2013年7月15日月曜日

第5回 元本四公団総裁 山根孟さん(前編) 

山根孟さんプロフィール
1928年2月20日生まれ、1950年東京大学第2工学部土木科卒、同年5月建設省入省(中国四国地方建設局岡山第一工事事務所)、1958年中国地方建設局岡山工事事務所調査設計課長、1962年道路局企画課長補佐、1970年道路局企画課道路経済調査室長、1972年道路局高速道路課長、1976年道路局企画課長、1977年中国地方建設局長、1978年道路局長、1980年本州四国連絡橋公団理事、1986年本州四国連絡橋公団総裁。この間、1963年~1964年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会上部構造に関する専門委員会幹事、1965年~1976年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会幹事補佐、同耐震設計小委員会委員、同耐風設計小委員会委員のほか土木学会土木計画学研究委員会幹事、同委員、企画委員会委員、建設用ロボット委員会委員長などを歴任。2000年には土木学会功績賞を受賞している。
主な著書に『計画者と技術者のための交通工学 』(共訳、1976)、『道を拓く-高速道路と私』(共著、1985年)その他「土木学会誌」、「道路」、「高速道路と自動車」などの雑誌掲載記事多数。
対談日:2013年4月30日  於:土木学会会議室
(写真撮影・永田まさお)

■戦後、頻発した海難事故――本四架橋は人びとの悲願


山岡 個人的な話で恐縮ですが、私は愛媛県の松山市で生まれ、高校を出るまで過ごしました。四国の人間にとって海は親しみがあり、その恵みを享受する一方で、荒れたときの怖さは骨身に沁みています。じつは、私の伯母は幼かった従兄とともに客船の海難事故で命を落としました。私が生まれる前の話なのですが、祖母は100歳で亡くなるまで、台風が接近していたのに伯母たちを船に乗せたことをずっと悔いていた。正確な天気予報などない時代の海難事故だったのですが……。
 現在、本州と四国の間には、神戸―鳴門ルート、児島―坂出ルート(通称:瀬戸大橋)、尾道―今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道)と3ルートの橋が架かっています。財政負担の大きさや、予想を下回る交通量などから、本州と四国の間に三つも橋なんていらない、という批判をよく耳にします。マクロ的に見れば、確かにそういう面はあるでしょう。ただ、本四架橋の原点は単なる経済効果だけではなかった。生命を救う橋だったのだということを、ちょっと申し添えておきたい。感傷に浸っているのではなく、実際に戦後の復興期には船の沈没事故が次々と起きていますね。


山根 ええ、そうです。終戦の1945年11月には瀬戸内海汽船の「第十東予丸」が、定員の三倍を乗せた状態で荒天に船出し、伯方島沖で沈没し、死者・行方不明者450余名(『愛媛県史』)を出しています。間を置かず、同年12月、播淡汽船の「せきれい丸」が明石海峡で沈没して、304人が亡くなった。48年には阪神―多度津航路の関西汽船「女王丸」が牛窓沖で機雷に触れて沈み、死者・行方不明者は199名(『岡山県史』)……と、海難事故は頻発しています。
当時は、まだみんな自分が食べることに一生懸命で、事故が起きてもなかなか公共政策に対策が反映されなかった。転機は1954年9月、国鉄の青函連絡船「洞爺丸」事故です。これで1155人の方が亡くなりました。国鉄は、真剣に海を越える橋を考え始めます。そして55年5月に国鉄の宇高連絡船で「紫雲丸」の事故が起きた。視界100メートルの濃霧のなかで、四国の高松と岡山の宇野を結ぶ客船の紫雲丸と、貨物船が衝突して、修学旅行中の小中学生など、168人が犠牲になりました。この事故を受けて、瀬戸内海を安全に快適に渡りたい、橋かトンネルを、と地域の機運は高まり、同年8月に「本土淡路四国直通鉄道促進期成同盟会」(会長・徳島県知事)が結成されます。国鉄は本四連絡鉄道の調査を開始しました。ここから本四連絡橋の議論が高まっていきます。

■阪神・淡路大震災で1m延びた明石海峡大橋


山岡 山根さんは1950年に東大の土木を卒業されて、建設省に入省され、すぐに中国四国地方建設局(1958年に中国と四国に分離。現・中国地方整備局、四国地方整備局)に赴かれたのですね。どのような仕事からスタートされたのですか。


