■「蜂の巣城紛争の教訓――水源地を活性化せよ
山岡 - 前回の対談で、日本は、戦後、TVA(テネシー川流域開発公社)の技術的方法論を真似て多目的ダムを建設するなど大規模な河川整備事業を行ったが、根本の「哲学」を疎かにしてきた、とご指摘いただきました。その典型がダム建設における水源地対策の遅れだ、と。高橋 - ダムを造ればいいという発想で、水没する集落の住民への対策は、戦後、一貫してお粗末でした。その典型が九州の「蜂の巣城紛争」です。私は、幸か不幸か、下筌(しもうけ)ダム建設反対運動のリーダーだった室原知幸氏が「下筌ダムを含む建設省の治水計画は公共事業に値しない」と東京地裁に訴えた行政訴訟で、原告側の鑑定人に選ばれました。確かにあの治水計画には特に水源地対策にかなり問題があると思いましたね。
山岡 - 一般の読者は「蜂の巣城紛争」をご存知ないかもしれませんので、概要を述べておきましょう。発端は1953年6月の筑後平野一帯の大洪水。筑後川上流域への集中豪雨が原因で堤防が次々と決壊し、147人が亡くなりました。翌年、建設省の九州地方建設局は上流の熊本県小国町を中心に治水ダムの建設計画を立て、調査を開始します。
57年8月、九州地建は初めて地元住民への説明会を開きますが、山林地主の室原氏を中心とする住民は建設省に不審を抱く。小国町は「建設絶対反対」の決議を採択。58年から13年間に及ぶダム史上最大の反対運動、蜂の巣城紛争が展開されました。
建設省が土地収用法に基づいて調査に入ると、地元民は抵抗し、下筌ダムの予定地に監視小屋を20棟以上建て、蜂の巣城を築きます。九州地建の蜂の巣城への立ち入りに対して、住民は激しく抵抗し、乱闘事件も起きました。その後、九州地建は蜂の巣城を強制撤去する代執行の申請を裁判所に行ない、室原氏も事業認定無効、差し止めの訴えで応じます。しかし室原氏側に不利な決定が続き、反対派住民のなかから、条件付き賛成派に回る者が増え、63年6月に蜂の巣城は落城、撤去されます。ダム工事が始まり、室原氏は第二、第三の蜂の巣城を構え、また法廷闘争を展開して、徹底抗戦の立場を貫くものの70年に逝去。室原家と建設省が和解し、下筌、松原の両ダムは73年に完成しました。
高橋 - リーダーの室原という人は、典型的な肥後もっこす。信念を曲げなかった。不思議ながんばり屋で、反対運動の戦法がユニークでした。たとえば機動隊が蜂の巣城に迫ってくると、ダムサイトの川べりに町じゅうの牛を集めて、そこに赤い布をつけて興奮させて、機動隊にぶつける。そうかと思えば、千早城に立て籠もった楠正成のように機動隊に向けて糞尿をばらまく。蜂の巣城のあちこちに水道管を巡らせたり、周囲の木に支援者の名前を書いた札をくくりつけて「闘争記念樹」と呼んだりね。発想が奇抜でした。
新聞は、それをおもしろがって書くわけだ。でも、なぜ室原氏が治水計画に反対したかは書かないんですよ。マスコミは変わった現象を好むけれど、彼が反対した哲学を書いた記事は、ついぞ、目にしなかったですね。
山岡 - 室原氏は「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」と言っています。反対のための反対ではなく、地元をどう活性化するかを最優先に考えていたようですね。
高橋 - その意味では、彼は先見の明があった。日本の水源地対策がいかに立ち遅れているか、見抜いていた。
山岡 - 建設省幹部との交渉のなかで、室原氏は周辺整備について、たびたび意見を出しています。住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋やトンネル、観光資源としての遊覧船……。その多くが採用された。ダム湖は「蜂の巣湖」と命名(1988年)され、紛争の記憶を風化させまいとしています。
高橋 - 室原氏の裁判の原告側鑑定人をやって、しばらく建設省には恨まれました。役所というのは訴えられると、「守旧」が最大の目的になる。こう言っても仕方がないが、なぜ訴えられたかを考え、反対派の言い分も聞いて、自分たちの治水計画でも改めるべき点があれば改めればいいのだけれど……まぁ、無理かな。
