅を置こうとなったんです。すると、こんどは岐阜県知事の松野幸泰さんが、「あんな南のほうへ線路をもっていかられても困る、もっと北へあげてくれ、そうでなければ協力しない」と言いだした。

山岡 岐阜側は、もっと北へと要望したのですね。歴史的に徳川家の親藩御三家のひとつ「尾張(愛知)」と、北の「美濃(岐阜)」には対立感情があったようですね。特に木曽三川の治水をめぐって、堤防で守られた愛知側に対し、岐阜側は反感を抱いたとか。『仁杉巌の決断のとき』(大内雅博編/交通新聞社)を拝読すると、愛知県と岐阜県のルート争いは、知事どうしで話し合えず、国鉄本社も交渉できない、とありました。尾西市の市庁舎には「新幹線関係者立ち入り禁止」の横断幕が張り出されていたそうですね。

仁杉 そうです。「立ち入り禁止」とやられては、入っていくこともできません。しかし、入らないと仕事は進まない。相手の気もちをつかむのは大変でした。あるとき、あの周辺に大水が出てね。消毒に石灰が必要なのだが、運ぶことができなくて地元が弱っていると言ってきた。表面的には立ち入り禁止でも、話し合うパイプはつないでいた。なんとか石灰を持ってきてくれ、とSOSが入った。そこで、貨車に石灰積んで、東海道線の稲沢駅まで運んで、地元に持ち込んだ。それを契機に「国鉄は一生懸命やっているのだから、あの横断幕だけはとろうよ」となって、堂々と交渉ができるようになった。
なかなか話し合いの席に着いてくれない県会議員の先生もいましたね。ある日、その先生の家に不幸があったことを新聞で知った。日曜だったけど、担当者にすぐに香典を持って行け、と命じた。すると先生は「おお、来てくれたか」と迎えてくれました。先生も公共事業に反対しているけど、内心、忸怩たるものがあったんだね。きっかけさえつかめば、こっちを振り向いてくれる。そういうチャンスの芽をどう活かすかだ。こんなこと、大学の講義じゃ教えないね。公共事業への賛成や反対と党派はあまり関係ない。要は人ですよ。

山岡 世間は岐阜羽島に駅ができて驚いたけれど、さまざまな政治的、経済的力学を鑑みれば、岐阜羽島駅がベストだったと……。

仁杉 あそこ以外にありません。国鉄本社には伝えなくても、僕の腹は決まっていた。だから、あそこに収斂させるために、ああでもない、こうでもないと考えて、知事や市長、国会議員を説得して、了解をとったわけです。

山岡 利害関係者を説得するための勘所は何でしょう。

仁杉 向こうを説得すること。相手をバカにしては、ダメです。なかには話が通じない人もいますよ。でも、相手をその気にさせなきゃ仕事は進まない。俺は局長だ、所長だ、偉いんだというような顔をしたら、絶対にダメ。地元の有力者を探すのも大事だね。ボスのいないところはまとめにくい。ふつうは市長が実力者だけれど、議長という場合もある。そこを見極めて、しっかりつかまえなくちゃいけない。一番困るのは、自分の意見がハッキリしていない市長だ。道路なり、鉄道なり造らなきゃ、交通体系上、その自治体は困るとわかっていても、建設反対派の住民を敵に回したら選挙で不利になると考えて、なんとなく反対する市長がいる。そこをどうするか。腹のなかと言っていることが違っているケースもありますね。

■国鉄の赤字の主因は、都市部への莫大な投資を運賃値上げで回収できなかったこと

山岡 極論すれば、マネジメントは人間の気もちをどうつかむか。技術者も、ときには心理学者兼営業マンに変身しなくてはならないのでしょう。さて、1964年に東海道新幹線はめでたく開通します。東京五輪に間に合った。一方、国鉄は、この年から「赤字」に転落しました。そり後、坂を転がる雪だるまにように借金が増えて、国鉄改革待ったなし、となっていきます。素朴な疑問ですが、赤字の原因は何だったのでしょうか。

仁杉 投資に見合うように運賃水準を上げられなかった。運賃値上げをできなかったことが赤字が増えた要因ですね。世間の人は、国鉄の財政破綻の原因は赤字ローカル線の建設と思い込みがちだが、そうじゃない。大きな借金を背負ったのは、第三次長期計画(1964~68)での既設線の輸送の隘路の解消、つまり輸送力増強のための工事が主因。輸送の隘路というのはね、ほとんどが都市部にあって、地方にローカル線を建設するよりも、はるかに多くの金がかかる。用地代も、構造物も違う。いろんなものが高くなる。地方で1キロ当たり10億円でできる工事が、都会では100億円かかってしまう。
 たとえば、すでに地上に用地のある東京駅の広場の地下に総武線を乗り入れさせるために、丸の内側の地下に総武線用の地下駅を建設しました。現在の総武快速・横須賀線と成田エキスプレスが発着している地下ホーム。あれには莫大な金がかかった。あんなに金を注ぎ込んで大丈夫なのか、と思った。あれをつくって経営がうまくいくのか心配でした。かくも金のかかる投資をしながら、運賃値上げは国会で抑え込まれた。一方で、せっせと高い金をかけて、さらに線路がつくられる。運賃値上げは抑え込まれる。これじゃ破綻するのは当然だ。

山岡 運賃を上げられなかった要因は何でしょうか。政治家が公共料金の値上げを言えば、選挙で不利になるからでしょうか。

仁杉 運賃値上げは国民の反感を買うから、国会はなかなか承認しません。その背景では、鉄道省出身で、運輸大臣、総理大臣を務めた佐藤栄作さんは鉄道省出身のエースです。あの人が運輸大臣のころの国鉄運賃は確かに高かった。国鉄は金持ちでした。だから佐藤さんは国鉄には金がある。運賃は上げなくてもいい、という考え方を採ったという話があります。本当かどうか私には解りませんが、でも、時代とともにそうではなくなった。佐藤首相に対して、運賃を上げないと国鉄が潰れます、と直言する人が国鉄幹部にいなかった。鉄道省の大先輩に「運賃を抑えてはいけない」と正論をぶつける人がいませんでした。

山岡 官僚機構の序列の絶対性を打ち破れなかった。やはり政治ですね。佐藤栄作の後継者となった田中角栄は、どんな政治家でしたか。毀誉褒貶の激しい人ですが……。

仁杉 僕は田中角栄さんにはかわいがられて、いろいろやらせてもらいました。そのひとつに鉄道と道路の立体交差事業がある。鉄道の立体化工事は、だいたい費用の三分の一を鉄道が負担し、残りの三分の二を県や市町村が負担するのが原則でした。が、輸送力増強工事などで国鉄の台所が火の車になるのとは逆に地方都市が活気づいてきて、街の中心に国鉄が走っていると都市計画の邪魔になるので立体化してほしいという声が高まってきました。鉄道を立体化し、踏切をなくして道路を交差させたい、と言ってくる。
これは国鉄だけでなく、建設省、運輸省、それに自治省も絡むわけです。なんとかしようと国鉄で試算してみたら、踏切を取り除いて得られる利益のうち国鉄の分は一割程度しかなかった。メリットはさほど多くない。先に鉄道が走っていたところに道路が延びてきて立体交差を希望しているわけでしょ。それで事業費の三割も、四割も出せない。利益の九割を得る道路側、つまり建設省が立体化事業の金を出せ、と僕は要求したんです。そしたら、建設省は嫌だ、と。しょうがないから角さんのところに行って、こういう話です。建設省との話がつかないので、鉄道の立体化が進みません、と言ったら、うんわかった、とその場で田中派の道路族のボスに電話をしたんです。それで、道路特別会計から立体化事業の資金が出ることになりました。負担は、国鉄1割、建設省9割です。角さんは即断即決です。影響力も甚大でした。他の政治家には真似が出来ない。中国との国交回復も、角さんしかできなかったでしょう。ものすごい政治家ですよ。

山岡 アメリカとの関係をもう少し、うまく築いておけば……。

仁杉 惜しかったですね。戦後、仕事をした総理ではナンバーワン。もう少しスタッフをお持ちになったほうがよかった。孤立しちゃったね。

■国鉄総裁、退き際の「決断」とは……

山岡 仁杉さんは国鉄の常務理事を退任し、私鉄の西武鉄道の経営に当たられた後、土木学会会長、鉄建公団総裁を経て、中曽根政権下の1983年12月に古巣の国鉄に総裁として復帰されました。当時は、「財界の荒法師」と呼ばれた土光敏夫が会長を務めた第二臨時行政調査会(第二臨調)で国鉄の分割・民営化方針が打ち出され、大変な状況でした。国鉄を死守したい国鉄幹部、労働組合、運輸族議員、地方自治体などに対し、分割・民営化を熱望する国鉄の若手エリート、運輸省、経済界などが激しくぶつかり合っていました。分割・民営化の方針は示されたけれど、実行は至難の業。いわば渦中の栗を拾う形で総裁に就任されました。どんな気もちで政府からの要請を受けたのですか。

仁杉 ある日、後藤田正晴官房長官に急に呼ばれまして、「きみに国鉄総裁をやってほしい」と言われました。国鉄総裁に指名されたんです。辞退したい気持ちが強かったけれど、長い間鉄道で飯を食ってきながら、国鉄が大変な困難に直面しているときに、逃げだすわけにもいかない。西武鉄道のオーナー・堤義明さんの意見も聞いたうえで、引き受けました。次年度の予算も組めない状況で総裁に就任したのですが、僕自身は民営にするかどうかは負債や年金などの問題解決が前提になるので別問題としても、とにかく分割は必須と思っていた。

山岡 国鉄という組織が大きすぎる、と?

