2013年8月31日土曜日

第8回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(後編)

■土木技術者の仕事師はマネジメントができる

山岡 前回は戦前~戦後、高度成長の華・東海道新幹線の建設に至る鉄道事業の流れを歴史の証人として語っていただきました。今回は、経営者の視点で鉄道事業をふり返ってもらいたいと思います。なかでも国鉄改革、分割・民営化の渦中で総裁に就任され、改革に尽力されたことは現代史のエポックでもありました。
 まずは、公共事業とマネジメントについて、どのようにとらえればいいでしょうか。

仁杉 土木技術者の本当の仕事師というのは、マネジメントができる人です。技術者もマネジャーでなければと思います。古い話になるけれど、1959年12月末、僕は国鉄の名古屋幹線工事局長に就いて、名古屋に赴任しました。夕方、名古屋駅に着く特急で行ったら、迎えは総務課長を含めてたった3人。人がいなかった(笑)。局長が先に決まって、他の職員はまだ職務発令されていなかった。その晩は、事務所の当直室みたいな所に泊まりました。
 局長で着任したのはいいけれど、全然、体制も整っておらず、人を集めるところから始めました。当時は、名古屋でも鉄筋コンクリートの建物はほとんどなくて、伊勢湾台風(59年9月)で傾いたままの大きな家が城山にあったので、そこを借りて、幹部の宿舎にしたんです。賄いのおばさんを頼んでね。

山岡 名古屋は新幹線建設の要所ですよね。工事局の人はどこから集めたのですか。

仁杉 一番たくさん出してくれたのが下関と岐阜の国鉄工事局、名古屋や金沢の鉄道管理局、東北、北海道、大阪など全国から集まってきました。事務所がないものですから、名古屋鉄道管理局に頼みこんで、管理局の五階の講堂に事務所を置かせてもった。講堂だから、大部屋も大部屋(笑)。仕切りが何もなくて、だだっ広いところに、幹線工事局に集まった約300人のうち現場に出ている人以外の100人あまりが机を持ち込んで、作業に当たりました。こういう体制づくりは、大学の先生が黒板に何か書いて教えるのとは違います。人を集めて、寝泊まりできる場所を確保し、彼らを働かさなきゃいけない。しかも国鉄のなかの人だけでなく、外の人もいる。大切なのは、マネジメント。そういうことを知っている土木技術者は、非常に少ない。そこを教えなきゃいけないのだけどね。


■用地買収の難しさ~相手を説得することが不可欠

山岡 新幹線の建設では、用地買収も大変だったと聞いています。

仁杉 名古屋の幹線工事局の範囲内では、戦前に計画された弾丸列車の用地として、豊橋から蒲郡あたりまで土地を買ってありました。終戦後、返還運動も起きましたが、売り戻さず、耕作を認める形で処理していました。新幹線は、ほぼこのルートを走ることになり、東京―名古屋間は概ね決まりました。ただし、1964年10月の東京オリンピックまでに新幹線を開業させねばならない。それが至上命題でした。

山岡 沿線の家々と土地の売買契約を結ぶわけでしょ。膨大な交渉ごとになりますよね。

仁杉 国鉄が実際に一軒、一軒と交渉していてはとても間に合いません。そこで沿線の各市町村に対策委員会のようなものをつくってもらい、協力していただきました。各市町村や県会議員、国会議員の方々にずいぶんお願いに上がり、汗も流しましたね。

山岡 いまでも語り草になっているのが、名古屋から関ヶ原のルートの選定です。名古屋を出た下りの新幹線は、枇杷島、清州あたりまで、しばらく東海道線と並行に北上します。その後、南へカーブして、稲沢市、尾西市の外れを通って「岐阜羽島駅」を経由し、大垣市、垂井町を通過して、ふたたび東海道線と少し並走して関ヶ原に至る。このルートは、どのようにして決定されたのでしょうか。

