2013年7月31日水曜日

第6回 元本四公団総裁 山根孟さん(後編)


■東条英機に却下された高速道路計画

山岡 今回は、高速道路行政について、お聞きしたいと思います。高速道路の建設も1990年代以降、無駄な公共事業と批判されてきましたが、なぜ、どのように高速道路が造られるようになったのか、一般にはあまり知られていません。批判をするにしても、来歴を知ることは大切だと思います。日本では、1962年の首都高速1号線(京橋~浜崎橋JCT)の部分的開通を皮切りに、63年の名神高速(栗東IC~尼崎IC)、68年の東名高速(東京IC~厚木IC、富士IC~静岡IC、岡崎IC~小牧IC)、中央自動車道(八王子IC~相模湖IC)……と経済の高度成長に合わせて、どんどん延びていきます。
 そもそも、高速道路の構想は、戦前まで遡るのですね?

山根 はい。高速道路建設の基礎調査が初めて、正式に行なわれたのは1940(昭和15)年~1942(昭和17)年です。当時の内務省土木局が「重要道路整備調査」の一環として行なっています。民間でも同じ年に「東京~下関間幹線道路建設促進同盟」が誕生し、「弾丸道路」という呼び名で高速道路への関心が高まりました。当時、ドイツでヒトラーが進めていたアウトバーンの高速道路網建設に刺激されたのです。陸上輸送力の強化は戦時体制では不可欠と考えられていました。1942年には大東亜道路会議が東京で開かれ、日本本土から朝鮮半島、中国、タイ、ビルマ(現ミャンマー)東南アジア諸国を経てヨーロッパの道路網につなげる夢の構想が示されています。現代のアジアハイウェー構想ですね。

山岡 政治を牛耳っていた軍部は、高速道路の建設に前向きだったのでしょうか。

山根 それにはエピソードがあります。内務省土木局は、「全国自動車国道網計画(5,490km)」をまとめます。その最優先区間として東京~神戸をあげ、このうち名古屋から神戸間を緊急区間として実施計画を策定しております。名古屋~大阪間は「木津川ルート」(いわゆる名阪国道)の計画です。この名古屋~神戸間の高速道路建設費を2億円と概算し、予算要求を行なうことになりました。
それで、内務省の省議に予算案を提出した。当時の内務大臣は陸軍出身の東条英機です。東条大臣は、その案をひと目見るなり、「土木局は気が狂ったのか」と、差し戻したそうです。戦争遂行には莫大な国費がかかるのに、何を考えているのか、狂気の沙汰だ、との思いからでしょう。当時、東京と神戸の間の国道でさえ、自動車のすれ違いが困難な区間が多く、トラック輸送などの面で高速道路のニーズは高かったのですが……。戦局が悪化した1944年には、国鉄の新幹線計画と同時に高速道路調査も打ち切られました。

■ワトキンス調査団の秘話―政治家秘書の胆力

山岡 戦争は、つくづく国を破壊するものだと思いますね。終戦直後は、戦争中に手がつけられなかった国道の改修で手いっぱいだったと前回の対談でお聞きしました。高速道路建設が動きだすのは、やはりサンフランシスコ講和条約が発効し(1952年)、日本の主権が回復してからでしょうね。

山根 『高速道路と自動車』(現在の公益財団法人高速道路調査会発行の月刊誌)という雑誌で、「ワトキンス調査団報告45周年記念座談会」(2001年2,3月号)が行なわれ、そこで戦後の高速道路建設の始まりについて、興味深い話が開陳されています。1952年に、電源開発の高碕達之助総裁が、大学の研究者だった川本稔さんという方を秘書に登用し、吉田茂総理がヨーロッパ経由でアメリカへ行くのに同行せよと命じます。吉田総理は、東京から神戸まで高速道路をつくることに非常に熱心で、これまでにもドイツのアウトバーンやアメリカの高速道路を視察したりしていましたが、この時には資金面のメドをつけようとしていたようです。