仁杉 職員30万人、北は北海道から南は鹿児島まで、ひとりの総裁が掌握できるはずがない。おまけに労働組合は、労使対立はもちろん、労労対立も激しくて、当局の言うことはきかない。現場と対話すらままならない。若手の課長クラスが「総裁、どうしたらいいでしょう。処方箋がありません」と言うので、とにかく日本には多くの私鉄があって主体的に経営している。そこにヒントがあるはずだ、と応えた。国鉄の全国の路線をA,B,Cのランクにわけて、それぞれ同じクラスの私鉄とくらべて、どんな運営をしているか勉強するところからスタートさせました。1984年の連休明けくらいにその調査がまとまった。その結果、トータルで18万人くらいの職員で十分という結論が出ました。

山岡 84年6月に記者クラブで講演をなさって、国鉄の財務状況などを説明したあとで、ご自身の意見を訊ねられましたね。「分割賛成」とお応えになって、国鉄内が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。仁杉さん以外の幹部は、ほとんど分割反対でした。

仁杉 副総裁以下、各常務は、いわゆる国体護持派でね、分割反対で凝り固まっていた。彼らの気もちの奥底には、前回の対談で、戦前の鉄道省から運輸省へと官僚機構が変わった経緯のところでお話しましたが、運輸省には負けたくない、そういう意識が根強く残っていた。根っこが官僚なのかねぇ。運輸省の言うことなんて聴けるか、というグループがいたんだな。上層部にも。一時的に騒いで、収まるかと思ったのだが……。

山岡 84年暮れには仁杉総裁の下で国鉄改革の「基本方策」ができました。しかし、第二臨調の答申を受けて国鉄改革を担当する国鉄再建監理委員会は、その案に反対しましたね。委員長の亀井正夫さんは基本方策を突っぱねました。

仁杉 監理委員会とは互いに原案を示し、フリートーキングする方向で亀井さんとも何度も話し合いました。しかし、監理委員会の案が遅れて、われわれの基本方策が先になり、ああいう形になった。あとで亀井さんは僕に丁寧に謝られましたよ。
一方で、国鉄の副総裁以下の常務には累積した20兆円の債務を担いだままでは再建は無理。債務を引き継いでくれるのは政府しかないじゃないか、と説得しました。だが、どうしても分割反対だという。事態を収拾するには「ショック療法」しかないと思い、自分が辞めるのと一緒に役員にも辞表を出してもらう策にいきついたのです。

山岡 マスコミは総裁更迭と書きましたが、随分前から仁杉さんの腹は決まっておられたのですね。

仁杉 85年の3月半ばには決心して、運輸省のごく一部の人には伝えておきました。その後、たぶん運輸省から話が洩れたのでしょう。政官界、マスコミの一部からそのような見方をされた。僕が辞める、辞めないなど、どうでもよかった。国鉄改革を前に進めるには、ある時期がきたら辞意を表明して、分割・民営化反対者も一緒に、と考えていた。やや柔軟性に欠けたかもしれないけど、自分でしまったとは思っていませんよ。僕は、どうも人とは違う考え方をしているようだ。うまく立ち回る人からみたら、ダメだろうな。だけど自分で考えたことを実行するには、言いたいことを言わなきゃいけない。

山岡 これからの土木、公共事業のあり方は、どう考えていけばいいでしょうか。

仁杉 だんだん本当のことを喋る人が少なくなってきたが、皆、フランクに、立場ばかり主張せず、日本としてこうあるべきという案をつくらなきゃいけません。作った案は変えてもいいが、土台がない。公共工事をやれと言うが、お金も人間も、材料も足りなくなって行きづまる。強靭化云々といっても、そこまで考えてないんじゃないか。
 震災で東北の海岸が壊滅的被害に遭いました。住居は仮でもいいが、真っ先に港、製氷会社、魚の処理工場などを再建して、人が働ける場所を確保すきべです。いくら高い防潮堤を造る、仮設住宅、復興住宅を建てると言ったって、住民が働けなきゃどうしようもないね。そこが出発点でしょ。私個人としてはそんな風に考えています。

山岡 いまだに建築基準法39条の災害危険区域指定に難航して、復興が進んでいないところがたくさんあります。

仁杉 決断が大事です。そして、一度決めたらどんどん下に任せる。そして、最後は俺が責任を持つ、俺についてこい。そういうリーダーが必要なんだ。

2013年8月15日木曜日

第7回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(前編)

対談日:2013年5月21日  於:土木学会会議室

仁杉 巌さんプロフィール
1915年東京生まれ。工学博士。1938年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。鉄道省入省。鉄道技術研究所、大阪工事事務所、名古屋幹線工事局長、東京幹線工事局長、本社建設局長、常務理事、第66代土木学会会長、日本鉄道建設公団総裁、日本国有鉄道総裁。西武鉄道取締役社長、FM埼玉取締役社長、FKK取締役最高顧問などの要職を歴任。
専門はコンクリート、鉄道マネージャー、著書に『挑戦 鉄道とコンクリートと共に六十年』(2003年 (株)交通新聞社)など。








■戦時下、松花江に「舟橋」を架ける特殊任務

山岡 今回は、ゲストに鉄道界の重鎮、仁杉巌さんをお迎えしました。戦中に鉄道省へ入省されて以来、敗戦後の混乱、公共企業体としての国鉄の発足、東海道新幹線の建設、そして激動の国鉄分割民営化の渦中での総裁就任、さらには民間の西武鉄道の経営と、総合的に鉄道事業に携わってこられました。まさに昭和、平成の鉄道史の生き証人です。「8月15日」という歴史をふり返る重要な節目に仁杉さんのお話を掲載できるのは光栄です。
 いろいろお聞きしたいのですが、そもそも鉄道と関わられるようになったのは、1936(昭和11)年の夏、東大の土木工学科2年のときに「南満州鉄道株式会社(満鉄)」へ実習に行かれたのがキッカケだったとか……。

仁杉  そうそう。船に乗って、大連に着いてね。内地にはない超大型の石炭埠頭が見えて、いよいよ満洲に来たなぁ、と興奮したものです。満鉄本社を訪ねると、白城子(現・白城市)という大興安嶺山脈の麓の街の建設事務所に行くことになった。当時、満鉄が世界一と自慢していた、時速130キロの特急「あじあ号」で四平街(現・四平市)へ出て、チチハル行きに乗り換えて白城子で降りました。蒸気機関車が牽引する「あじあ号」に冷房がついていたのに驚いたな。実習地はね、白城子からさらに西へ300キロ入った大興安嶺の頂上付近、長さ2キロのトンネル建設現場でした。そこで一か月実習したんです。

山岡 かなりモンゴルに近いところでは?

仁杉  そうです。山頂の向こうは内蒙古の草原で、ハロンアルシャンという野天の温泉地があった。そこから西へ100キロぐらいのところがノモンハン。

山岡 関東軍がソ連軍に惨敗を喫した「ノモンハン事件」(1939年)の舞台ですね。仁杉さんはノモンハン事件の3年前にハロンアルシャンを見ておられるわけですが、日ソ間の国境紛争が起きそうな兆しはあったでしょうか。

仁杉  いや。ハロンアルシャンには掘立小屋みたいな湯治場が並んでいて、ハイラルから来たロシア人がのんびり過ごしていた。まだ緊張感なんて感じなかった。

山岡 大学を卒業して、鉄道省に入省されました。

仁杉  満鉄に入ろうかと思ったんだけど、父は一人息子が外地に出るのに賛成しなくて、鉄道省を受けて採用されました。当時の日本の鉄道は、狭軌(1,067mm)の全国網が一応出来あがりつつある状況だった。難所の丹那トンネル(熱海~函南間7,804m、1934年開通)、清水トンネル(群馬~新潟県境9,702m、1931年開通)が完成し、鉄道の土木技術者は、さぁ、次は何をしよう、とわいわいやっていた。そこで浮上したのが「弾丸列車計画」。東京から大阪、下関、将来は関釜連絡船で玄界灘を渡って、釜山に上陸し、さらに朝鮮総督府鉄道、満鉄とつないで欧州へ、という壮大な計画だ。列車が大陸に渡っても、そのまま使えるように標準軌(1,435mm)でやろう、と賑やかに議論していた。僕は、研究所の設計課のコンクリート係に配属され、ドイツ語の原書を読んだりして、苦心惨憺、鉄道橋の設計に取り組みました。

山岡 日中戦争は、もう始まっていますね。戦争の影がどんどん伸びているころですね。

仁杉  それで1939年1月、鉄道連隊へ幹部候補生として入隊したんだ。鉄道連隊は千葉県の津田沼町(現習志野市)にあって、いま日本大学生産工学部のキャンパスになってる。

山岡 鉄道連隊の任務は、鉄道の敷設ですか。

仁杉  敷設は従で、戦地で機関車を動かしたり、枕木を敷いたりもするのが主だったね。入隊して、最初の四か月は一般兵と一緒に重たい枕木を二人一組で運んでレールに落とし、犬釘で打ち付ける訓練ばかり。その後、試験を受けて、僕は甲種合格だったので見習士官に昇格しました。入隊わずか11カ月で一兵卒から将校に変わった。一般社会じゃ考えられない。それから幹部候補生の教官を務めました。

山岡 戦地へは?

仁杉  1941年6月に鉄道連隊が満洲に派遣されることになり、僕もそのなかに入った。じつは、われわれの大隊は、鉄道の仕事から離れて、特殊な任務に就いてね。ソ連との開戦を想定して、松花江に「舟橋」を架ける作業に1年半もかかりきりになった。

山岡 舟橋ですか?

仁杉  上流から大きなボートを流して、二つを組み合わせて繋いでケタを架けるんだよ。日ソ戦が始まれば16トン戦車を通せる強度の舟橋を黒竜江にも架ける任務を与えられていたので、どこにも動かず、舟橋づくりに没頭していたわけだね。

山岡 貴重な証言ですね。日本とソ連は1941年4月に「日ソ中立条約」を締結し、ソ連は対ドイツのモスクワ防衛戦のために極東部隊を西へ移動させていた最中ですよね。いわば緊張緩和の状態です。でも関東軍上層部は、中立条約なんて全然信じていなかったんだ。

仁杉  関東軍総司令官の梅津美治郎が、わざわざ舟橋のようすを検閲にきたよ。僕らは対ソ戦が始まったら、飛行機でやられてダメだと思ったけど、そんなこと言っても仕方ないからね。鉄道連隊の仲間のなかには、中支や、南方に送られて、亡くなった人も大勢いる。舟橋をつくっていたお陰で、僕らは生き延びられた。1943年に兵役を解かれ、鉄道省の研究所に戻って、吉田徳次郎先生に弟子入りして、PSコンクリート(プレストレスト・コンクリート)の研究を再開しました。


■国鉄の「本家」意識と東海道新幹線の夢

山岡 戦中は、物資も資金も人も足りず、ご苦労されたことでしょう。

仁杉  PSコンクリートは、まず枕木の材料として考えられました。将来、橋梁に使うなんて想像もできなかった。戦争中は哀れなものでね、セメントも砂利、砂もプレストレス用の鋼材材料もない。それで当時、先輩が担当していた信濃川発電所が工事をやっていて、お願いして、貨車に材料を積んでもってきた。そこからPSコンクリートの枕木の原型ができたんだよ。