仁杉 当初は、もっと南の、名古屋から岐阜羽島より南の桑原を通って、まっすぐ養老山系に向かい、北東に曲がって関ヶ原へ抜けるルート案が考えられていました。ルート案に沿って、本社の職員がある程度、杭を打って歩いていた。この案では、名古屋と関ヶ原の間に駅を設ける計画はなかったんです。ところが、岐阜は、自民党の党人派の大御所、大野伴睦さんの地元です。大野さんから「何だ。俺のところを通りながら、駅を造らないとは」とお叱りを受け、桑原に駅を置こうとなったんです。すると、こんどは岐阜県知事の松野幸泰さんが、「あんな南のほうへ線路をもっていかられても困る、もっと北へあげてくれ、そうでなければ協力しない」と言いだした。

山岡 岐阜側は、もっと北へと要望したのですね。歴史的に徳川家の親藩御三家のひとつ「尾張(愛知)」と、北の「美濃(岐阜)」には対立感情があったようですね。特に木曽三川の治水をめぐって、堤防で守られた愛知側に対し、岐阜側は反感を抱いたとか。『仁杉巌の決断のとき』(大内雅博編/交通新聞社)を拝読すると、愛知県と岐阜県のルート争いは、知事どうしで話し合えず、国鉄本社も交渉できない、とありました。尾西市の市庁舎には「新幹線関係者立ち入り禁止」の横断幕が張り出されていたそうですね。

仁杉 そうです。「立ち入り禁止」とやられては、入っていくこともできません。しかし、入らないと仕事は進まない。相手の気もちをつかむのは大変でした。あるとき、あの周辺に大水が出てね。消毒に石灰が必要なのだが、運ぶことができなくて地元が弱っていると言ってきた。表面的には立ち入り禁止でも、話し合うパイプはつないでいた。なんとか石灰を持ってきてくれ、とSOSが入った。そこで、貨車に石灰積んで、東海道線の稲沢駅まで運んで、地元に持ち込んだ。それを契機に「国鉄は一生懸命やっているのだから、あの横断幕だけはとろうよ」となって、堂々と交渉ができるようになった。
なかなか話し合いの席に着いてくれない県会議員の先生もいましたね。ある日、その先生の家に不幸があったことを新聞で知った。日曜だったけど、担当者にすぐに香典を持って行け、と命じた。すると先生は「おお、来てくれたか」と迎えてくれました。先生も公共事業に反対しているけど、内心、忸怩たるものがあったんだね。きっかけさえつかめば、こっちを振り向いてくれる。そういうチャンスの芽をどう活かすかだ。こんなこと、大学の講義じゃ教えないね。公共事業への賛成や反対と党派はあまり関係ない。要は人ですよ。

山岡 世間は岐阜羽島に駅ができて驚いたけれど、さまざまな政治的、経済的力学を鑑みれば、岐阜羽島駅がベストだったと……。

仁杉 あそこ以外にありません。国鉄本社には伝えなくても、僕の腹は決まっていた。だから、あそこに収斂させるために、ああでもない、こうでもないと考えて、知事や市長、国会議員を説得して、了解をとったわけです。

山岡 利害関係者を説得するための勘所は何でしょう。

仁杉 向こうを説得すること。相手をバカにしては、ダメです。なかには話が通じない人もいますよ。でも、相手をその気にさせなきゃ仕事は進まない。俺は局長だ、所長だ、偉いんだというような顔をしたら、絶対にダメ。地元の有力者を探すのも大事だね。ボスのいないところはまとめにくい。ふつうは市長が実力者だけれど、議長という場合もある。そこを見極めて、しっかりつかまえなくちゃいけない。一番困るのは、自分の意見がハッキリしていない市長だ。道路なり、鉄道なり造らなきゃ、交通体系上、その自治体は困るとわかっていても、建設反対派の住民を敵に回したら選挙で不利になると考えて、なんとなく反対する市長がいる。そこをどうするか。腹のなかと言っていることが違っているケースもありますね。

■国鉄の赤字の主因は、都市部への莫大な投資を運賃値上げで回収できなかったこと

山岡 極論すれば、マネジメントは人間の気もちをどうつかむか。技術者も、ときには心理学者兼営業マンに変身しなくてはならないのでしょう。さて、1964年に東海道新幹線はめでたく開通します。東京五輪に間に合った。一方、国鉄は、この年から「赤字」に転落しました。そり後、坂を転がる雪だるまにように借金が増えて、国鉄改革待ったなし、となっていきます。素朴な疑問ですが、赤字の原因は何だったのでしょうか。