山根 公共事業は壊滅状態でした。河川、道路、港湾などをどう復興させるか、食料をどう確保するかが国策の中心課題でした。最初に上司から「土木研究所へ行って、打ち合わせて来い」と命じられました。岡山の工事事務所は、旭川と吉井川の河川改修、国道2号(旧山陽道)と30号(岡山から瀬戸内海を挟んで高松へ至る)の改修が主たる事業でした。そこに食料確保、穀倉地帯創出のために農林水産省の児島湾干拓事業が持ちあがります。湾奥を締め切って、人工の淡水湖(児島湖)をつくる計画でした。その淡水化に関わる調査です。旭川は児島水道に流れ込むものですから、湾を閉め切ると旭川の流量に影響が生じ、洪水を招くのではないか、もし洪水の危険があるのなら対策が必要ではないか、と。現代のアセスメントですね。二年くらい調査し、電算機を使って複雑な計算をしましたが、結局、影響なし。建設省は農水省に事業を進めてください、と返事をしました。


山岡 次が国道の改修ですか。


山根 そうです。国が手をつけるところは、どうしても県境付近からになりましてね。そこが一番、なおざりにされていますから。県の方々は、どうも東京へ向かう道路は一所懸命に手を入れるのですが、離れていくほうは不熱心(笑)。県境のトンネルなどは遅れがちでした。国道2号の広島県境にちかい笠岡市の金浦湾あたりは軟弱地盤で苦労しました。30号の児島湾周辺の地盤も悪かった。

山岡 地盤の議論は、あまりマスコミにも出ませんが、大切ですね。

山根 東日本大震災でも地盤の問題がありました。千葉県浦安市では、砂地盤が地震で揺すられて液状化しましたね。あの現象は1964年の新潟地震で最初に生じ、深刻な被害を与えました。信濃川左岸では液状化で県営アパートが大きく傾いて、ほとんど横倒しになった棟もありました。震源地に近い信濃川右岸では、新潟空港の滑走路が液状化に見舞われました。95年の阪神・淡路大震災では、神戸のポートアイランドの液状化がクローズアップされましたが、地盤の問題はそれだけではありません。兵庫県南部地震が起きたとき、明石海峡大橋は神戸市垂水区と淡路市岩屋の間にタワーが立てられ、ケーブルを掛け終わったところでした。これからケタを吊ろうとしていたところで、強烈な揺れに見舞われました。明石海峡大橋の基礎と基礎の間を構造線が通っていた。その結果、支柱と支柱の間が、何と1mも伸びてしまった。支柱間が1990mから1991mとなりましたが、幸いにして事なきを得て、完成したのです。地盤に応じて基礎をどうするかは、非常に大きな問題で、それを看過していると、砂上の楼閣になってしまいます。


■政治家を巻き込んだ熾烈な「ルート争い」


山岡 公共事業の基盤にかかわる技術を担っておられたのですね。そのうちに本四架橋にも自然と携われるようになったのですか。

山根 中国四国建設局のなかに橋梁グループがありまして、先輩方がしきりに四国に渡る島と島の間に橋をかける計画を練っておられた。私は企画部にいて、そのプランを横目で見ながら、ああなるほどな、と感心していたものです。1960年前後に土木研究所の方々が中国建設局にお見えになり、尾道―今治ルートの現地を視察したいということで、私が案内役を仰せつかりました。当初、本四連絡橋のルートは5つありました。A神戸―鳴門、B宇野―高松、C日比―高松、D児島―坂出、E尾道―今治です。BCDはいずれも岡山―香川間なので、技術的、経済的側面からDに絞られていきます。

山岡 松山で暮らしていた子どもの私には、四国と本州が橋でつながるのは、夢のようでした。物心ついた頃には愛媛県庁に「かけよう瀬戸内海大橋」のネオンが輝いていたけど、そこから「瀬戸内しまなみ海道」が出来るまでが長かった。やはり問題は政治でしょうか。

山根 3ルートに橋を架けると決めるまでに十数年かかっているんです。1961年8月に建設省と国鉄は土木学会に「本州四国連絡橋調査の技術的検討」を委託します。厳しい自然条件で、世界でも未経験の長大な橋をかけるのです。深い海に基礎を打ち込み、長い距離を、道路と鉄道の併用も含めて架橋する。長径間吊橋の耐風、耐震、耐久性など難題は山積みでした。62年1月から土木学会の調査委員会が始まり、4月には私も本省の道路局企画課長補佐を拝命しまして、調査分野に張り付きました。
一方で、徳島、香川、愛媛の三県は、まずは自分のところに橋を架けてもらおうと、地元選出の国会議員や県知事を中心に猛烈な誘致合戦が展開されました。いわゆる「ルート争い」です。兵庫・徳島は原健三郎さん、香川は大平正芳さん、広島に宮澤喜一さん、愛媛は知事の白石春樹さんたちが、こっちが先だ、と旗をふる。地元からの陳情合戦が続きました。62年7月に河野一郎さんが建設大臣に就任し、「建設省としては、明石~淡路島~鳴門を結ぶものから実現するよう計画している。他のルートも順次橋を架けたい」と発言して、大騒ぎになったのです。