山岡 長い戦争が敗戦で終わりました。やはり、虚脱状態のように……。


仁杉  研究所には、もう何もないし、運輸省の施設課に移って、行政に携わるようになりました。新線建設のチェックなどをしたね。1949年に運輸省から日本国有鉄道が分離すると、東京鉄道局施設部工事課長を拝命し、戦災の復旧事業にとりかかった。

山岡 国鉄の発足当時、旧鉄道省出身者には、自分たちが鉄道行政を司る「本家」であり、運輸省が監督官庁になることに反感を抱く人もいたとか……。

仁杉  ハッキリ言って、もとは鉄道省なんですよ。鉄道省のなかに私鉄の監督局とか、運輸省がその後やるような仕事も入っていたんだよ。それを、運輸省を国鉄の監督官庁みたいにした。おれのほうが偉いのに何だ、運輸省は、という空気はあったと思います。だけど、まぁ歳月が経てば、運輸省は運輸省、国鉄は国鉄。とにかく、公共企業体として鉄道事業を行い、路線をつくるのは僕らだからね。時の流れが解決したと思いますよ。

山岡 国鉄は、政治的判断もあって、外地からの引揚者を大量に雇用しました。職員数は、50~60万人にも達しています。それが後々の赤字につながりますね。

仁杉  満鉄や朝鮮鉄道、中支の鉄道などに勤務していた人が帰ってきたら、原則として国鉄に入ったんですよ。

山岡 国鉄発足のタイミングで、「下山事件」あるいは「三鷹事件」「松川事件」が起きます。時の下山貞則国鉄総裁が誘拐後、轢死体で発見されたり、無人の電車が暴走したり……。この当時の国鉄の空気って、どんな感じだったのでしょうか。

仁杉  下山総裁がいなくなったのは、その日の夕方にわかった。翌日未明に死体が発見されたけれど、何がなんだか見当もつかない。土木屋の僕らより、車輌屋や保線屋のほうが詳しいだろうが、自殺説、他殺説、どちらの可能性もあった。わからなかったね。

山岡 ああいう事件が日々の仕事に何か影響を与えましたか。

仁杉  現場では、とにかく毎日、汽車を動かすだけで大変だった。列車の窓に板が打ちつけてある状況だよ。いまのJRからは想像もできない。そこに外地から戻った人がどっと入ってくる。そりゃね、ああいう事件は起きちゃいけないけど、あの混沌からすれば起きても不思議じゃなかった。われわれは、早く、この混乱から脱却して、新しい鉄道を打ち立てたい。安全で快適な鉄道運行を実現したい。そういう意識のほうが強かった。突っついてもわからない事件は事件として、それよりも早く鉄道事業を再建して、お客さんにいいサービスしたい、と思ってたな。国鉄ができて、10年ちかくは戦災復興に追われた。車輌も線路も悪かった。敗戦の痛手はそのくらい続きました。そして、新しい鉄道のひとつの目標として浮かび上がったのが東海道新幹線だったんです。

■頭のなかで新幹線を走らせていた天才技師・島秀雄

山岡 東海道新幹線建設の立役者は、十河信二総裁と、親子二代の国鉄マン・島秀雄技師長だと言われていますが、仁杉さんは島さんの下におられたのですね。

仁杉  そうです。1955(昭和30)年に東海道線の輸送力増強をどうするかの議論が始まって、そこから新幹線へ向かう。島さんなくして、新幹線はなかった。技術的には、島さんの頭のなかには現在の新幹線の構想があったと思う。こんな列車で、こんなふうに走るのだと、島さんの頭のなかにしか、それはなかった。たとえば動力分散型にするとか、交流電化、下り坂では電力を吸い上げるとか、安全装置はどうとか、すべて島さんの頭にあった。当時はわからなかったが、後で考えるとそうとしか思えない。全体像があの人にはあったんです。

山岡 島氏は、まるで頭の中で新幹線を走らせていたようですね。いつ、それを確立したのでしょうか。

仁杉  彼の生い立ちから考えなくちゃいけない。関西鉄道出身の親父さんも技師で1,435mmの標準軌道論者です。狭軌ではスピードが上がらないし、外国から車輌を輸入すると後で改良しなくてはいけない。だから標準軌だ、と主張しておられた。息子の島さんは、そういう意見を聞いて育っている。おまけに頭がものすごくいい。天才的だ。六ヶ国語を喋ったといいます。親父にくっついて欧米諸国に行っているから、鉄道のことは何でも知っている。それで、海外の進んだ点を、日本で真っ先にやってみたのが、交流電化です。フランスの技術を参考に、仙山線を筆頭にあちこちでやった。新幹線への布石を打っています。電車に動力を分散するのも、小田急鉄道から特急車輌を借りてきて、東海道線で動かしているんです。国鉄のOBのツテで小田急から電車の車輌を借りています。

山岡 国鉄と私鉄じゃ垣根がありますよね。

仁杉  その動力分散型の車輌を設計したのは国鉄の人だったし、小田急も渋い顔をしたわけではないが、島さんは私鉄に頭を下げてでも手を打つ立派な人でした。

山岡 島氏は、1951年に国鉄の桜木町駅構内で起きた列車火災事故(桜木町事故)の後、一度、国鉄を退職していますね。そのシコリのようなものはありませんでしたか。

仁杉  あの事故には二つの問題がありました。車輌の窓が開かず、乗客が外に出られなかったこと。もうひとつは、列車の車両間を行き来できなかったことです。細かくは、直流電化であったために電流を切断できなかったとか、いろいろですが、やむを得ない面があった。三段窓だって、材料があればあんなことはしなくて済んだ。工作局長の島さんとすれば、嫌な思いもあったでしょうが、国鉄を退職されて住友金属に移った。そこを十河さんが、技師長として戻ってくれ、と引っぱりました。十河さんは島さんのお父さんをよく知っていますからね。島さん自身、国鉄に戻ってからは、新幹線に全身全霊を傾けていましたね。


■日本の危機の本質は国土計画がないこと。

山岡 十河総裁の功績も大きいですね。

仁杉  十河さんがいなければ島さんも活躍できなかったでしょう。多くは語れないけれど、僕は秘書室で十河さんが島さんを呼ぶ工作のお手伝いをしました。島さんは、十河さんの下で働くのならいいけど、他の幹部の下では嫌だ、と。ごもっともですよ。でも、国鉄という法律で決められた組織では、そう言っても通じない。日本国有鉄道法の条文を直さなきゃいけない。それを僕が引き受けて、秘書課長とか、副総裁とかを口説いて歩きました。
もちろん十河さんもバックアップしてくれたから、それが通った。あそこで頓挫していたら、島さんも国鉄に来られなかったかもしれない。この話、知っている人は他にいません。

山岡 いま、初めて明かされる「秘話」ですね(笑)。十河さんが新幹線にこだわったのは、やはり戦中の「弾丸列車」へのこだわりでしょうか。

仁杉  十河さんは満鉄の理事だったでしょ。やっぱり「あじあ号」のロマンじゃないかな。世界一の列車をつくりたいという夢ですね。それには島さんが絶対に必要だった。戦中の弾丸列車計画は、東海道、山陽道に一本線が引いてあるだけですが、島さんは、鉄道省の上層部に浜松に試験線をつくってくれ、と要求しています。試験線で、動力分散や交流電化などを試してみようとしたようだね。試験線の考え方は、東海道新幹線の開発で、小田原~相模川間で採り入れられ、進められました。

山岡 戦争という巨大な障害に直面しても、島氏のなかではずっと高速鉄道の構想が熟成していたのですね。技術者の凄みを感じます。

仁杉  いくら僕が鯱鉾立ちしても、島さんにはかないません。僕も、東海道新幹線では、何百というPSコンクリート橋を架けたけどね(笑)。いま、新幹線の代わりに新しい鉄道をつくると言っているが、本当にそこまで技術が進んでいるのか、しっかり分析して、構想を立てられる島さんみたいな人はいません。一つひとつの技術はある。リニアなら、リニアという技術はある。しかし、どこが急所か、本当に知っている人は、残念ながらいないでしょうね。

山岡 技術者が総合的な視点を持ちにくいのは、あまりに技術が高度化、細分化しすぎたせいでしょうか。

仁杉  技術屋というのは、どうも細かいことに意識が向きすぎる。その道のことは詳しいが、全体を見られない。僕は、いまね、土木屋で一番足りないのは国土計画だと思うんですよ。これが、ないからね、どうしようもない。大学の先生は重箱の隅を突っついてばかりです。官僚も落ち着いて広い視野の勉強をしていない。日本の危機の本質はそこにある。「国土強靭化計画」とかやっていますね。いいですよ、強靭にするというのは。だけどどのくらい金がかかるのか、何からやるのか、強靭化で橋ばかりつくっても仕方ない。
 それは、土木だけではないかもしれません。電気やコンピュータは、大きなビジョンをつくっているのでしょうか。トータルなビジョン、これをどうするか。太平洋側に地震がくるかもしれないから巨大な構造物をつくるというが、お金はどうします。どんどんお札を刷るのもいいでしょう。でも、その後はどうしますか。

山岡 おっしゃりとおりです。向こう百年とは言えなくても、せめてひと世代、30年先くらいは考えておきたいです。次回は、技術論から経営論に転じて、国鉄分割民営化などの秘話をお聞きしたいと思います。

(後編へ続く)

2013年7月31日水曜日

第6回 元本四公団総裁 山根孟さん(後編)


■東条英機に却下された高速道路計画

山岡 今回は、高速道路行政について、お聞きしたいと思います。高速道路の建設も1990年代以降、無駄な公共事業と批判されてきましたが、なぜ、どのように高速道路が造られるようになったのか、一般にはあまり知られていません。批判をするにしても、来歴を知ることは大切だと思います。日本では、1962年の首都高速1号線(京橋~浜崎橋JCT)の部分的開通を皮切りに、63年の名神高速(栗東IC~尼崎IC)、68年の東名高速(東京IC~厚木IC、富士IC~静岡IC、岡崎IC~小牧IC)、中央自動車道(八王子IC~相模湖IC)……と経済の高度成長に合わせて、どんどん延びていきます。
 そもそも、高速道路の構想は、戦前まで遡るのですね?