山岡 高碕達之助は、水産技師から会社経営者、政治家に転身した人ですね。戦中は、満洲重工業総裁を務めました。日産コンツェルンの鮎川義介とも親しい。いわゆる満洲閥の人材で、電源開発総裁として佐久間ダムの建設にも尽力しています。戦後の道路や電源開発などの公共事業は、満洲閥の力で進められていますね。

山根 ええ、満洲で試みられた手法が、戦後の国づくりの実践に活かされた面はあるでしょう。高碕総裁の秘書となった川本さんは、もともと土木とは縁のない方でした。建設省の職員から2週間、昼夜兼行で道路に関するレクチャーを受け、米軍に掛け合って日本列島の立体地図を入手し、そこに高速道路のルートを全部描き入れて、吉田首相と一緒にアメリカへ渡ります。その後の顛末がおもしろい。座談会から川本氏の発言を引用しましょう。
 川本「吉田総理の考えは、当時、余剰農産物資が日本にどんどん入り、その資金である円がかなり溜まっているので、それを使わせてもらう交渉をしようということだったんです。しかし、ワシントンに乗り込んだところ、私の出番どころか初めからそれは潰されまして、吉田さんが私に、『残念だったけれども、ウォール・ストリートの法律事務所に君を預けるから、トールロード(Toll Road有料道路)のボンド(起債)を勉強してくれ』ということでニューヨークに私は預けられました(略)。  ……資金の問題でワールド・バンク(世界銀行)に行き、ミスター・ドールという日本の担当者に会い、『日本は道路をつくりたいんだ、金を貸してくれ』と言ったら、『ノー、日本は道路なんかいらない。日本はインシュラ・カントリー(島国)だから、マーチャント・マリーン(海運力)をもっと発展させろ、それが一番早道だ』という答えが返ってきました。私は『しかし、日本政府はどうしても道路が欲しいと言っているんだ。私は場合によってはアメリカの一流の専門家を日本へ連れて行くけれども、レポートを書いたら見てくれるか』と申したところ、『必ずしも金を貸すというわけにはいかんが、レポートはいつでも見てやる』と言われました。『ああそうか』ということで、私はワトキンスさんに頼んで、人選をしていただいたわけです」
山岡 なるほど、そこから「ワトキンス調査団」が編成され、あの有名な書きだし、「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」で始まるレポートができるのですね。レポートを契機に道路づくりが始まります。それにしても、川本氏の世銀相手の粘り強い交渉力には感服します。私は、最近『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社,2013.6)という評伝を出版したのですが、体を張って復興に挑んだ人たちに共通するのは崖っぷちでの胆力。彼らには長期的な先見性がありました。だから力が発揮できた。豊かで、平和な現在も、じつは、そのような先見性が求められていますが、短期的な価値観だけで動きがちです。

山根 国土づくりは、本来、長期的な視点で取り組まねば成功しませんよ。

■東海道と中央道を巡る大論争の始まり

山岡 さて、日本を調査したワトキンスは名神高速道路の経済的・技術的妥当性をまとめた報告書を提出、1956年8月帰国します。そこには「東京から名古屋までの中央道案は東海道案の代替案ではなく、経済開発のために望ましいもうひとつの計画である」としています。東名が先か、中央が先かで、政治を巻き込んだ大論争へと発展しますね。中央道と東海道の先陣争いです。

山根 中央道の大の推進者は、青木一男先生です。発端は1955年に議員立法として国会に提出された「国土開発縦貫自動車道建設法」でした。海岸線を走る道路ではなく、日本の内陸部を縦に背骨のように貫く高速道路を建設するための法律です。青木先生は、この立法に財政の専門家として関わられました。

山岡 青木さんは、大蔵官僚出身で、戦前から戦中にかけて大蔵大臣、大東亜大臣を歴任し、戦後、A級戦犯容疑で収容、釈放されてからは、参議院議員として政界で活躍された人ですね。お孫さんが民主党の参議院議員だった小宮山洋子さん。

