2013年9月30日月曜日

第10回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(後編)

■土木と医学と化学工学の三本柱で「環境工学」を開拓

山岡 丹保さんの学問領域は、土木と医学(衛生学・細菌学)、化学工学の三本柱で成り立っておられます。土木から他分野へと専門が拡大した経緯を教えてくれませんか。

丹保 僕が北海道大学に入学した1950年当時、日本の水道普及率は、わずか26%です。都市問題イコール水問題だったので、ダムを造りたくて土木の河川工学を専攻しました。昭和27年の北大3年生の時の実習先は建設中の東京水道の小河内ダムでした。1938年に着工して戦争で工事が中断し、米国のフーバーダムやTVAのダムのテキストを参考にして、何とか造っていました。機械もフーバーダム建設で使った中古品でね、しばしば故障していました。僕の目の前でケーブルクレーンの支索が切れて、二人の作業員がビューンとはね飛ばされて亡くなりました。生まれて初めての経験です。それから1週間、工事は止まって、お葬式が行われました。現場で人が亡くなるとは、こういうことかと知りました。小河内ダムでは87名の方が犠牲になっています。

山岡 いまとは比べものにならないほど危険だったのですね。

丹保 そのままダムをやるつもりだったのですが、大学4年のときに日本で初めて、京大とともに北大に「衛生工学科」ができることになりまして、指導教授から、先発要員として行ってはどうか、と言われ、従いました。大学院では土木に籍を置きながら、半分、医学部に通って細菌学、衛生学を勉強しました。1957年に日本で最初の衛生工学科が北大に設置され、講師、助教授となって、米国へ留学したんです。

山岡 助教授時代、日本の河川では初めて、石狩川の水質基準を決める調査をなさっていますね。

丹保 はい。当時、江戸川と石狩川で水質基準が作られることになりました。どちらも製紙会社が廃水を川に流して、周辺の漁民、農民と衝突していました。江戸川は建設省の御膝元ですから調査はできます。北海道はなかなか人がいない。開発局から北大の研究室でやってくれないか、と丸投げで依頼されました。山歩き用の大きなリュックに、川水採取用の瓶をいっぱい詰めて、列車で最寄り駅まで行く。そこに開発局のジープが待っていて、現地へ行って水を採取して戻って分析、試験をする。毎週、毎週、そうやって石狩川の上流から下流までくまなく歩いて、石狩川の最初の水質基準を定める基礎資料を作りました。

山岡 米国留学のきっかけは?

丹保 あるとき、東北大学で開かれた物理科学分野の「コロイド(膠質)化学」のシンポジウムが催され、水処理の基礎を学ぼうと聴きに行きました。ところが、何のことやらさっぱりわからない。三日か四日聴いたけど、さっぱりわからない。これが理解できなければ、水処理の分野には踏み込めません。そこで米国で物理化学/化学工学を勉強することにしたんです。戦後の占領期間中、GHQはマッカーサーの指示で、日本の大学の応用化学の講座を化学工学に切り替えるよう助言したのですが、北大は出遅れていました。留学すれば、遅れを取り戻せるだろう、と。

山岡 GHQは日本の石油化学の勃興を視野に、化学工学を奨励したのでしょうか。

丹保 GHQの工業教育使節団が日本で遅れている分野として化学工学の全面的展開と中心的大学に3校ほどの衛生工学を作るように文部省に勧告しました。とにかくプラスチックができたばかり、ナイロンが出始めたばかりでした。化学工学は先端の科学でした。いまでこそ流体や応用力学と同じように扱われていますが、化学工学は最先端だった。日本には化学を産業化する機械工学との組み合わせの化学工学、医学と土木の組み合わせの衛生工学といった複合的な総合工学がないと示唆したのです。それで米国に渡って、水を凝集して、水がもっている物理、化学的なことなどを勉強しました。だから米国の友だちは、いまでも僕は物理工学、化学工学屋だと思っています。