山根 はい。高速道路建設の基礎調査が初めて、正式に行なわれたのは1940(昭和15)年~1942(昭和17)年です。当時の内務省土木局が「重要道路整備調査」の一環として行なっています。民間でも同じ年に「東京~下関間幹線道路建設促進同盟」が誕生し、「弾丸道路」という呼び名で高速道路への関心が高まりました。当時、ドイツでヒトラーが進めていたアウトバーンの高速道路網建設に刺激されたのです。陸上輸送力の強化は戦時体制では不可欠と考えられていました。1942年には大東亜道路会議が東京で開かれ、日本本土から朝鮮半島、中国、タイ、ビルマ(現ミャンマー)東南アジア諸国を経てヨーロッパの道路網につなげる夢の構想が示されています。現代のアジアハイウェー構想ですね。

山岡 政治を牛耳っていた軍部は、高速道路の建設に前向きだったのでしょうか。

山根 それにはエピソードがあります。内務省土木局は、「全国自動車国道網計画(5,490km)」をまとめます。その最優先区間として東京~神戸をあげ、このうち名古屋から神戸間を緊急区間として実施計画を策定しております。名古屋~大阪間は「木津川ルート」(いわゆる名阪国道)の計画です。この名古屋~神戸間の高速道路建設費を2億円と概算し、予算要求を行なうことになりました。
それで、内務省の省議に予算案を提出した。当時の内務大臣は陸軍出身の東条英機です。東条大臣は、その案をひと目見るなり、「土木局は気が狂ったのか」と、差し戻したそうです。戦争遂行には莫大な国費がかかるのに、何を考えているのか、狂気の沙汰だ、との思いからでしょう。当時、東京と神戸の間の国道でさえ、自動車のすれ違いが困難な区間が多く、トラック輸送などの面で高速道路のニーズは高かったのですが……。戦局が悪化した1944年には、国鉄の新幹線計画と同時に高速道路調査も打ち切られました。

■ワトキンス調査団の秘話―政治家秘書の胆力

山岡 戦争は、つくづく国を破壊するものだと思いますね。終戦直後は、戦争中に手がつけられなかった国道の改修で手いっぱいだったと前回の対談でお聞きしました。高速道路建設が動きだすのは、やはりサンフランシスコ講和条約が発効し(1952年)、日本の主権が回復してからでしょうね。

山根 『高速道路と自動車』(現在の公益財団法人高速道路調査会発行の月刊誌)という雑誌で、「ワトキンス調査団報告45周年記念座談会」(2001年2,3月号)が行なわれ、そこで戦後の高速道路建設の始まりについて、興味深い話が開陳されています。1952年に、電源開発の高碕達之助総裁が、大学の研究者だった川本稔さんという方を秘書に登用し、吉田茂総理がヨーロッパ経由でアメリカへ行くのに同行せよと命じます。吉田総理は、東京から神戸まで高速道路をつくることに非常に熱心で、これまでにもドイツのアウトバーンやアメリカの高速道路を視察したりしていましたが、この時には資金面のメドをつけようとしていたようです。

山岡 高碕達之助は、水産技師から会社経営者、政治家に転身した人ですね。戦中は、満洲重工業総裁を務めました。日産コンツェルンの鮎川義介とも親しい。いわゆる満洲閥の人材で、電源開発総裁として佐久間ダムの建設にも尽力しています。戦後の道路や電源開発などの公共事業は、満洲閥の力で進められていますね。

山根 ええ、満洲で試みられた手法が、戦後の国づくりの実践に活かされた面はあるでしょう。高碕総裁の秘書となった川本さんは、もともと土木とは縁のない方でした。建設省の職員から2週間、昼夜兼行で道路に関するレクチャーを受け、米軍に掛け合って日本列島の立体地図を入手し、そこに高速道路のルートを全部描き入れて、吉田首相と一緒にアメリカへ渡ります。その後の顛末がおもしろい。座談会から川本氏の発言を引用しましょう。
 川本「吉田総理の考えは、当時、余剰農産物資が日本にどんどん入り、その資金である円がかなり溜まっているので、それを使わせてもらう交渉をしようということだったんです。しかし、ワシントンに乗り込んだところ、私の出番どころか初めからそれは潰されまして、吉田さんが私に、『残念だったけれども、ウォール・ストリートの法律事務所に君を預けるから、トールロード(Toll Road有料道路)のボンド(起債)を勉強してくれ』ということでニューヨークに私は預けられました(略)。  ……資金の問題でワールド・バンク(世界銀行)に行き、ミスター・ドールという日本の担当者に会い、『日本は道路をつくりたいんだ、金を貸してくれ』と言ったら、『ノー、日本は道路なんかいらない。日本はインシュラ・カントリー(島国)だから、マーチャント・マリーン(海運力)をもっと発展させろ、それが一番早道だ』という答えが返ってきました。私は『しかし、日本政府はどうしても道路が欲しいと言っているんだ。私は場合によってはアメリカの一流の専門家を日本へ連れて行くけれども、レポートを書いたら見てくれるか』と申したところ、『必ずしも金を貸すというわけにはいかんが、レポートはいつでも見てやる』と言われました。『ああそうか』ということで、私はワトキンスさんに頼んで、人選をしていただいたわけです」
山岡 なるほど、そこから「ワトキンス調査団」が編成され、あの有名な書きだし、「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」で始まるレポートができるのですね。レポートを契機に道路づくりが始まります。それにしても、川本氏の世銀相手の粘り強い交渉力には感服します。私は、最近『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社,2013.6)という評伝を出版したのですが、体を張って復興に挑んだ人たちに共通するのは崖っぷちでの胆力。彼らには長期的な先見性がありました。だから力が発揮できた。豊かで、平和な現在も、じつは、そのような先見性が求められていますが、短期的な価値観だけで動きがちです。

山根 国土づくりは、本来、長期的な視点で取り組まねば成功しませんよ。

■東海道と中央道を巡る大論争の始まり

山岡 さて、日本を調査したワトキンスは名神高速道路の経済的・技術的妥当性をまとめた報告書を提出、1956年8月帰国します。そこには「東京から名古屋までの中央道案は東海道案の代替案ではなく、経済開発のために望ましいもうひとつの計画である」としています。東名が先か、中央が先かで、政治を巻き込んだ大論争へと発展しますね。中央道と東海道の先陣争いです。

山根 中央道の大の推進者は、青木一男先生です。発端は1955年に議員立法として国会に提出された「国土開発縦貫自動車道建設法」でした。海岸線を走る道路ではなく、日本の内陸部を縦に背骨のように貫く高速道路を建設するための法律です。青木先生は、この立法に財政の専門家として関わられました。

山岡 青木さんは、大蔵官僚出身で、戦前から戦中にかけて大蔵大臣、大東亜大臣を歴任し、戦後、A級戦犯容疑で収容、釈放されてからは、参議院議員として政界で活躍された人ですね。お孫さんが民主党の参議院議員だった小宮山洋子さん。

山根 青木先生の見解は「わが国の産業、人口は特定の地域に集中しすぎている。交通の便をよくすることによって、今まで遅れている地方を開発し,人口の分散を図ることが国策の基本である」、「高速道路建設は自力でできる。お互いに働いて貯蓄し、それで高速道路を建設して子孫に残すべきである」という論旨です。

山岡 ああ、郵便貯金を使った財政投融資の発想ですね。財投は、明治に郵便貯金制度ができて間もなく始まった。その後、大蔵省資金運用部が担当しています。


■名神高速道路の着工と中央道・東海道論争の激化

山根 ワトキンス調査団の来日に先立ち、1956年4月、高速道路の建設・管理を担う日本道路公団が発足しております。57年4月には、国土開発縦貫自動車道建設法、高速自動車国道法が成立、公布されました。翌5月、国土開発幹線縦貫自動車道建設審議会が開催、名神高速道路の審議が進められ、10月15日、その整備計画が決定されました。これにより、名神高速道路の施行命令が発せられ、建設が始まることになりました。これには世銀借款が導入されます。
 これを機に、中央道・東海道論争が激化します。東海道を優先すべきだとの猛烈な運動に対し、青木先生は、東京・山梨・長野・岐阜の各知事、議長などの関係者を糾合して建設推進委員会の委員長に就任し、政治の舵取りをします。自民党内でも東海道派と中央道派に分裂、深刻な事態になりました。たまりかねた村上勇建設大臣が、「どうか中央道側で譲歩して東海道案も認めてもらいたい。中央道については、政府と自民党で建設促進の保証を与える」と青木先生に申し入れます。それで折れて、東海道案を認めることとなりました。
 1960年7月、中央自動車道の路線を定める法律(東京~小牧間)と東海道幹線自動車国道建設法の両法の制定となり、62年5月、中央自動車道の東京富士吉田間と東名高速道路の東京~静岡間の施行命令となります。63年10月には、東名高速道路の施行命令は全線にわたりました。

山岡 本四連絡橋のルート争いに似た対立ですね。

山根 中央道、東海道、両方の高速道路の同時着工が正式に認められ、いざ予算の配分。ここに至って、こんどは大蔵省と経済企画庁の事務当局が中央道着工反対の方針に固執します。東海道を先に通して、経済発展の果実をもぎ取りたいわけです。『道を拓く』という本に、青木先生がその顛末を寄稿しておられます。政府が東海道を先にして、中央道を後回しにするなら、重大な決心がある、と大平正芳官房長官と前尾繁三郎幹事長に対して、次のようにおっしゃいました。  
青木「この期に及んでも東海道の建設費だけが先に決まって、中央道はあと回しになるということになるならば、自分は何の面目があって各県の諸君にまみえるのか。自分は当然責任をとるつもりである。しかし、その前に自民党と政府がいかに信用のおけないものであるかを天下に表明し、その上で自分の進退を決するが承知されたい」

山岡 ハッタリではなさそうですね。

山根 大平官房長官も前尾幹事長も大蔵省では、青木先生の後輩ですから、青木先生の有言実行の性格はよく知っています。そこから政府、自民党とも中央道を放置するわけにはいかなくなり、建設予算がついたんです。

■中央自動車道は、なぜ諏訪経由になったか? 青木一男の決断

山岡 中央道には政治の場での闘いが反映されていますねぇ。当時のマスコミの論調を見てみますと、中央道には批判的です。1959年12月29日付の読売新聞は「再考を要する中央高速道路」と題して、次のように論説しています。
「(建設省がまとめた中央道路線についての)報告書の結論としては、山岳道路につきものの豪雨、降雪、凍結、霧など気象的な悪条件の重なりと、勾配区間やトンネルが多いことから走行速度が制限されるため、高速道路としては不適である点をまず指摘している。さらに全長二九五キロのうち五割までがトンネル、橋梁などの構造物で占められているため、建設費は三二〇〇億円の巨額に達し、(中略)有料道路として非採算的であると結んでいる。この報告で明らかにされるまでもなく、中央道については、かなりの疑点がある」

山根 当初の中央道の計画は、富士吉田から身延町を経由して、飯田市に至ることになっていました。南アルプスを貫くわけです。この間に全長8,058mの赤石トンネルはじめ大小多数のトンネルがありました。世界一金のかかる道路建設になりそうでした。青木先生も、そのことは承知のうえで東海道との同時着工にこぎ着けた。
 しかし、その後、ご自身が欧州へ視察に行き、フランスとイタリアを結ぶモンブラン・トンネル(全長12,000m)の建設現場に赴き、大規模で困難な工事を目の当たりにして、建設省や道路公団の反対論にも理由があることを痛感します。帰国すると、従来の赤石山脈をぶち抜く案を変更し、諏訪地方を経由するルートに改めると提案したのです。

山岡 ははぁ。それで諏訪経由に変わるわけですか。一説には、青木氏が長野出身なので“我田引道”とばかり、自分に都合のいいように変えたとも言われていましたが……。

山根 いや、違いますね。赤石山脈を迂回するために諏訪経由にしたのです。

山岡 建設省は手を叩いて喜んだでしょうが、急に予定していた高速道路が通らなくなった身延町とか下部町、長野県下伊那郡の町村などは、話が違う、と大反対したでしょう。

山根 そこから、また青木先生が、政治力を発揮して関係各団体を説得して回られました。ルートから外れた自治体には県が道路整備を重点的に行なうとか、手当ても用意されました。

■高速道路の全国展開へ

山岡 名神、東名、中央の次のステップは?