室原氏の哲学は、反対の加勢をした左翼陣営もあまり理解していなかった。60年安保闘争と重なったので、社会党と総評(日本労働組合総評議会)が彼を応援しましたが、反対するのが目的で、水源地問題まで突っ込まなかった。政治ショーが大事だったのでしょう、社会党は。反対運動に自ら陶酔して、サッと引いた、と感じましたね。総評の人ともつきあったけど、紛争を労働問題にして、ダムの本質に入らない。長期的視野がない。たとえば欧州では石炭から石油へのエネルギー革命が起きている。日本でも石炭はいずれ斜陽になる、時代の必然だと言っても、石炭産業、労働者を守ると応えるばかりで、長期的なビジョンは持っていなかったと私は思う。ことほど左様に、左翼は弱い者を助けると言うが、日本のエネルギー政策、流域問題、水源地問題をどうするかという観点はなかった。おまけにマスコミは、現象ばかり追い、本質を語らない。このように公共事業の哲学は顧みられなかったのです。
■本質を見ないジャーナリズム
山岡 - もの書きの端くれとして、耳が痛いです。マスコミが現象に目を奪われるのはウケたいからです。逆に言えば読者、視聴者もそれに反応します。話はそれますが、新聞が飛躍的に部数を伸ばしたのは、満洲事変(1931年)のときでした。戦場で撮った写真フィルムを飛行機で東京や大阪に運べるようになり、速報性、ビジュアル性が一気に向上し、錦州爆撃だ、上海市街戦だ、と報道されると読者が飛躍的に増えた。と、ともに、国粋主義、軍国化へと世論は傾く。熱狂を煽るマスコミは危ないです。本当に怖い。高橋 - 私が小学校に入学したのは、1933(昭和8)年、歴史の転換点でした。前月の3月末に日本は国際連盟から脱退しており、私が教育を受けた間、日本はずっと国際的な孤児でした。中国は敵国、朝鮮はレベルが低い、1933年1月に政権についたヒトラーのナチス・ドイツは立派で、アメリカ、イギリスは鬼畜だと教えられた。中学に進んだ年に日独伊三国軍事同盟、翌年、日ソ不可侵条約。両方を仕切った外相の松岡洋右は大英雄でした。旧制高校2年のときに、やっと太平洋戦争が終わりました。教育というのは、子供にとって決定的です。私は、忠君愛国を叩きこまれた世代です。
山岡 - 「富国強兵」は明治以来の日本の国是とされてきました。いまでも似たことを言う政治家もいます。これは幕末の思想家・横井小楠の『国是三論』から引いたもの。勝海舟は「おれなど、とても梯子をかけても及ばぬ」と小楠を高く評価していますが、元々国是三論は、富国・強兵・士道が大切だと言っている。士道とは単純化すればリーダーシップでしょうか。しかし、いつの間にか士道は抜け落ち、富国と強兵だけになった。そこを顧みない。国を滅ぼすのは悪ではなく、愚だ、とも言われます。教育はだいじです。
すみません。脱線しました。ダムの話に戻しましょう。ダム建設を含む公共事業の大きな揺り戻しのきっかけになったのは、やはり環境問題でしょうか。
高橋 - 土木事業は自然が相手ですね。ダムにしても、高速道路、橋にしても。川は、人間がこの世に誕生する前からあるんです。だから「川づくり」なんて言う人もいるが、私は賛成しない。川をつくるなんて僭越です、自然とどう共生するかが大事です。公共事業は規模が大きくなるほど、自然環境、社会環境に与える影響も大きくなる。それを考慮して進まねばならなかったが、小手先の施工技術が進歩したので、造ればいい、となってしまう。環境問題はそれへの警告だった。
山岡 - 転換期は、1980年代でしょうか。
高橋 - そうですね。ダムは、環境への悪影響が大変わかりやすい。湖は水質が悪くなるし、土砂は溜まる。溜まった上流は川床が上昇するから水害を起こしやすい。下流は生態系が破壊される。川は、土砂が流れてきてくれないと困る。大きなダムを造った川ほど、土砂が下流へ流れなくなり、河口が浸食される。高さ155.5メートルの佐久間ダムは天竜川の上流にありますね。それで天竜川の河口、浜松市と磐田市の境は、ダムを造ったころと比べて、300メートルくらい浸食されている。海が陸地側に入ってきて、砂浜が減っています。佐久間ダムだけではない。他の大規模ダムの河口も同じ。日本の領土が減っているんです(笑)。