山岡 そのまま米国に残ろうとは思わなかったのですか。

丹保 独身だったけど、米国人として残ろうとは思いませんでした。当時、北大の給料は70ドル(2万5200円)。米国の研究機関の給料が540ドル(19万4400円)。研究所のボスに「ここにいたら、来年は年俸1万ドルのポジションをつくってやる」と言われたけど、帰国しました。衛生工学を一歩進めて、日本に環境工学を確立するために留学したわけですからね。

■水処理における東西文化の違い

山岡 米国から戻られた翌年、1964年に東京五輪が開催されています。東京五輪は渇水危機のなかで、開幕が迫っていたのでしたね。

丹保 あの年、東京で国際水質汚濁会議が開かれました。平河町の都市センターが会場でした。現在の建物とは違う、古い建物だったのですが、水がなくてね、宇井純や、僕らはトイレで流す水をバケツで汲んで運びあげていました。

山岡 水俣告発で有名な、東大都市工の良心といわれた宇井さんとご一緒に、ですか。

丹保 そうです。都市センターでトイレを流す水がないものだから、外の井戸でバケツに汲んで、せっせと運びあげました。まったくひどいもんです(笑)。東京の水道は利根川とつながっていなかったから、小河内ダムができても焼け石に水。河野一郎さんの英断で、中川とつながってやっとオリンピックができました。

山岡 それからの上下水道の普及の早さは、目を見張るものがあります。下水道の普及率は、現在では75%くらいになっていますね。

丹保 日本は官僚組織が全国一律、号令一下、補助金つけて一気にインフラを普及させました。欧州で100年かかったところを、30~40年でやった。だから日本の上下水道は、バリエーションがなく、おもしろみに欠けます(笑)。フランスは、パリのなかでも200年くらいの幅で建設した水道、下水道の設備があります。だから、古いものをリフォームする際、最先端の技術を採り入れられる。ドイツもそう。ルール川は、広域水道、下水道のトップランナーを走っています。

山岡 汚れた水をきれいにする水処理の方法は、それぞれ国柄の違いがあるのでしょうか。

丹保 国による違いよりは時代の違いが顕著です。1930年代頃までは緩速砂濾過法という方法が採られています。ふつうの沈殿池に原水を、半日くらい静かに置いて、それを静水圧で1日に3~4mというゆっくりした速度で濾過を均一に進行させて浄水をつくります。もとは1820年ころ英国で発明された濾過方法なのですが、テムズ川のほとりに大きな池をいっぱいつくっていて、半日から1日、場合によれば10日も溜めた水を濾過している。自然発生的な技術です。1900年代に入って人口増加の著しいアメリカ東部で、アルミニュームや鉄塩の凝集剤を用いて水中の粒子を集塊沈殿させて、その水を1日に120m程で高速濾過する急速濾過法が開発され世界に普及します。日本の処理法の大半もそうです。

ライン川の下流に位置するドイツやオランダでは様々の微量汚染物質が流れ込んでくる長大河川の下流の複雑な水質から人々を守るために、活性炭吸着をして、さらに地下帯水層に流しこみます。それを井戸で汲んで、配っています。地下帯水層に長時間おくことによって、瞬間的に原水に汚染物質が混じるようなことがあっても長時間の平均化で対応できますよね。オランダでもアムステルダムの砂丘の浸透濾過池に水を突っ込んで、3か月くらい溜めてから出して、処理して配る。一回、地中に戻した水は、大地の恵み、と欧州人は思っているようです。発想が全然違います。

山岡 江戸時代の江戸は、水の循環が衛生的で優れていたとよく耳にしますが。

丹保 江戸だけでなく、当時の城下町はきれいな浄水を汲んで飲んでいましたね。そしてし尿は全部肥料に回していた。し尿は資源でした。汚水といっても、当時はそんなに出さないでしょ。米のとぎ汁くらいなもので、紙だって、全部手習いの習字に使って、最後は焚きつけですね。ほとんど始末がついていた。それが明治以降、人口が増えて、大正時代に東京市清掃条例というのができた。し尿を汲みとって、きれいに処理しましょう、垂れ流してはいけませんという条例です。ここからし尿が廃棄物になりました。