山根 1963年7月関越自動車道建設法、以後、東海北陸、九州横断、中国横断と自動車道建設法の立法が相次ぎ、国土開発縦貫、東海道幹線をあわせ、6建設法により、13路線、約5,000kmが定められました。建設省はこれらを包含し、全国にわたる自動車道路網32路線7,600kmを策定、国土開発幹線自動車道建設法を提案、1966年7月公布に至りました。同年同月には、中央道の甲府~小牧間、東北縦貫道の岩槻~仙台間、中国縦貫道の吹田~落合間、美祢~下関間、九州縦貫道の粕屋~託麻間、北陸道の富山~武生間の整備計画が決定、施行命令が発せられ、高速道路の建設は全国にわたります。
  青木先生は高速道路建設に全精力を注ぎ込んでおられた。私は、1972年から76年にかけて、3年7カ月、高速国道課長を務めさせていただきましたが、その間、たびたび青木先生を現場にご案内しました。随分、勉強をさせていただきました。先生にある原稿を見ていただく機会があって、「国土の秩序ある有効利用」のフレーズには、首を傾げられて「国土の全面的な有効利用」と訂正していただきました。

山岡 秩序では都市優先の序列がつくけれど、全面的とすれば地方も開発できる、というわけですね。

■エンジニアの役割は「コンクリートに血を通わせる」こと

山岡 戦前の「弾丸道路」の構想が東名、名神高速に結実し、旧中央道の赤石トンネル貫通プランも、リニア中央新幹線に引き継がれます。世紀を超えて交通体系は継承されているわけですが、その交通インフラの老朽化に、どう対応したものでしょうか。

山根 憂慮されるのは橋梁です。1980年代に『荒廃するアメリカ』という本が出て、アメリカのインフラ老朽化問題が浮上しました。上司から、「アメリカを視察してこい」、と命じられ、専門の連中と渡米しました。一番感心したのは、全米にわたり経年的に橋梁を点検・分析しており、連邦議会に報告していることでした。道路庁に行くと、一課の課長がコンピュータで小さな橋から、大きなハイウェイにかかった橋まで、徹底的に分析してレポートを作っていた。今年の2月、オバマ大統領は一般教書演説の中で、全米で7万もの橋梁が老朽化していることを例に挙げながら、「まず修繕を」と訴えております。
 日本では、まず点検・分析の徹底、さらに診断、保全・長寿命化計画の策定と実施が緊要です。橋梁台帳のない都道府県もあり、市町村になればもっと管理は遅れている。

山岡 最近は定点カメラで橋の状況をモニタリングする技術などもできていますね。

山根 チェックできる技術者が足りなければ、それなりの工夫をしなくてはいけません。「コンクリートから人へ」と公共事業は目の敵にされましたが、エンジニアの役割は、「コンクリートに血を通わせる」こと。そこは、時代の移ろいに関係なく、不変だと思います。

(写真撮影・永田まさお)



参考
昭和38年(1963) 6月栗東~尼崎間 71.1km供用開始
7月関越自動車道建設法 公布
9月地域経済問題調査会答申:社会資本A,B,C
11月国土建設の長期構想,道路整備の長期構想
「拠点都市の育成,交通需要の交通需要の激増に対処し,幹線自動車道路網を設定して整備を促進する(イタリア方式),都道府県道以下は未改良であっても 交通量の少ない道路は現道のまま舗装(イギリス方式)を含め,10ヶ年で舗装する,目標年次(昭和55年度)に交通量が交通容量を越える区間については改築,再改築を行う」ことを骨子としている。
昭和39年(1964) 6月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
東北自動車道,中国自動車道,九州自動車道および北陸自動車道の予定路線を定め,中央自動車道の予定路線を変更(諏訪回りに)
7月東海北陸自動車道建設法 公布
昭和40年(1965) 1月中期経済計画 閣議決定
第四次道路整備五箇年計画 閣議決定
5月九州横断自動車道建設法 公布
6月中国横断自動車道建設法 公布
7月名神高速道路全通
昭和41年(1966)7月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
名称を「国土開発幹線自動車道建設法」と改称     
7,600kmのネットワーク
昭和41年(1966)7月いわゆる縦貫5道1次区間の施工命令
中央道の甲府~小牧間,東北縦貫道の岩槻~仙台間,中国縦貫の吹田~落合間、美祢~下関間,九州縦貫道の粕屋~託麻間,北陸道の富山~武生間の整備計画が決定,施行命令が発せられた。

<国土開発幹線自動車道路網-高規格幹線道路網設定までの経緯>
  • 昭和44年(1969)5月 新全国総合開発計画
    60年度を目標年次とし,高福祉社会を目指した人間のための豊かな環境の創造を目標に,
    ①自然の恒久的な保護保存
    ②開発可能性の全国土への拡大・均衡化
    ③各地域独自の開発整備による国土利用の再編成・効率化
    ④都市,農村を通じての安全,快適で文化的な環境条件の整備・保全
    の四つの課題をあげ,目標達成の方式として,大規模開発プロジェクト構想をとった。高速道路網は新ネットワーク形成にかかるプロジェクトとして,国土の空間構造の基礎を形成し,国の地域開発政策の重要な戦略手段とされた。
  • 昭和46年(1971)3月 第6次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間中1,900km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進
  • 昭和48年(1973)2月 経済社会基本計画:
    高速自動車国道については, 国土空間の再構築のための基礎条件として,昭和60年度までに約10,000kmを整備することを目途に,計画期間(昭和48~52年度)中に既設高速道路を含め約3,100kmを供用する。
  • 昭和48年(1973)6月 第7次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間(昭和48~52年度)中おおむね3,100km供用
  • 昭和52年(1977)11月 第3次全国総合開発計画:
    高規格幹線道路網の構想 として10,000km余,本州四国連絡ルートは,当面早期完成を図るルートとして児島・坂出ルートに道路鉄道併用橋を建設(環境影響評価を実施の上)
  • 昭和53年(1978)5月 第8次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期 (昭和53~57年度)中に既供用区間を含めおおむね3,500km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進など
  • 昭和62年(1987)6月 高規格幹線道路網の設定
    建設大臣により,国土開発幹線自動車道等7,600km,本州四国連絡道路180km,これらと接続する新たな路線6,220kmをあわせ14,000kmのネットワークが定められた。

2013年7月15日月曜日

第5回 元本四公団総裁 山根孟さん(前編) 

山根孟さんプロフィール
1928年2月20日生まれ、1950年東京大学第2工学部土木科卒、同年5月建設省入省(中国四国地方建設局岡山第一工事事務所)、1958年中国地方建設局岡山工事事務所調査設計課長、1962年道路局企画課長補佐、1970年道路局企画課道路経済調査室長、1972年道路局高速道路課長、1976年道路局企画課長、1977年中国地方建設局長、1978年道路局長、1980年本州四国連絡橋公団理事、1986年本州四国連絡橋公団総裁。この間、1963年~1964年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会上部構造に関する専門委員会幹事、1965年~1976年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会幹事補佐、同耐震設計小委員会委員、同耐風設計小委員会委員のほか土木学会土木計画学研究委員会幹事、同委員、企画委員会委員、建設用ロボット委員会委員長などを歴任。2000年には土木学会功績賞を受賞している。
主な著書に『計画者と技術者のための交通工学 』(共訳、1976)、『道を拓く-高速道路と私』(共著、1985年)その他「土木学会誌」、「道路」、「高速道路と自動車」などの雑誌掲載記事多数。
対談日:2013年4月30日  於:土木学会会議室
(写真撮影・永田まさお)

■戦後、頻発した海難事故――本四架橋は人びとの悲願


山岡 個人的な話で恐縮ですが、私は愛媛県の松山市で生まれ、高校を出るまで過ごしました。四国の人間にとって海は親しみがあり、その恵みを享受する一方で、荒れたときの怖さは骨身に沁みています。じつは、私の伯母は幼かった従兄とともに客船の海難事故で命を落としました。私が生まれる前の話なのですが、祖母は100歳で亡くなるまで、台風が接近していたのに伯母たちを船に乗せたことをずっと悔いていた。正確な天気予報などない時代の海難事故だったのですが……。
 現在、本州と四国の間には、神戸―鳴門ルート、児島―坂出ルート(通称:瀬戸大橋)、尾道―今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道)と3ルートの橋が架かっています。財政負担の大きさや、予想を下回る交通量などから、本州と四国の間に三つも橋なんていらない、という批判をよく耳にします。マクロ的に見れば、確かにそういう面はあるでしょう。ただ、本四架橋の原点は単なる経済効果だけではなかった。生命を救う橋だったのだということを、ちょっと申し添えておきたい。感傷に浸っているのではなく、実際に戦後の復興期には船の沈没事故が次々と起きていますね。