山岡 河野一郎さんですか。この連載では、河川や道路、東京五輪の渇水対策でも名前が出てきました。息子の洋平さん、孫の太郎さんからは想像しにくい剛腕政治家。明石―鳴門を優先したのは、阪神経済圏が近く、経済効果が大きい、と判断したからでしょうか?

山根 そうでしょう。ただ、政治が過熱しても、技術的評価は、しっかりしなくてはなりません。実際に橋を架けるうえで、どのルートが最も確実で、安全で、経済的にも有利なのか、各分野の専門家が、侃々諤々、口角泡を飛ばして議論をしました。5年ちかくの調査を経て、技術的な難易度では、明石―鳴門が最も難しく、児島―坂出がその次に難しい。尾道―今治が最も確実、となった。しかし、明石―鳴門に橋を架けられないわけではない。それで67年5月、本四連絡橋調査委員会は、最終委員会の後に記者会見を開いて、「中央支間長1500m級の吊橋上部構造の建設は、技術的に可能であると考えられ、約50mの水深で大きな潮流のもとでの海中基礎の建設は、今後の調査検討により可能な方法を見出し得るものと考えられる」と正式に発表します。

山岡 水深50mでの大潮流とは、明石海峡を意識してのことですね。「可能な方法を見出し得る」とは、できると言っているのか、それとも困難だと言っているのか……。

山根 そこを記者が突いてきました。書き方が手ぬるいではないか、できないなら、できないとハッキリ書いたらどうか、とこう聞いてきたわけです。そしたら委員長の青木楠男先生が、神代の昔から、日本列島ができたときから、水深が深く、距離の長いところに橋を架けるのは難しいに決まっているではないか、それをわざわざ、このおれに言わせる気か、と応じて、抑え込んだ。風格がありましたねぇ。

■田中―大平コンビの活躍と、仮谷建設大臣の決断


山岡 河野一郎さんは、総理総裁候補と言われながら、65年に急逝しています。河野亡きあと、ルート争いはいっそう、激しくなったのでしょうね。

山根 そこで、高い見識を発揮されたのが大平正芳さん。67年7月の衆議院建設委員会で質問に立たれました。元々、大平さんは外務委員会の所属で、わざわざ建設委員会で質問に立つのは、建設省のやり方に反対するからではないか、と言われてしました。私も胸をどきどきさせながら、質問を聞いていました。すると、大平さんは、「いまの経済の成熟度からすると本四橋は一つに限らなくてよい。複数を考え、本土と四国の経済の一体化を図るべきではないか」「一本だけ、とするから激しい争いが起こる。将来展望からも複数は常識的だ」とおっしゃった。あの質問で大平さんの大局的にものをみる器の大きさが読み取れた。大きな一石が投じられました。

山岡 大平さんは、よく色紙に「着眼大局、着手小局」と書いていたようです。

山根 この大平質問以降、建設省は具体的な体制に踏み込み、「事業主体は新しい公団」を設けてやるべきだと打ち出し、69年の新全国総合開発計画(新全総)にも、3ルートの建設を図る、と明記されます。そして、ルート争いに終止符を打ったのが、田中角栄さんでした。70年1月、田中自民党幹事長は「本州と四国を結ぶ橋は、3本とも同時に実施設計調査を実施することにした。そのために新しい公団(本州四国連絡橋公団)をつくる。これによって、長年に関係地域による激しい陳情合戦は、本日をもって終わりを告げることになる」と発表しました。3ルート同時スタートを明言したのです。

山岡 田中―大平は、後に首相と外相のコンビで日中国交正常化などの大仕事を成し遂げます。二人に共通するのは、いずれも地方の出身。田中角栄は新潟県刈羽郡の豪雪地帯に生まれ、出稼ぎの悲哀などを子どもの頃から感じて育った。大平正芳も香川県観音寺市の子沢山の農家に生まれています。辺境の辛さを知っている。本四連絡橋の重要な局面で力を発揮したのは、偶然ではなかったのでしょう。公共事業が豊かさを生むことを知っていた。しかし、田中―大平コンビが活躍しても、まだ架橋へすんなり進んではいませんね。