■水循環はフラクタクル―皇居のお濠の水も飲めるようになる

山岡 水をコントロールする技術は、自然と人工との合作なのですね。

丹保 要するに、溜まって止まっている「静水」と、流れている「流水」の組み合わせなんです。静水と流水のいろんなパターンが、小川から大河川まで、フラクタクルにくり返されています。東京のような大都市は、フラクタクルなパターンをぶち抜いて水道、下水という大規模なパイプ網をつくって高速で流していますが、田舎の一軒家のなかには天水を溜めて、使って、排水しているところもありますね。これはフラクタクルの一部のエレメントです。分散型の極小といえるでしょう。

山岡 分散自立型の水代謝のシステムをつくろうとしたら、このフラクタクル構造を利用し、制御しなくてはならないのですね。そうすると、どの程度の規模なら分散型でコントロールできるのでしょうか。

丹保 それは情報系によって決まります。一軒家くらい小さければ、少ない情報を家主がコントロールして水を使えますが、地方の自治体レベルでやろうとすると、知恵も腕力もないリーダーが変なことをして失敗するよりは、能力のある都道府県レベルに頼もうか、となるかもしれません。情報をコントロールできる能力が、規模の大小を決めます。

山岡 ふと『方丈記』の冒頭を思い出しました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。この淀みに浮かぶ泡の生滅もフラクタクルの一要素のようです。フラクタクルの概念が最適化された分散自立の規模とは、どのくらいなのでしょうか。

丹保 わかりませんね。水道水だったら、1日に大きくて10万トン。小さければ、数千トンでしょうか。その場合でも、情報は人間が使うものだから、ネットワーク系をつくって、ハードウェアは小さくても、トータルで制御している人がいればいいんです。つまりインテグレート・システムでやればいい。たとえば東京なら、皇居の周りのお濠にあれだけの水があります。でも、お濠の水、飲めませんでしょ。あれを全部きれいにして、飲めるようにするのは、さほど難しくない。いっぺんにやろうとしたら大変です。しかしお濠の裏側に小さな浄水場をつくらせていただくとか、たくさんの水を皇居の林に捲かせていただくとか、毎日、水を回していけば浄化できます。もしも東京で大災害が起きたら、すべて補給品になりますね。

山岡 それこそ国土強靭化ですね。大きな堤防をつくるだけが能じゃない。

丹保 利根川の上流に新しいダムを造りたくなければ、飲み水だけは既存のダムから東京に運ぶ。そしてビルや工場の雑用水は、芝浦運河を淡水化して賄う。芝浦に水門を造ってね、品川運河をすべて淡水化してしまう。膜処理技術が発達したから、ビルなら通常の正常な淡水さえ手に入れば、困らないでしょう。いずれ、そういうローカルな分散自立型のシステムはできるだろうと僕は思っています。隅田川で泳ぐのは夢ではないのです。

■「ふたつで一つ」の日本文明が「近代の崖」を超える?

山岡 前回の対談で、丹保さんは2100年、世界人口が100億人に達したら、近代文明は終わる、日本は、そのとき新たな文明の担い手として浮上するチャンスがある、とおっしゃいました。『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンチントン氏や、生態学者の梅棹忠夫氏は、日本文明を融通無碍で東洋と西洋の仲立ちをし、融合できるものととらえていました。そのあたりにも「近代の崖」を超える可能性を感じておられるのでしょうか。

丹保 日本は中華文明の端に位置しているのですが、縄文から定住して一万年の歴史を持っています。中国は、確かに巨大だけれど、時代ごとに中心の場所が変わっています。もともと西方に位置していた国が山東半島まで掌中に収めたのです。こうして見ると、一万年前に縄文文化を持った日本の普遍性は、注目されていい。先端に出るかもしれません。