山根 ええ、そうです。終戦の1945年11月には瀬戸内海汽船の「第十東予丸」が、定員の三倍を乗せた状態で荒天に船出し、伯方島沖で沈没し、死者・行方不明者450余名(『愛媛県史』)を出しています。間を置かず、同年12月、播淡汽船の「せきれい丸」が明石海峡で沈没して、304人が亡くなった。48年には阪神―多度津航路の関西汽船「女王丸」が牛窓沖で機雷に触れて沈み、死者・行方不明者は199名(『岡山県史』)……と、海難事故は頻発しています。
当時は、まだみんな自分が食べることに一生懸命で、事故が起きてもなかなか公共政策に対策が反映されなかった。転機は1954年9月、国鉄の青函連絡船「洞爺丸」事故です。これで1155人の方が亡くなりました。国鉄は、真剣に海を越える橋を考え始めます。そして55年5月に国鉄の宇高連絡船で「紫雲丸」の事故が起きた。視界100メートルの濃霧のなかで、四国の高松と岡山の宇野を結ぶ客船の紫雲丸と、貨物船が衝突して、修学旅行中の小中学生など、168人が犠牲になりました。この事故を受けて、瀬戸内海を安全に快適に渡りたい、橋かトンネルを、と地域の機運は高まり、同年8月に「本土淡路四国直通鉄道促進期成同盟会」(会長・徳島県知事)が結成されます。国鉄は本四連絡鉄道の調査を開始しました。ここから本四連絡橋の議論が高まっていきます。

■阪神・淡路大震災で1m延びた明石海峡大橋


山岡 山根さんは1950年に東大の土木を卒業されて、建設省に入省され、すぐに中国四国地方建設局(1958年に中国と四国に分離。現・中国地方整備局、四国地方整備局)に赴かれたのですね。どのような仕事からスタートされたのですか。


山根 公共事業は壊滅状態でした。河川、道路、港湾などをどう復興させるか、食料をどう確保するかが国策の中心課題でした。最初に上司から「土木研究所へ行って、打ち合わせて来い」と命じられました。岡山の工事事務所は、旭川と吉井川の河川改修、国道2号(旧山陽道)と30号(岡山から瀬戸内海を挟んで高松へ至る)の改修が主たる事業でした。そこに食料確保、穀倉地帯創出のために農林水産省の児島湾干拓事業が持ちあがります。湾奥を締め切って、人工の淡水湖(児島湖)をつくる計画でした。その淡水化に関わる調査です。旭川は児島水道に流れ込むものですから、湾を閉め切ると旭川の流量に影響が生じ、洪水を招くのではないか、もし洪水の危険があるのなら対策が必要ではないか、と。現代のアセスメントですね。二年くらい調査し、電算機を使って複雑な計算をしましたが、結局、影響なし。建設省は農水省に事業を進めてください、と返事をしました。


山岡 次が国道の改修ですか。


山根 そうです。国が手をつけるところは、どうしても県境付近からになりましてね。そこが一番、なおざりにされていますから。県の方々は、どうも東京へ向かう道路は一所懸命に手を入れるのですが、離れていくほうは不熱心(笑)。県境のトンネルなどは遅れがちでした。国道2号の広島県境にちかい笠岡市の金浦湾あたりは軟弱地盤で苦労しました。30号の児島湾周辺の地盤も悪かった。

山岡 地盤の議論は、あまりマスコミにも出ませんが、大切ですね。

山根 東日本大震災でも地盤の問題がありました。千葉県浦安市では、砂地盤が地震で揺すられて液状化しましたね。あの現象は1964年の新潟地震で最初に生じ、深刻な被害を与えました。信濃川左岸では液状化で県営アパートが大きく傾いて、ほとんど横倒しになった棟もありました。震源地に近い信濃川右岸では、新潟空港の滑走路が液状化に見舞われました。95年の阪神・淡路大震災では、神戸のポートアイランドの液状化がクローズアップされましたが、地盤の問題はそれだけではありません。兵庫県南部地震が起きたとき、明石海峡大橋は神戸市垂水区と淡路市岩屋の間にタワーが立てられ、ケーブルを掛け終わったところでした。これからケタを吊ろうとしていたところで、強烈な揺れに見舞われました。明石海峡大橋の基礎と基礎の間を構造線が通っていた。その結果、支柱と支柱の間が、何と1mも伸びてしまった。支柱間が1990mから1991mとなりましたが、幸いにして事なきを得て、完成したのです。地盤に応じて基礎をどうするかは、非常に大きな問題で、それを看過していると、砂上の楼閣になってしまいます。


■政治家を巻き込んだ熾烈な「ルート争い」


山岡 公共事業の基盤にかかわる技術を担っておられたのですね。そのうちに本四架橋にも自然と携われるようになったのですか。

山根 中国四国建設局のなかに橋梁グループがありまして、先輩方がしきりに四国に渡る島と島の間に橋をかける計画を練っておられた。私は企画部にいて、そのプランを横目で見ながら、ああなるほどな、と感心していたものです。1960年前後に土木研究所の方々が中国建設局にお見えになり、尾道―今治ルートの現地を視察したいということで、私が案内役を仰せつかりました。当初、本四連絡橋のルートは5つありました。A神戸―鳴門、B宇野―高松、C日比―高松、D児島―坂出、E尾道―今治です。BCDはいずれも岡山―香川間なので、技術的、経済的側面からDに絞られていきます。

山岡 松山で暮らしていた子どもの私には、四国と本州が橋でつながるのは、夢のようでした。物心ついた頃には愛媛県庁に「かけよう瀬戸内海大橋」のネオンが輝いていたけど、そこから「瀬戸内しまなみ海道」が出来るまでが長かった。やはり問題は政治でしょうか。

山根 3ルートに橋を架けると決めるまでに十数年かかっているんです。1961年8月に建設省と国鉄は土木学会に「本州四国連絡橋調査の技術的検討」を委託します。厳しい自然条件で、世界でも未経験の長大な橋をかけるのです。深い海に基礎を打ち込み、長い距離を、道路と鉄道の併用も含めて架橋する。長径間吊橋の耐風、耐震、耐久性など難題は山積みでした。62年1月から土木学会の調査委員会が始まり、4月には私も本省の道路局企画課長補佐を拝命しまして、調査分野に張り付きました。
一方で、徳島、香川、愛媛の三県は、まずは自分のところに橋を架けてもらおうと、地元選出の国会議員や県知事を中心に猛烈な誘致合戦が展開されました。いわゆる「ルート争い」です。兵庫・徳島は原健三郎さん、香川は大平正芳さん、広島に宮澤喜一さん、愛媛は知事の白石春樹さんたちが、こっちが先だ、と旗をふる。地元からの陳情合戦が続きました。62年7月に河野一郎さんが建設大臣に就任し、「建設省としては、明石~淡路島~鳴門を結ぶものから実現するよう計画している。他のルートも順次橋を架けたい」と発言して、大騒ぎになったのです。

山岡 河野一郎さんですか。この連載では、河川や道路、東京五輪の渇水対策でも名前が出てきました。息子の洋平さん、孫の太郎さんからは想像しにくい剛腕政治家。明石―鳴門を優先したのは、阪神経済圏が近く、経済効果が大きい、と判断したからでしょうか?

山根 そうでしょう。ただ、政治が過熱しても、技術的評価は、しっかりしなくてはなりません。実際に橋を架けるうえで、どのルートが最も確実で、安全で、経済的にも有利なのか、各分野の専門家が、侃々諤々、口角泡を飛ばして議論をしました。5年ちかくの調査を経て、技術的な難易度では、明石―鳴門が最も難しく、児島―坂出がその次に難しい。尾道―今治が最も確実、となった。しかし、明石―鳴門に橋を架けられないわけではない。それで67年5月、本四連絡橋調査委員会は、最終委員会の後に記者会見を開いて、「中央支間長1500m級の吊橋上部構造の建設は、技術的に可能であると考えられ、約50mの水深で大きな潮流のもとでの海中基礎の建設は、今後の調査検討により可能な方法を見出し得るものと考えられる」と正式に発表します。

山岡 水深50mでの大潮流とは、明石海峡を意識してのことですね。「可能な方法を見出し得る」とは、できると言っているのか、それとも困難だと言っているのか……。

山根 そこを記者が突いてきました。書き方が手ぬるいではないか、できないなら、できないとハッキリ書いたらどうか、とこう聞いてきたわけです。そしたら委員長の青木楠男先生が、神代の昔から、日本列島ができたときから、水深が深く、距離の長いところに橋を架けるのは難しいに決まっているではないか、それをわざわざ、このおれに言わせる気か、と応じて、抑え込んだ。風格がありましたねぇ。

■田中―大平コンビの活躍と、仮谷建設大臣の決断


山岡 河野一郎さんは、総理総裁候補と言われながら、65年に急逝しています。河野亡きあと、ルート争いはいっそう、激しくなったのでしょうね。

山根 そこで、高い見識を発揮されたのが大平正芳さん。67年7月の衆議院建設委員会で質問に立たれました。元々、大平さんは外務委員会の所属で、わざわざ建設委員会で質問に立つのは、建設省のやり方に反対するからではないか、と言われてしました。私も胸をどきどきさせながら、質問を聞いていました。すると、大平さんは、「いまの経済の成熟度からすると本四橋は一つに限らなくてよい。複数を考え、本土と四国の経済の一体化を図るべきではないか」「一本だけ、とするから激しい争いが起こる。将来展望からも複数は常識的だ」とおっしゃった。あの質問で大平さんの大局的にものをみる器の大きさが読み取れた。大きな一石が投じられました。

山岡 大平さんは、よく色紙に「着眼大局、着手小局」と書いていたようです。

山根 この大平質問以降、建設省は具体的な体制に踏み込み、「事業主体は新しい公団」を設けてやるべきだと打ち出し、69年の新全国総合開発計画(新全総)にも、3ルートの建設を図る、と明記されます。そして、ルート争いに終止符を打ったのが、田中角栄さんでした。70年1月、田中自民党幹事長は「本州と四国を結ぶ橋は、3本とも同時に実施設計調査を実施することにした。そのために新しい公団(本州四国連絡橋公団)をつくる。これによって、長年に関係地域による激しい陳情合戦は、本日をもって終わりを告げることになる」と発表しました。3ルート同時スタートを明言したのです。

山岡 田中―大平は、後に首相と外相のコンビで日中国交正常化などの大仕事を成し遂げます。二人に共通するのは、いずれも地方の出身。田中角栄は新潟県刈羽郡の豪雪地帯に生まれ、出稼ぎの悲哀などを子どもの頃から感じて育った。大平正芳も香川県観音寺市の子沢山の農家に生まれています。辺境の辛さを知っている。本四連絡橋の重要な局面で力を発揮したのは、偶然ではなかったのでしょう。公共事業が豊かさを生むことを知っていた。しかし、田中―大平コンビが活躍しても、まだ架橋へすんなり進んではいませんね。