山根 青木先生の見解は「わが国の産業、人口は特定の地域に集中しすぎている。交通の便をよくすることによって、今まで遅れている地方を開発し,人口の分散を図ることが国策の基本である」、「高速道路建設は自力でできる。お互いに働いて貯蓄し、それで高速道路を建設して子孫に残すべきである」という論旨です。

山岡 ああ、郵便貯金を使った財政投融資の発想ですね。財投は、明治に郵便貯金制度ができて間もなく始まった。その後、大蔵省資金運用部が担当しています。


■名神高速道路の着工と中央道・東海道論争の激化

山根 ワトキンス調査団の来日に先立ち、1956年4月、高速道路の建設・管理を担う日本道路公団が発足しております。57年4月には、国土開発縦貫自動車道建設法、高速自動車国道法が成立、公布されました。翌5月、国土開発幹線縦貫自動車道建設審議会が開催、名神高速道路の審議が進められ、10月15日、その整備計画が決定されました。これにより、名神高速道路の施行命令が発せられ、建設が始まることになりました。これには世銀借款が導入されます。
 これを機に、中央道・東海道論争が激化します。東海道を優先すべきだとの猛烈な運動に対し、青木先生は、東京・山梨・長野・岐阜の各知事、議長などの関係者を糾合して建設推進委員会の委員長に就任し、政治の舵取りをします。自民党内でも東海道派と中央道派に分裂、深刻な事態になりました。たまりかねた村上勇建設大臣が、「どうか中央道側で譲歩して東海道案も認めてもらいたい。中央道については、政府と自民党で建設促進の保証を与える」と青木先生に申し入れます。それで折れて、東海道案を認めることとなりました。
 1960年7月、中央自動車道の路線を定める法律(東京~小牧間)と東海道幹線自動車国道建設法の両法の制定となり、62年5月、中央自動車道の東京富士吉田間と東名高速道路の東京~静岡間の施行命令となります。63年10月には、東名高速道路の施行命令は全線にわたりました。

山岡 本四連絡橋のルート争いに似た対立ですね。

山根 中央道、東海道、両方の高速道路の同時着工が正式に認められ、いざ予算の配分。ここに至って、こんどは大蔵省と経済企画庁の事務当局が中央道着工反対の方針に固執します。東海道を先に通して、経済発展の果実をもぎ取りたいわけです。『道を拓く』という本に、青木先生がその顛末を寄稿しておられます。政府が東海道を先にして、中央道を後回しにするなら、重大な決心がある、と大平正芳官房長官と前尾繁三郎幹事長に対して、次のようにおっしゃいました。  
青木「この期に及んでも東海道の建設費だけが先に決まって、中央道はあと回しになるということになるならば、自分は何の面目があって各県の諸君にまみえるのか。自分は当然責任をとるつもりである。しかし、その前に自民党と政府がいかに信用のおけないものであるかを天下に表明し、その上で自分の進退を決するが承知されたい」

山岡 ハッタリではなさそうですね。

山根 大平官房長官も前尾幹事長も大蔵省では、青木先生の後輩ですから、青木先生の有言実行の性格はよく知っています。そこから政府、自民党とも中央道を放置するわけにはいかなくなり、建設予算がついたんです。

■中央自動車道は、なぜ諏訪経由になったか? 青木一男の決断

山岡 中央道には政治の場での闘いが反映されていますねぇ。当時のマスコミの論調を見てみますと、中央道には批判的です。1959年12月29日付の読売新聞は「再考を要する中央高速道路」と題して、次のように論説しています。
「(建設省がまとめた中央道路線についての)報告書の結論としては、山岳道路につきものの豪雨、降雪、凍結、霧など気象的な悪条件の重なりと、勾配区間やトンネルが多いことから走行速度が制限されるため、高速道路としては不適である点をまず指摘している。さらに全長二九五キロのうち五割までがトンネル、橋梁などの構造物で占められているため、建設費は三二〇〇億円の巨額に達し、(中略)有料道路として非採算的であると結んでいる。この報告で明らかにされるまでもなく、中央道については、かなりの疑点がある」