山岡 日本文明の普遍性ですが、突きつめると「ふたつで一つ」という原理ではないかと思います。『西欧キリスト教文明の終焉―日本人と日本の風土が育んだ自然と生命の摂理』(中西真彦・土居正稔著 JPS出版局)という本に示唆を受けたのですが、たとえば、朝廷と幕府、風神と雷神、火の神と水の神、あうんの狛犬……日本では大切なものをふたつ用意してきました。天皇の権威と政府の権力を使い分けてもきました。両方が並び立って、初めてひとつとなる。この考え方が基本にあったから、外から流入してくる文物を相対化し、多元的にとらえられたのではないか、と想像します。都市づくりや、インフラ整備も「ふたつで一つ」といった対概念、補完的な思考が不可欠ではないかと思います。

丹保 確かに伊勢神宮も、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)という二つの正宮がありますね。伊勢神宮は、インフラの神様ともいえます。式年遷宮もあり、新陳代謝=メタボリズムを象徴しています。メタボリズムは人間の生活の基本です。建築家のなかにはメタボリズムの名を借りたグループもありましたが、建築物の水道や下水を「裏から見た○○」といった言い方しかしない。建築家のメタボリズムは、せいぜい空調と揚排水までです。やっぱり違うなぁと思いますね。

山岡 彼らは様式美や意匠への関心が強すぎて、メタボリズムの本質論まで深められないのではないでしょうか。構造物や建物をデザインする人が、せめて対概念をもっていないと、単一的で直線的な価値観にとらわれる。そういうデザインは、弱い。

丹保 僕は大学に長くいましたが、半世紀以上も前、留学した米国のシビル・エンジニアリング学科には、経済学、生物学、素材学の教授たちがいましたよ。土木一辺倒じゃない。

山岡 多角的なアプローチのほうが、学びは深まりますね。

丹保 そうです。近代というのは科学技術の文明です。違った表現をすれば、真似ることが学ぶこと。日本では大学の4年間で決まった範囲しか学ばない。米国の大学は、社会人がどんどん入ってきます。社会で経験を積んで大学に戻るから、全体のレベルが上がります。

山岡 日本の製造業が元気だったころ、新卒の学生を会社は全人的に鍛えるしかない、とモノづくりの大部屋に叩きこみました。エンジニアや営業、技能士、デザイナーや購買が一緒になって「知識創造」をして、モノをつくった。そのなかからイノベーションが起きて、市場を変革しました。大学教育の実践編を企業が担っていました。

丹保 そのときに、企業は大学を利用しなかったのですよ。なぜ、米国の大学が世界で1、2のレベルにあるかというと、そのときに大学を使うんです。工学系では、世界で一番優秀なのはカリフォルニア工科大学、次がハーバードかMITですが、企業で経験を積んだ人が、ポスドクとして大学に勉強しにきている。博士号を取った上で、別の勉強をする。だからレベルが高いんです。

山岡 科学技術、あるいは学問というのは、さまざまな刺激を受けて、単純に直線的に上昇するのではなく、スパラル状に向上します。そういう道筋を大切にしてほしい。

丹保 おっしゃるとおり。歴史も、必ずスパイラルです。そして、この伸びしろが学問の進歩なんだと思います。基本的には、クローズとオープンで、歴史も回っています。閉じたり、開いたりの連続です。縄文時代から、古代、中世、近代、そしてまた新中世。「閉じた代謝と開いた心」の文明が始まるかもしれません。文明を支える技術は、すべて違います。しかも、伸びしろがあります。伸びしろは、人が増えるからできます。アイヌの人は確かに自然と共存していました。そのころのアイヌの人の人口密度は1平方キロに0.5人。いま、北海道には1平方キロ60人が住んでいます。日本全体では350人。東京では6000人を超えています。これでは、アイヌの人と同じ文明では暮らせません。地球の人口が100億人を突破するまで、あと80年余りです。私たちの置かれている状態をしっかり認識し、将来ビジョンを議論しなくてはならないでしょう。