山根 73年暮れの第一次石油ショックが大きな障害になりました。11月24日に予定していた3ルートの起工式は、「総需要抑制策」の一環として中止されます。

山岡 当時、日本の産業構造は、著しく石油に依存していましたね。石油が入らなくなったら、産業の血液が止まる怖れがあった。田中首相はアラブに特使を派遣したり、資源外交を展開したりで、何とか、窮地を脱しますが、とても本四架橋どころではなかった。

山根 局面を打開したのは、高知出身の仮谷忠男建設大臣でした。仮谷さんは、75年8月、本四連絡橋は、当面1ルートについて、その早期完成を図る。そのルートは鉄道併用として、第三次全国総合開発計画(三全総)で決定する。他の2ルートについては、各橋の地域開発効果、工事の難易度などを勘案して、着工すべき橋梁を、各省庁間の協議で決めると、こう発表したのです。鉄道との併用ということで、岡山―香川間の児島―坂出ルートに絞り込まれました。ただし、神戸―明石ルートでは、まず淡路市と鳴門市を結ぶ「大鳴門橋」を架けて、兵庫県と徳島県、双方の顔を立てる。尾道―今治ルートでは、愛媛県側の大三島橋の着工凍結を解除すると同時に、広島県側の因島大島の着工時期の検討も継続とします。四国出身の大臣として、決断すべきことは決断しながら、政治的な配慮をされました。75年12月、延々と待たされていた大三島橋の起工式が、やっと行われました。寒風が吹きすさぶなか、仮谷さんも起工式に出席されました。そのときにひいた風邪がもとで、翌76年1月、現職の建設大臣のまま急逝されたのです。

■本州と四国を橋で結んだ帳尻は……


山岡 政治のドラマを感じます。政治家には力がある。しかし、力の使い方をわきまえていない政治家が最近は増えている気がします。その後、橋の建設は順調に?

山根 いやいや、山あり、谷ありですよ。鈴木善幸内閣で、「第二次臨時行政調査会(第二臨調)」が発足し、行財政改革が本格化します。当然、本四連絡橋建設の財政負担も俎上にあがる。80年11月に伯方大島大橋の架橋地点に視察にいらした渡辺美智雄大蔵大臣は、「なんでこんなところに橋を架けるんだ」と言われましてね。私がご案内していたのですが、「利根川よりもこっちのほうが短いんですから」と申し上げたら、「ああそうか」と。そのうち臨調の行革で、「1ルート、4橋に当面限定する」と決まり、神戸―鳴門ルートの鉄道併用案も消滅します。

山岡 紆余曲折を経て、本四連絡橋は3ルートが完成し、かつて瀬戸内海で多くの客船が沈んだことなど、ほとんどの人が忘れています。それだけ豊かな社会になった。では、事業費は、どのくらい膨張したのでしょうか。また、計画時に予想した交通量は、実際に橋が出来てみると、どのくらいの量にとどまっているのでしょうか。本四連絡橋への批判は、そのあたりに集中していると思われます。

山根 事業費を見ますと、73年9月の基本計画では、神戸―鳴門ルート5,937億円、児島―坂出ルート4,783億円、尾道―今治ルート2,346億円でした。これが、全通時には、神戸―鳴門ルート1兆5,000億円、児島―坂出ルート1兆615億円、尾道―今治ルート7,464億円。トータルで比較すると、計画時の1兆3,021億円から、全通時には3兆4,079億円へと増えています。基本計画直後の石油ショックで、物価の上昇が加速され、さらには環境保全のための計画変更、技術的な課題の克服などもあって、大幅に増えた。

山岡 平均して、1ルート1兆1千億円ですか。償還の鍵を握る交通量の予測は?

山根 72年の予測は、神戸―鳴門で1日3万7,900台、それが2012年度の明石海峡の横断交通量は2万3,233台、同じく児島―坂出は予測が2万5,500台で、実際は2万280台。予測と実績が比較的近いですね。同様に尾道―今治は、72年予測が1万5,300台で、2012年の来島海峡横断交通量は1万533台。将来予測が過大だったことは認めざるを得ません。ただ、日本列島の四つの島を橋やトンネルで結ぶのは、多くの国民の悲願でありみんなの希望だった。それで生まれた効果も単なる経済効果を越えて大きなものがあると思います。

2013年6月30日日曜日

第4回 東京大学名誉教授 高橋裕さん(後編)

■「蜂の巣城紛争の教訓――水源地を活性化せよ

山岡 - 前回の対談で、日本は、戦後、TVA(テネシー川流域開発公社)の技術的方法論を真似て多目的ダムを建設するなど大規模な河川整備事業を行ったが、根本の「哲学」を疎かにしてきた、とご指摘いただきました。その典型がダム建設における水源地対策の遅れだ、と。

高橋 - ダムを造ればいいという発想で、水没する集落の住民への対策は、戦後、一貫してお粗末でした。その典型が九州の「蜂の巣城紛争」です。私は、幸か不幸か、下筌(しもうけ)ダム建設反対運動のリーダーだった室原知幸氏が「下筌ダムを含む建設省の治水計画は公共事業に値しない」と東京地裁に訴えた行政訴訟で、原告側の鑑定人に選ばれました。確かにあの治水計画には特に水源地対策にかなり問題があると思いましたね。

山岡 - 一般の読者は「蜂の巣城紛争」をご存知ないかもしれませんので、概要を述べておきましょう。発端は1953年6月の筑後平野一帯の大洪水。筑後川上流域への集中豪雨が原因で堤防が次々と決壊し、147人が亡くなりました。翌年、建設省の九州地方建設局は上流の熊本県小国町を中心に治水ダムの建設計画を立て、調査を開始します。
57年8月、九州地建は初めて地元住民への説明会を開きますが、山林地主の室原氏を中心とする住民は建設省に不審を抱く。小国町は「建設絶対反対」の決議を採択。58年から13年間に及ぶダム史上最大の反対運動、蜂の巣城紛争が展開されました。
建設省が土地収用法に基づいて調査に入ると、地元民は抵抗し、下筌ダムの予定地に監視小屋を20棟以上建て、蜂の巣城を築きます。九州地建の蜂の巣城への立ち入りに対して、住民は激しく抵抗し、乱闘事件も起きました。その後、九州地建は蜂の巣城を強制撤去する代執行の申請を裁判所に行ない、室原氏も事業認定無効、差し止めの訴えで応じます。しかし室原氏側に不利な決定が続き、反対派住民のなかから、条件付き賛成派に回る者が増え、63年6月に蜂の巣城は落城、撤去されます。ダム工事が始まり、室原氏は第二、第三の蜂の巣城を構え、また法廷闘争を展開して、徹底抗戦の立場を貫くものの70年に逝去。室原家と建設省が和解し、下筌、松原の両ダムは73年に完成しました。

高橋 - リーダーの室原という人は、典型的な肥後もっこす。信念を曲げなかった。不思議ながんばり屋で、反対運動の戦法がユニークでした。たとえば機動隊が蜂の巣城に迫ってくると、ダムサイトの川べりに町じゅうの牛を集めて、そこに赤い布をつけて興奮させて、機動隊にぶつける。そうかと思えば、千早城に立て籠もった楠正成のように機動隊に向けて糞尿をばらまく。蜂の巣城のあちこちに水道管を巡らせたり、周囲の木に支援者の名前を書いた札をくくりつけて「闘争記念樹」と呼んだりね。発想が奇抜でした。
 新聞は、それをおもしろがって書くわけだ。でも、なぜ室原氏が治水計画に反対したかは書かないんですよ。マスコミは変わった現象を好むけれど、彼が反対した哲学を書いた記事は、ついぞ、目にしなかったですね。

山岡 - 室原氏は「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」と言っています。反対のための反対ではなく、地元をどう活性化するかを最優先に考えていたようですね。

高橋 - その意味では、彼は先見の明があった。日本の水源地対策がいかに立ち遅れているか、見抜いていた。

山岡 - 建設省幹部との交渉のなかで、室原氏は周辺整備について、たびたび意見を出しています。住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋やトンネル、観光資源としての遊覧船……。その多くが採用された。ダム湖は「蜂の巣湖」と命名(1988年)され、紛争の記憶を風化させまいとしています。

高橋 - 室原氏の裁判の原告側鑑定人をやって、しばらく建設省には恨まれました。役所というのは訴えられると、「守旧」が最大の目的になる。こう言っても仕方がないが、なぜ訴えられたかを考え、反対派の言い分も聞いて、自分たちの治水計画でも改めるべき点があれば改めればいいのだけれど……まぁ、無理かな。
 室原氏の哲学は、反対の加勢をした左翼陣営もあまり理解していなかった。60年安保闘争と重なったので、社会党と総評(日本労働組合総評議会)が彼を応援しましたが、反対するのが目的で、水源地問題まで突っ込まなかった。政治ショーが大事だったのでしょう、社会党は。反対運動に自ら陶酔して、サッと引いた、と感じましたね。総評の人ともつきあったけど、紛争を労働問題にして、ダムの本質に入らない。長期的視野がない。たとえば欧州では石炭から石油へのエネルギー革命が起きている。日本でも石炭はいずれ斜陽になる、時代の必然だと言っても、石炭産業、労働者を守ると応えるばかりで、長期的なビジョンは持っていなかったと私は思う。ことほど左様に、左翼は弱い者を助けると言うが、日本のエネルギー政策、流域問題、水源地問題をどうするかという観点はなかった。おまけにマスコミは、現象ばかり追い、本質を語らない。このように公共事業の哲学は顧みられなかったのです。



■本質を見ないジャーナリズム

山岡 - もの書きの端くれとして、耳が痛いです。マスコミが現象に目を奪われるのはウケたいからです。逆に言えば読者、視聴者もそれに反応します。話はそれますが、新聞が飛躍的に部数を伸ばしたのは、満洲事変(1931年)のときでした。戦場で撮った写真フィルムを飛行機で東京や大阪に運べるようになり、速報性、ビジュアル性が一気に向上し、錦州爆撃だ、上海市街戦だ、と報道されると読者が飛躍的に増えた。と、ともに、国粋主義、軍国化へと世論は傾く。熱狂を煽るマスコミは危ないです。本当に怖い。