仁杉 投資に見合うように運賃水準を上げられなかった。運賃値上げをできなかったことが赤字が増えた要因ですね。世間の人は、国鉄の財政破綻の原因は赤字ローカル線の建設と思い込みがちだが、そうじゃない。大きな借金を背負ったのは、第三次長期計画(1964~68)での既設線の輸送の隘路の解消、つまり輸送力増強のための工事が主因。輸送の隘路というのはね、ほとんどが都市部にあって、地方にローカル線を建設するよりも、はるかに多くの金がかかる。用地代も、構造物も違う。いろんなものが高くなる。地方で1キロ当たり10億円でできる工事が、都会では100億円かかってしまう。
 たとえば、すでに地上に用地のある東京駅の広場の地下に総武線を乗り入れさせるために、丸の内側の地下に総武線用の地下駅を建設しました。現在の総武快速・横須賀線と成田エキスプレスが発着している地下ホーム。あれには莫大な金がかかった。あんなに金を注ぎ込んで大丈夫なのか、と思った。あれをつくって経営がうまくいくのか心配でした。かくも金のかかる投資をしながら、運賃値上げは国会で抑え込まれた。一方で、せっせと高い金をかけて、さらに線路がつくられる。運賃値上げは抑え込まれる。これじゃ破綻するのは当然だ。

山岡 運賃を上げられなかった要因は何でしょうか。政治家が公共料金の値上げを言えば、選挙で不利になるからでしょうか。

仁杉 運賃値上げは国民の反感を買うから、国会はなかなか承認しません。その背景では、鉄道省出身で、運輸大臣、総理大臣を務めた佐藤栄作さんは鉄道省出身のエースです。あの人が運輸大臣のころの国鉄運賃は確かに高かった。国鉄は金持ちでした。だから佐藤さんは国鉄には金がある。運賃は上げなくてもいい、という考え方を採ったという話があります。本当かどうか私には解りませんが、でも、時代とともにそうではなくなった。佐藤首相に対して、運賃を上げないと国鉄が潰れます、と直言する人が国鉄幹部にいなかった。鉄道省の大先輩に「運賃を抑えてはいけない」と正論をぶつける人がいませんでした。

山岡 官僚機構の序列の絶対性を打ち破れなかった。やはり政治ですね。佐藤栄作の後継者となった田中角栄は、どんな政治家でしたか。毀誉褒貶の激しい人ですが……。

仁杉 僕は田中角栄さんにはかわいがられて、いろいろやらせてもらいました。そのひとつに鉄道と道路の立体交差事業がある。鉄道の立体化工事は、だいたい費用の三分の一を鉄道が負担し、残りの三分の二を県や市町村が負担するのが原則でした。が、輸送力増強工事などで国鉄の台所が火の車になるのとは逆に地方都市が活気づいてきて、街の中心に国鉄が走っていると都市計画の邪魔になるので立体化してほしいという声が高まってきました。鉄道を立体化し、踏切をなくして道路を交差させたい、と言ってくる。
これは国鉄だけでなく、建設省、運輸省、それに自治省も絡むわけです。なんとかしようと国鉄で試算してみたら、踏切を取り除いて得られる利益のうち国鉄の分は一割程度しかなかった。メリットはさほど多くない。先に鉄道が走っていたところに道路が延びてきて立体交差を希望しているわけでしょ。それで事業費の三割も、四割も出せない。利益の九割を得る道路側、つまり建設省が立体化事業の金を出せ、と僕は要求したんです。そしたら、建設省は嫌だ、と。しょうがないから角さんのところに行って、こういう話です。建設省との話がつかないので、鉄道の立体化が進みません、と言ったら、うんわかった、とその場で田中派の道路族のボスに電話をしたんです。それで、道路特別会計から立体化事業の資金が出ることになりました。負担は、国鉄1割、建設省9割です。角さんは即断即決です。影響力も甚大でした。他の政治家には真似が出来ない。中国との国交回復も、角さんしかできなかったでしょう。ものすごい政治家ですよ。