山岡 - ダムを含む河川整備事業にブレーキがかかったのは1990年代、バブル崩壊後の経済不況や財政赤字もあり、橋本内閣で大型公共事業縮小の判断が下されました。背景には、 「脱ダム」へつながるダム批判がありましたね。
高橋 - ええ。ただね、確かに環境問題は大切ですけれど、90年代からのダム自体を全否定する風潮は行き過ぎだと思いました。ダムのメリットというか、果たした役割もジャーナリズムは否定しました。高度経済成長期までは、洪水だ、渇水だといえば、なぜダムを造らないんだ、とジャーナリズムは書き立てたわけです。それが、一切、ダムはダメだと言いだす。ある有名な男性ジャーナリストは、長良川河口堰の反対運動の先頭に立っていました。当初、彼は「長良川はダムのない唯一の川だ。だから守れ」と言っていた。しかし、長良川の支流にはダムがあるのを知ると、前言を訂正するのかと思っていたら、その支流のダムの現場に行って、こんなに悪いダムがある、と開き直った。ジャーナリストには、そういう人が多いですよ。
■親子孫、三代が翻弄された「八ッ場ダム」
山岡 - 現実に河口は浸食され、ダム湖には土砂が溜まって、すでに水害が発生しています。ダムの老朽化も進んでいる。何から、どう手を打てばいいのでしょうか。高橋 - 補修しなくてはいけませんね。ダムは、道路や橋よりは老朽化が少し後になりますけれど橋は、全面的に手を打たないとやがて次々落ちる恐れがある。高度成長期以降、土木事業は維持管理・補修が大切だということを忘れていた。なおざりにしたまま、公共事業を減らせばいい、という方向に走った。
山岡 - その象徴が、民主党政権の「コンクリートから人へ」でした。
高橋 - 標語としてはウケたのでしょうか。確かにわかりやすい。コンクリート=土木事業よりも、人=社会保障だ、と言いたいのでしょう。社会保障はだいじです。でも、コンクリートを否定することはないでしょう。メンテナンスが疎かになると警鐘を鳴らした土木技術者は多勢いましたが、伝わらなかった。
山岡 - 八ッ場ダムの建設をめぐるドタバタは、どのようにお考えですか。計画の原点は1947年のカスリーン台風(死者・行方不明者約2,000人)。同規模の台風が関東を襲っても水害が発生しないようにと、52年に利根川支流の吾妻川上流に多目的ダムをつくる計画が発表されます。八ッ場ダムには首都圏の「水がめ」の役割も託された。しかし、酸性の河水、貯水容量や水没物件の問題などで計画は進まず、補償問題もこじれて反対運動が起きる。1994年に建設省は付帯工事に着手しますが、事業費の膨張、天下り先団体への事業発注、首都圏の水需要の減少、水没する川原湯温泉への対策不足など、さまざまな点からダム建設への懐疑的な意見が多かった。一方で、吾妻川流域の豪雨への備え、埼玉県の安定利水への渇望、現在も利根川流域では渇水で取水制限がたびたび発生していることなどから、ダムが必要だとする意見も根強い。そうした状況で、2009年に前原誠司国土交通大臣は、マニフェストどおりに「事業中止」と明言し、地元住民や関係者から反発を受ける。次の馬淵澄夫国交相は、政府方針を撤回して「検証」を進めると表明。その次の前田武志国交相が建設再開の決意表明する、と。こうなったわけです。
高橋 - 前原さんは国土交通大臣に就任した日に中止と言いましたね。その前に現場には行かれたのかもしれませんが、マニフェストに書いたとはいえ、唐突でした。最後は、前田さんが現場で頭を下げたりしておられます。彼は、元建設省の官僚ですね。建設方針の二転、三転は、水没予定集落の人たちには、とても気の毒ですね。水没集落は、ダムができると聞けば、まず反対です。招かざる客はお断り。でも、その後、建設省なり、電力会社なりが10年、20年かけて説得して、条件付き賛成になっていく。移転をして、生活も変わる。その水没予定地域の公共事業は止まるんです。道路も、橋も、傷みます。住宅が壊れかけても修繕しない。いずれ水底に沈むのですからね。そうして何十年か経って、突然、工事ストップ。八ッ場ダムの場合は、親子孫三代、60年以上振りまわされているわけです。水没予定者は、一生を棒に振りかねない。それが三代続いた。