高橋 - 私が小学校に入学したのは、1933(昭和8)年、歴史の転換点でした。前月の3月末に日本は国際連盟から脱退しており、私が教育を受けた間、日本はずっと国際的な孤児でした。中国は敵国、朝鮮はレベルが低い、1933年1月に政権についたヒトラーのナチス・ドイツは立派で、アメリカ、イギリスは鬼畜だと教えられた。中学に進んだ年に日独伊三国軍事同盟、翌年、日ソ不可侵条約。両方を仕切った外相の松岡洋右は大英雄でした。旧制高校2年のときに、やっと太平洋戦争が終わりました。教育というのは、子供にとって決定的です。私は、忠君愛国を叩きこまれた世代です。

山岡 - 「富国強兵」は明治以来の日本の国是とされてきました。いまでも似たことを言う政治家もいます。これは幕末の思想家・横井小楠の『国是三論』から引いたもの。勝海舟は「おれなど、とても梯子をかけても及ばぬ」と小楠を高く評価していますが、元々国是三論は、富国・強兵・士道が大切だと言っている。士道とは単純化すればリーダーシップでしょうか。しかし、いつの間にか士道は抜け落ち、富国と強兵だけになった。そこを顧みない。国を滅ぼすのは悪ではなく、愚だ、とも言われます。教育はだいじです。
すみません。脱線しました。ダムの話に戻しましょう。ダム建設を含む公共事業の大きな揺り戻しのきっかけになったのは、やはり環境問題でしょうか。

高橋 - 土木事業は自然が相手ですね。ダムにしても、高速道路、橋にしても。川は、人間がこの世に誕生する前からあるんです。だから「川づくり」なんて言う人もいるが、私は賛成しない。川をつくるなんて僭越です、自然とどう共生するかが大事です。公共事業は規模が大きくなるほど、自然環境、社会環境に与える影響も大きくなる。それを考慮して進まねばならなかったが、小手先の施工技術が進歩したので、造ればいい、となってしまう。環境問題はそれへの警告だった。

山岡 - 転換期は、1980年代でしょうか。

高橋 - そうですね。ダムは、環境への悪影響が大変わかりやすい。湖は水質が悪くなるし、土砂は溜まる。溜まった上流は川床が上昇するから水害を起こしやすい。下流は生態系が破壊される。川は、土砂が流れてきてくれないと困る。大きなダムを造った川ほど、土砂が下流へ流れなくなり、河口が浸食される。高さ155.5メートルの佐久間ダムは天竜川の上流にありますね。それで天竜川の河口、浜松市と磐田市の境は、ダムを造ったころと比べて、300メートルくらい浸食されている。海が陸地側に入ってきて、砂浜が減っています。佐久間ダムだけではない。他の大規模ダムの河口も同じ。日本の領土が減っているんです(笑)。

山岡 - ダムを含む河川整備事業にブレーキがかかったのは1990年代、バブル崩壊後の経済不況や財政赤字もあり、橋本内閣で大型公共事業縮小の判断が下されました。背景には、 「脱ダム」へつながるダム批判がありましたね。

高橋 - ええ。ただね、確かに環境問題は大切ですけれど、90年代からのダム自体を全否定する風潮は行き過ぎだと思いました。ダムのメリットというか、果たした役割もジャーナリズムは否定しました。高度経済成長期までは、洪水だ、渇水だといえば、なぜダムを造らないんだ、とジャーナリズムは書き立てたわけです。それが、一切、ダムはダメだと言いだす。ある有名な男性ジャーナリストは、長良川河口堰の反対運動の先頭に立っていました。当初、彼は「長良川はダムのない唯一の川だ。だから守れ」と言っていた。しかし、長良川の支流にはダムがあるのを知ると、前言を訂正するのかと思っていたら、その支流のダムの現場に行って、こんなに悪いダムがある、と開き直った。ジャーナリストには、そういう人が多いですよ。

■親子孫、三代が翻弄された「八ッ場ダム」

山岡 - 現実に河口は浸食され、ダム湖には土砂が溜まって、すでに水害が発生しています。ダムの老朽化も進んでいる。何から、どう手を打てばいいのでしょうか。

高橋 - 補修しなくてはいけませんね。ダムは、道路や橋よりは老朽化が少し後になりますけれど橋は、全面的に手を打たないとやがて次々落ちる恐れがある。高度成長期以降、土木事業は維持管理・補修が大切だということを忘れていた。なおざりにしたまま、公共事業を減らせばいい、という方向に走った。

山岡 - その象徴が、民主党政権の「コンクリートから人へ」でした。

高橋 - 標語としてはウケたのでしょうか。確かにわかりやすい。コンクリート=土木事業よりも、人=社会保障だ、と言いたいのでしょう。社会保障はだいじです。でも、コンクリートを否定することはないでしょう。メンテナンスが疎かになると警鐘を鳴らした土木技術者は多勢いましたが、伝わらなかった。

山岡 - 八ッ場ダムの建設をめぐるドタバタは、どのようにお考えですか。計画の原点は1947年のカスリーン台風(死者・行方不明者約2,000人)。同規模の台風が関東を襲っても水害が発生しないようにと、52年に利根川支流の吾妻川上流に多目的ダムをつくる計画が発表されます。八ッ場ダムには首都圏の「水がめ」の役割も託された。しかし、酸性の河水、貯水容量や水没物件の問題などで計画は進まず、補償問題もこじれて反対運動が起きる。1994年に建設省は付帯工事に着手しますが、事業費の膨張、天下り先団体への事業発注、首都圏の水需要の減少、水没する川原湯温泉への対策不足など、さまざまな点からダム建設への懐疑的な意見が多かった。一方で、吾妻川流域の豪雨への備え、埼玉県の安定利水への渇望、現在も利根川流域では渇水で取水制限がたびたび発生していることなどから、ダムが必要だとする意見も根強い。そうした状況で、2009年に前原誠司国土交通大臣は、マニフェストどおりに「事業中止」と明言し、地元住民や関係者から反発を受ける。次の馬淵澄夫国交相は、政府方針を撤回して「検証」を進めると表明。その次の前田武志国交相が建設再開の決意表明する、と。こうなったわけです。

高橋 - 前原さんは国土交通大臣に就任した日に中止と言いましたね。その前に現場には行かれたのかもしれませんが、マニフェストに書いたとはいえ、唐突でした。最後は、前田さんが現場で頭を下げたりしておられます。彼は、元建設省の官僚ですね。建設方針の二転、三転は、水没予定集落の人たちには、とても気の毒ですね。水没集落は、ダムができると聞けば、まず反対です。招かざる客はお断り。でも、その後、建設省なり、電力会社なりが10年、20年かけて説得して、条件付き賛成になっていく。移転をして、生活も変わる。その水没予定地域の公共事業は止まるんです。道路も、橋も、傷みます。住宅が壊れかけても修繕しない。いずれ水底に沈むのですからね。そうして何十年か経って、突然、工事ストップ。八ッ場ダムの場合は、親子孫三代、60年以上振りまわされているわけです。水没予定者は、一生を棒に振りかねない。それが三代続いた。

山岡 - 八ッ場ダムの是非自体はいかがですか。

高橋 - 反対派は、カスリーン台風のときにも吾妻川にはあまり雨が降っていないと言います。それは事実です。八ッ場ダムがあっても、吾妻川に雨が降らないのだから、いらない、と言う。あの川は、ここ50年間、豪雨は少ない。しかし、台風の進路如何でどうなるかわかりません。年々、台風は大型化していますし、もの凄い集中豪雨が発生している。海水温が上がったせいか、台風の進路は変わっている。上陸したら自転車並のゆっくりした速度で長期間、雨を降らせています。行政はどうする、と言われれば、吾妻川にも治水ダムがほしい、となるでしょう。八ッ場ダムは、工事を止めるほうがお金もかかります。

■老朽ダム再生、ふたつの視点「目的変更」と「若返り」

山岡 - 戦後の経済成長を、まさに縁の下の力持ちとなって支えたダムが、古くなり、さまざまな問題を抱えています。今後、老いたダムにどう向き合えばいいのでしょう。

高橋 - 20~30年先の課題と、百年単位の課題を分けますと、前者は「ダムの目的を変えること」。後者は「ダムの若返り」です。ダムのメンテナンスについては、利水者がお金を負担しています。利水者は地方自治体や電力会社などいろいろですが、日本の財政が厳しい折に補修資金を出すのは容易ではない。そこでダムの利用目的を変える。たとえば水資源機構は、その名のとおり、上水道や工業用水などの水資源を確保するためのダムを多く所有していますが、それを利水だけでなく、治水の安全性のほうへ一部目的変更する手もある。もっとも利水者はダムを建造する際に費用を負担していますから、補償をしなくてはいけない。そのお金をどうひねり出すか。財政的な厳しさはつきまといます。
 ダムの若返りとは、川床に溜まった土砂を浚渫して、どこかへ運び出すこと。土砂が溜まるほど洪水調節や利水の容量が減るわけですから、それを掘り出す。問題はやはり費用。佐久間ダムに関しては、管理する電源開発(株)と国交省が話し合っているようです。浚渫した土砂は、ダンプで下流へ運べばいいと思うかもしれませんが、膨大な量の土砂を運搬したらダンプ公害で大変なことになる。峡谷に造られたダムは、浚渫した土砂を置く場所もない。浸食されている河口へ持って行くのは正論だけれど、非常にお金がかかる。

山岡 - いま議論されている「ナショナル・レジリエンス(国土強靭化)」のプランのなかでダムの若返りなどもメニューに加わりそうでしょうか。

高橋 - そうなればいいですけどね。橋やトンネルは、待ったなしかもしれませんが、将来起きる大水害を想えば、いまダムの補修や土砂の浚渫に資金を投じたほうが、長期的にはよほど安上がりだと思います。

山岡 - 手をつけるべきダムの優先順位はついていますか。

高橋 - 決まっていませんね。どれもこれも危ない。佐久間ダムだけではないです。議論はしているのかもしれませんが、私は知らない。日本中に高さ15メートルを超えるダムは約3,000あるんです。その四分の一くらいは明治以前の農業用ですが、戦後、造ったダムは例外なく土砂が溜まって、困っています。

山岡 - 公共事業をどうするかは、政治の影響力が大きいです。

高橋 - 一般の人に、もう少し、公共事業の本質を理解してほしい。メディアに振りまわされるのではなく……。そのためには土木界自体が、都合のいい情報ばかりでなく、正確な情報を伝えなくてはいけません。そういう努力が足りない。何か言われたら、その場しのぎの反論はするけれど、公共事業のあるべき姿、正論を育てることが、私たちの役目だと思います。
(写真撮影・永田まさお)