山根 当初の中央道の計画は、富士吉田から身延町を経由して、飯田市に至ることになっていました。南アルプスを貫くわけです。この間に全長8,058mの赤石トンネルはじめ大小多数のトンネルがありました。世界一金のかかる道路建設になりそうでした。青木先生も、そのことは承知のうえで東海道との同時着工にこぎ着けた。
 しかし、その後、ご自身が欧州へ視察に行き、フランスとイタリアを結ぶモンブラン・トンネル(全長12,000m)の建設現場に赴き、大規模で困難な工事を目の当たりにして、建設省や道路公団の反対論にも理由があることを痛感します。帰国すると、従来の赤石山脈をぶち抜く案を変更し、諏訪地方を経由するルートに改めると提案したのです。

山岡 ははぁ。それで諏訪経由に変わるわけですか。一説には、青木氏が長野出身なので“我田引道”とばかり、自分に都合のいいように変えたとも言われていましたが……。

山根 いや、違いますね。赤石山脈を迂回するために諏訪経由にしたのです。

山岡 建設省は手を叩いて喜んだでしょうが、急に予定していた高速道路が通らなくなった身延町とか下部町、長野県下伊那郡の町村などは、話が違う、と大反対したでしょう。

山根 そこから、また青木先生が、政治力を発揮して関係各団体を説得して回られました。ルートから外れた自治体には県が道路整備を重点的に行なうとか、手当ても用意されました。

■高速道路の全国展開へ

山岡 名神、東名、中央の次のステップは?

山根 1963年7月関越自動車道建設法、以後、東海北陸、九州横断、中国横断と自動車道建設法の立法が相次ぎ、国土開発縦貫、東海道幹線をあわせ、6建設法により、13路線、約5,000kmが定められました。建設省はこれらを包含し、全国にわたる自動車道路網32路線7,600kmを策定、国土開発幹線自動車道建設法を提案、1966年7月公布に至りました。同年同月には、中央道の甲府~小牧間、東北縦貫道の岩槻~仙台間、中国縦貫道の吹田~落合間、美祢~下関間、九州縦貫道の粕屋~託麻間、北陸道の富山~武生間の整備計画が決定、施行命令が発せられ、高速道路の建設は全国にわたります。
  青木先生は高速道路建設に全精力を注ぎ込んでおられた。私は、1972年から76年にかけて、3年7カ月、高速国道課長を務めさせていただきましたが、その間、たびたび青木先生を現場にご案内しました。随分、勉強をさせていただきました。先生にある原稿を見ていただく機会があって、「国土の秩序ある有効利用」のフレーズには、首を傾げられて「国土の全面的な有効利用」と訂正していただきました。

山岡 秩序では都市優先の序列がつくけれど、全面的とすれば地方も開発できる、というわけですね。

■エンジニアの役割は「コンクリートに血を通わせる」こと

山岡 戦前の「弾丸道路」の構想が東名、名神高速に結実し、旧中央道の赤石トンネル貫通プランも、リニア中央新幹線に引き継がれます。世紀を超えて交通体系は継承されているわけですが、その交通インフラの老朽化に、どう対応したものでしょうか。

山根 憂慮されるのは橋梁です。1980年代に『荒廃するアメリカ』という本が出て、アメリカのインフラ老朽化問題が浮上しました。上司から、「アメリカを視察してこい」、と命じられ、専門の連中と渡米しました。一番感心したのは、全米にわたり経年的に橋梁を点検・分析しており、連邦議会に報告していることでした。道路庁に行くと、一課の課長がコンピュータで小さな橋から、大きなハイウェイにかかった橋まで、徹底的に分析してレポートを作っていた。今年の2月、オバマ大統領は一般教書演説の中で、全米で7万もの橋梁が老朽化していることを例に挙げながら、「まず修繕を」と訴えております。
 日本では、まず点検・分析の徹底、さらに診断、保全・長寿命化計画の策定と実施が緊要です。橋梁台帳のない都道府県もあり、市町村になればもっと管理は遅れている。