山岡 アメリカとの関係をもう少し、うまく築いておけば……。

仁杉 惜しかったですね。戦後、仕事をした総理ではナンバーワン。もう少しスタッフをお持ちになったほうがよかった。孤立しちゃったね。

■国鉄総裁、退き際の「決断」とは……

山岡 仁杉さんは国鉄の常務理事を退任し、私鉄の西武鉄道の経営に当たられた後、土木学会会長、鉄建公団総裁を経て、中曽根政権下の1983年12月に古巣の国鉄に総裁として復帰されました。当時は、「財界の荒法師」と呼ばれた土光敏夫が会長を務めた第二臨時行政調査会(第二臨調)で国鉄の分割・民営化方針が打ち出され、大変な状況でした。国鉄を死守したい国鉄幹部、労働組合、運輸族議員、地方自治体などに対し、分割・民営化を熱望する国鉄の若手エリート、運輸省、経済界などが激しくぶつかり合っていました。分割・民営化の方針は示されたけれど、実行は至難の業。いわば渦中の栗を拾う形で総裁に就任されました。どんな気もちで政府からの要請を受けたのですか。

仁杉 ある日、後藤田正晴官房長官に急に呼ばれまして、「きみに国鉄総裁をやってほしい」と言われました。国鉄総裁に指名されたんです。辞退したい気持ちが強かったけれど、長い間鉄道で飯を食ってきながら、国鉄が大変な困難に直面しているときに、逃げだすわけにもいかない。西武鉄道のオーナー・堤義明さんの意見も聞いたうえで、引き受けました。次年度の予算も組めない状況で総裁に就任したのですが、僕自身は民営にするかどうかは負債や年金などの問題解決が前提になるので別問題としても、とにかく分割は必須と思っていた。

山岡 国鉄という組織が大きすぎる、と?

仁杉 職員30万人、北は北海道から南は鹿児島まで、ひとりの総裁が掌握できるはずがない。おまけに労働組合は、労使対立はもちろん、労労対立も激しくて、当局の言うことはきかない。現場と対話すらままならない。若手の課長クラスが「総裁、どうしたらいいでしょう。処方箋がありません」と言うので、とにかく日本には多くの私鉄があって主体的に経営している。そこにヒントがあるはずだ、と応えた。国鉄の全国の路線をA,B,Cのランクにわけて、それぞれ同じクラスの私鉄とくらべて、どんな運営をしているか勉強するところからスタートさせました。1984年の連休明けくらいにその調査がまとまった。その結果、トータルで18万人くらいの職員で十分という結論が出ました。

山岡 84年6月に記者クラブで講演をなさって、国鉄の財務状況などを説明したあとで、ご自身の意見を訊ねられましたね。「分割賛成」とお応えになって、国鉄内が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。仁杉さん以外の幹部は、ほとんど分割反対でした。

仁杉 副総裁以下、各常務は、いわゆる国体護持派でね、分割反対で凝り固まっていた。彼らの気もちの奥底には、前回の対談で、戦前の鉄道省から運輸省へと官僚機構が変わった経緯のところでお話しましたが、運輸省には負けたくない、そういう意識が根強く残っていた。根っこが官僚なのかねぇ。運輸省の言うことなんて聴けるか、というグループがいたんだな。上層部にも。一時的に騒いで、収まるかと思ったのだが……。

山岡 84年暮れには仁杉総裁の下で国鉄改革の「基本方策」ができました。しかし、第二臨調の答申を受けて国鉄改革を担当する国鉄再建監理委員会は、その案に反対しましたね。委員長の亀井正夫さんは基本方策を突っぱねました。

仁杉 監理委員会とは互いに原案を示し、フリートーキングする方向で亀井さんとも何度も話し合いました。しかし、監理委員会の案が遅れて、われわれの基本方策が先になり、ああいう形になった。あとで亀井さんは僕に丁寧に謝られましたよ。
一方で、国鉄の副総裁以下の常務には累積した20兆円の債務を担いだままでは再建は無理。債務を引き継いでくれるのは政府しかないじゃないか、と説得しました。だが、どうしても分割反対だという。事態を収拾するには「ショック療法」しかないと思い、自分が辞めるのと一緒に役員にも辞表を出してもらう策にいきついたのです。