山根 73年暮れの第一次石油ショックが大きな障害になりました。11月24日に予定していた3ルートの起工式は、「総需要抑制策」の一環として中止されます。

山岡 当時、日本の産業構造は、著しく石油に依存していましたね。石油が入らなくなったら、産業の血液が止まる怖れがあった。田中首相はアラブに特使を派遣したり、資源外交を展開したりで、何とか、窮地を脱しますが、とても本四架橋どころではなかった。

山根 局面を打開したのは、高知出身の仮谷忠男建設大臣でした。仮谷さんは、75年8月、本四連絡橋は、当面1ルートについて、その早期完成を図る。そのルートは鉄道併用として、第三次全国総合開発計画(三全総)で決定する。他の2ルートについては、各橋の地域開発効果、工事の難易度などを勘案して、着工すべき橋梁を、各省庁間の協議で決めると、こう発表したのです。鉄道との併用ということで、岡山―香川間の児島―坂出ルートに絞り込まれました。ただし、神戸―明石ルートでは、まず淡路市と鳴門市を結ぶ「大鳴門橋」を架けて、兵庫県と徳島県、双方の顔を立てる。尾道―今治ルートでは、愛媛県側の大三島橋の着工凍結を解除すると同時に、広島県側の因島大島の着工時期の検討も継続とします。四国出身の大臣として、決断すべきことは決断しながら、政治的な配慮をされました。75年12月、延々と待たされていた大三島橋の起工式が、やっと行われました。寒風が吹きすさぶなか、仮谷さんも起工式に出席されました。そのときにひいた風邪がもとで、翌76年1月、現職の建設大臣のまま急逝されたのです。

■本州と四国を橋で結んだ帳尻は……


山岡 政治のドラマを感じます。政治家には力がある。しかし、力の使い方をわきまえていない政治家が最近は増えている気がします。その後、橋の建設は順調に?

山根 いやいや、山あり、谷ありですよ。鈴木善幸内閣で、「第二次臨時行政調査会(第二臨調)」が発足し、行財政改革が本格化します。当然、本四連絡橋建設の財政負担も俎上にあがる。80年11月に伯方大島大橋の架橋地点に視察にいらした渡辺美智雄大蔵大臣は、「なんでこんなところに橋を架けるんだ」と言われましてね。私がご案内していたのですが、「利根川よりもこっちのほうが短いんですから」と申し上げたら、「ああそうか」と。そのうち臨調の行革で、「1ルート、4橋に当面限定する」と決まり、神戸―鳴門ルートの鉄道併用案も消滅します。

山岡 紆余曲折を経て、本四連絡橋は3ルートが完成し、かつて瀬戸内海で多くの客船が沈んだことなど、ほとんどの人が忘れています。それだけ豊かな社会になった。では、事業費は、どのくらい膨張したのでしょうか。また、計画時に予想した交通量は、実際に橋が出来てみると、どのくらいの量にとどまっているのでしょうか。本四連絡橋への批判は、そのあたりに集中していると思われます。

山根 事業費を見ますと、73年9月の基本計画では、神戸―鳴門ルート5,937億円、児島―坂出ルート4,783億円、尾道―今治ルート2,346億円でした。これが、全通時には、神戸―鳴門ルート1兆5,000億円、児島―坂出ルート1兆615億円、尾道―今治ルート7,464億円。トータルで比較すると、計画時の1兆3,021億円から、全通時には3兆4,079億円へと増えています。基本計画直後の石油ショックで、物価の上昇が加速され、さらには環境保全のための計画変更、技術的な課題の克服などもあって、大幅に増えた。

山岡 平均して、1ルート1兆1千億円ですか。償還の鍵を握る交通量の予測は?

山根 72年の予測は、神戸―鳴門で1日3万7,900台、それが2012年度の明石海峡の横断交通量は2万3,233台、同じく児島―坂出は予測が2万5,500台で、実際は2万280台。予測と実績が比較的近いですね。同様に尾道―今治は、72年予測が1万5,300台で、2012年の来島海峡横断交通量は1万533台。将来予測が過大だったことは認めざるを得ません。ただ、日本列島の四つの島を橋やトンネルで結ぶのは、多くの国民の悲願でありみんなの希望だった。それで生まれた効果も単なる経済効果を越えて大きなものがあると思います。