山岡 最近は定点カメラで橋の状況をモニタリングする技術などもできていますね。

山根 チェックできる技術者が足りなければ、それなりの工夫をしなくてはいけません。「コンクリートから人へ」と公共事業は目の敵にされましたが、エンジニアの役割は、「コンクリートに血を通わせる」こと。そこは、時代の移ろいに関係なく、不変だと思います。

(写真撮影・永田まさお)



参考
昭和38年(1963) 6月栗東~尼崎間 71.1km供用開始
7月関越自動車道建設法 公布
9月地域経済問題調査会答申:社会資本A,B,C
11月国土建設の長期構想,道路整備の長期構想
「拠点都市の育成,交通需要の交通需要の激増に対処し,幹線自動車道路網を設定して整備を促進する(イタリア方式),都道府県道以下は未改良であっても 交通量の少ない道路は現道のまま舗装(イギリス方式)を含め,10ヶ年で舗装する,目標年次(昭和55年度)に交通量が交通容量を越える区間については改築,再改築を行う」ことを骨子としている。
昭和39年(1964) 6月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
東北自動車道,中国自動車道,九州自動車道および北陸自動車道の予定路線を定め,中央自動車道の予定路線を変更(諏訪回りに)
7月東海北陸自動車道建設法 公布
昭和40年(1965) 1月中期経済計画 閣議決定
第四次道路整備五箇年計画 閣議決定
5月九州横断自動車道建設法 公布
6月中国横断自動車道建設法 公布
7月名神高速道路全通
昭和41年(1966)7月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
名称を「国土開発幹線自動車道建設法」と改称     
7,600kmのネットワーク
昭和41年(1966)7月いわゆる縦貫5道1次区間の施工命令
中央道の甲府~小牧間,東北縦貫道の岩槻~仙台間,中国縦貫の吹田~落合間、美祢~下関間,九州縦貫道の粕屋~託麻間,北陸道の富山~武生間の整備計画が決定,施行命令が発せられた。

<国土開発幹線自動車道路網-高規格幹線道路網設定までの経緯>
  • 昭和44年(1969)5月 新全国総合開発計画
    60年度を目標年次とし,高福祉社会を目指した人間のための豊かな環境の創造を目標に,
    ①自然の恒久的な保護保存
    ②開発可能性の全国土への拡大・均衡化
    ③各地域独自の開発整備による国土利用の再編成・効率化
    ④都市,農村を通じての安全,快適で文化的な環境条件の整備・保全
    の四つの課題をあげ,目標達成の方式として,大規模開発プロジェクト構想をとった。高速道路網は新ネットワーク形成にかかるプロジェクトとして,国土の空間構造の基礎を形成し,国の地域開発政策の重要な戦略手段とされた。
  • 昭和46年(1971)3月 第6次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間中1,900km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進
  • 昭和48年(1973)2月 経済社会基本計画:
    高速自動車国道については, 国土空間の再構築のための基礎条件として,昭和60年度までに約10,000kmを整備することを目途に,計画期間(昭和48~52年度)中に既設高速道路を含め約3,100kmを供用する。
  • 昭和48年(1973)6月 第7次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間(昭和48~52年度)中おおむね3,100km供用
  • 昭和52年(1977)11月 第3次全国総合開発計画:
    高規格幹線道路網の構想 として10,000km余,本州四国連絡ルートは,当面早期完成を図るルートとして児島・坂出ルートに道路鉄道併用橋を建設(環境影響評価を実施の上)
  • 昭和53年(1978)5月 第8次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期 (昭和53~57年度)中に既供用区間を含めおおむね3,500km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進など
  • 昭和62年(1987)6月 高規格幹線道路網の設定
    建設大臣により,国土開発幹線自動車道等7,600km,本州四国連絡道路180km,これらと接続する新たな路線6,220kmをあわせ14,000kmのネットワークが定められた。