山岡 - 八ッ場ダムの是非自体はいかがですか。
高橋 - 反対派は、カスリーン台風のときにも吾妻川にはあまり雨が降っていないと言います。それは事実です。八ッ場ダムがあっても、吾妻川に雨が降らないのだから、いらない、と言う。あの川は、ここ50年間、豪雨は少ない。しかし、台風の進路如何でどうなるかわかりません。年々、台風は大型化していますし、もの凄い集中豪雨が発生している。海水温が上がったせいか、台風の進路は変わっている。上陸したら自転車並のゆっくりした速度で長期間、雨を降らせています。行政はどうする、と言われれば、吾妻川にも治水ダムがほしい、となるでしょう。八ッ場ダムは、工事を止めるほうがお金もかかります。
■老朽ダム再生、ふたつの視点「目的変更」と「若返り」
山岡 - 戦後の経済成長を、まさに縁の下の力持ちとなって支えたダムが、古くなり、さまざまな問題を抱えています。今後、老いたダムにどう向き合えばいいのでしょう。高橋 - 20~30年先の課題と、百年単位の課題を分けますと、前者は「ダムの目的を変えること」。後者は「ダムの若返り」です。ダムのメンテナンスについては、利水者がお金を負担しています。利水者は地方自治体や電力会社などいろいろですが、日本の財政が厳しい折に補修資金を出すのは容易ではない。そこでダムの利用目的を変える。たとえば水資源機構は、その名のとおり、上水道や工業用水などの水資源を確保するためのダムを多く所有していますが、それを利水だけでなく、治水の安全性のほうへ一部目的変更する手もある。もっとも利水者はダムを建造する際に費用を負担していますから、補償をしなくてはいけない。そのお金をどうひねり出すか。財政的な厳しさはつきまといます。
ダムの若返りとは、川床に溜まった土砂を浚渫して、どこかへ運び出すこと。土砂が溜まるほど洪水調節や利水の容量が減るわけですから、それを掘り出す。問題はやはり費用。佐久間ダムに関しては、管理する電源開発(株)と国交省が話し合っているようです。浚渫した土砂は、ダンプで下流へ運べばいいと思うかもしれませんが、膨大な量の土砂を運搬したらダンプ公害で大変なことになる。峡谷に造られたダムは、浚渫した土砂を置く場所もない。浸食されている河口へ持って行くのは正論だけれど、非常にお金がかかる。
山岡 - いま議論されている「ナショナル・レジリエンス(国土強靭化)」のプランのなかでダムの若返りなどもメニューに加わりそうでしょうか。
高橋 - そうなればいいですけどね。橋やトンネルは、待ったなしかもしれませんが、将来起きる大水害を想えば、いまダムの補修や土砂の浚渫に資金を投じたほうが、長期的にはよほど安上がりだと思います。
山岡 - 手をつけるべきダムの優先順位はついていますか。
高橋 - 決まっていませんね。どれもこれも危ない。佐久間ダムだけではないです。議論はしているのかもしれませんが、私は知らない。日本中に高さ15メートルを超えるダムは約3,000あるんです。その四分の一くらいは明治以前の農業用ですが、戦後、造ったダムは例外なく土砂が溜まって、困っています。
山岡 - 公共事業をどうするかは、政治の影響力が大きいです。
高橋 - 一般の人に、もう少し、公共事業の本質を理解してほしい。メディアに振りまわされるのではなく……。そのためには土木界自体が、都合のいい情報ばかりでなく、正確な情報を伝えなくてはいけません。そういう努力が足りない。何か言われたら、その場しのぎの反論はするけれど、公共事業のあるべき姿、正論を育てることが、私たちの役目だと思います。
(写真撮影・永田まさお)