山岡 マスコミは総裁更迭と書きましたが、随分前から仁杉さんの腹は決まっておられたのですね。

仁杉 85年の3月半ばには決心して、運輸省のごく一部の人には伝えておきました。その後、たぶん運輸省から話が洩れたのでしょう。政官界、マスコミの一部からそのような見方をされた。僕が辞める、辞めないなど、どうでもよかった。国鉄改革を前に進めるには、ある時期がきたら辞意を表明して、分割・民営化反対者も一緒に、と考えていた。やや柔軟性に欠けたかもしれないけど、自分でしまったとは思っていませんよ。僕は、どうも人とは違う考え方をしているようだ。うまく立ち回る人からみたら、ダメだろうな。だけど自分で考えたことを実行するには、言いたいことを言わなきゃいけない。

山岡 これからの土木、公共事業のあり方は、どう考えていけばいいでしょうか。

仁杉 だんだん本当のことを喋る人が少なくなってきたが、皆、フランクに、立場ばかり主張せず、日本としてこうあるべきという案をつくらなきゃいけません。作った案は変えてもいいが、土台がない。公共工事をやれと言うが、お金も人間も、材料も足りなくなって行きづまる。強靭化云々といっても、そこまで考えてないんじゃないか。
 震災で東北の海岸が壊滅的被害に遭いました。住居は仮でもいいが、真っ先に港、製氷会社、魚の処理工場などを再建して、人が働ける場所を確保すきべです。いくら高い防潮堤を造る、仮設住宅、復興住宅を建てると言ったって、住民が働けなきゃどうしようもないね。そこが出発点でしょ。私個人としてはそんな風に考えています。

山岡 いまだに建築基準法39条の災害危険区域指定に難航して、復興が進んでいないところがたくさんあります。

仁杉 決断が大事です。そして、一度決めたらどんどん下に任せる。そして、最後は俺が責任を持つ、俺についてこい。そういうリーダーが必要なんだ。

2013年8月15日木曜日

第7回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(前編)

対談日:2013年5月21日  於:土木学会会議室

仁杉 巌さんプロフィール
1915年東京生まれ。工学博士。1938年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。鉄道省入省。鉄道技術研究所、大阪工事事務所、名古屋幹線工事局長、東京幹線工事局長、本社建設局長、常務理事、第66代土木学会会長、日本鉄道建設公団総裁、日本国有鉄道総裁。西武鉄道取締役社長、FM埼玉取締役社長、FKK取締役最高顧問などの要職を歴任。
専門はコンクリート、鉄道マネージャー、著書に『挑戦 鉄道とコンクリートと共に六十年』(2003年 (株)交通新聞社)など。








■戦時下、松花江に「舟橋」を架ける特殊任務

山岡 今回は、ゲストに鉄道界の重鎮、仁杉巌さんをお迎えしました。戦中に鉄道省へ入省されて以来、敗戦後の混乱、公共企業体としての国鉄の発足、東海道新幹線の建設、そして激動の国鉄分割民営化の渦中での総裁就任、さらには民間の西武鉄道の経営と、総合的に鉄道事業に携わってこられました。まさに昭和、平成の鉄道史の生き証人です。「8月15日」という歴史をふり返る重要な節目に仁杉さんのお話を掲載できるのは光栄です。
 いろいろお聞きしたいのですが、そもそも鉄道と関わられるようになったのは、1936(昭和11)年の夏、東大の土木工学科2年のときに「南満州鉄道株式会社(満鉄)」へ実習に行かれたのがキッカケだったとか……。

仁杉  そうそう。船に乗って、大連に着いてね。内地にはない超大型の石炭埠頭が見えて、いよいよ満洲に来たなぁ、と興奮したものです。満鉄本社を訪ねると、白城子(現・白城市)という大興安嶺山脈の麓の街の建設事務所に行くことになった。当時、満鉄が世界一と自慢していた、時速130キロの特急「あじあ号」で四平街(現・四平市)へ出て、チチハル行きに乗り換えて白城子で降りました。蒸気機関車が牽引する「あじあ号」に冷房がついていたのに驚いたな。実習地はね、白城子からさらに西へ300キロ入った大興安嶺の頂上付近、長さ2キロのトンネル建設現場でした。そこで一か月実習したんです。

山岡 かなりモンゴルに近いところでは?

仁杉  そうです。山頂の向こうは内蒙古の草原で、ハロンアルシャンという野天の温泉地があった。そこから西へ100キロぐらいのところがノモンハン。

山岡 関東軍がソ連軍に惨敗を喫した「ノモンハン事件」(1939年)の舞台ですね。仁杉さんはノモンハン事件の3年前にハロンアルシャンを見ておられるわけですが、日ソ間の国境紛争が起きそうな兆しはあったでしょうか。

仁杉  いや。ハロンアルシャンには掘立小屋みたいな湯治場が並んでいて、ハイラルから来たロシア人がのんびり過ごしていた。まだ緊張感なんて感じなかった。

山岡 大学を卒業して、鉄道省に入省されました。

仁杉  満鉄に入ろうかと思ったんだけど、父は一人息子が外地に出るのに賛成しなくて、鉄道省を受けて採用されました。当時の日本の鉄道は、狭軌(1,067mm)の全国網が一応出来あがりつつある状況だった。難所の丹那トンネル(熱海~函南間7,804m、1934年開通)、清水トンネル(群馬~新潟県境9,702m、1931年開通)が完成し、鉄道の土木技術者は、さぁ、次は何をしよう、とわいわいやっていた。そこで浮上したのが「弾丸列車計画」。東京から大阪、下関、将来は関釜連絡船で玄界灘を渡って、釜山に上陸し、さらに朝鮮総督府鉄道、満鉄とつないで欧州へ、という壮大な計画だ。列車が大陸に渡っても、そのまま使えるように標準軌(1,435mm)でやろう、と賑やかに議論していた。僕は、研究所の設計課のコンクリート係に配属され、ドイツ語の原書を読んだりして、苦心惨憺、鉄道橋の設計に取り組みました。

山岡 日中戦争は、もう始まっていますね。戦争の影がどんどん伸びているころですね。

仁杉  それで1939年1月、鉄道連隊へ幹部候補生として入隊したんだ。鉄道連隊は千葉県の津田沼町(現習志野市)にあって、いま日本大学生産工学部のキャンパスになってる。

山岡 鉄道連隊の任務は、鉄道の敷設ですか。

仁杉  敷設は従で、戦地で機関車を動かしたり、枕木を敷いたりもするのが主だったね。入隊して、最初の四か月は一般兵と一緒に重たい枕木を二人一組で運んでレールに落とし、犬釘で打ち付ける訓練ばかり。その後、試験を受けて、僕は甲種合格だったので見習士官に昇格しました。入隊わずか11カ月で一兵卒から将校に変わった。一般社会じゃ考えられない。それから幹部候補生の教官を務めました。

山岡 戦地へは?

仁杉  1941年6月に鉄道連隊が満洲に派遣されることになり、僕もそのなかに入った。じつは、われわれの大隊は、鉄道の仕事から離れて、特殊な任務に就いてね。ソ連との開戦を想定して、松花江に「舟橋」を架ける作業に1年半もかかりきりになった。

山岡 舟橋ですか?

仁杉  上流から大きなボートを流して、二つを組み合わせて繋いでケタを架けるんだよ。日ソ戦が始まれば16トン戦車を通せる強度の舟橋を黒竜江にも架ける任務を与えられていたので、どこにも動かず、舟橋づくりに没頭していたわけだね。

山岡 貴重な証言ですね。日本とソ連は1941年4月に「日ソ中立条約」を締結し、ソ連は対ドイツのモスクワ防衛戦のために極東部隊を西へ移動させていた最中ですよね。いわば緊張緩和の状態です。でも関東軍上層部は、中立条約なんて全然信じていなかったんだ。

仁杉  関東軍総司令官の梅津美治郎が、わざわざ舟橋のようすを検閲にきたよ。僕らは対ソ戦が始まったら、飛行機でやられてダメだと思ったけど、そんなこと言っても仕方ないからね。鉄道連隊の仲間のなかには、中支や、南方に送られて、亡くなった人も大勢いる。舟橋をつくっていたお陰で、僕らは生き延びられた。1943年に兵役を解かれ、鉄道省の研究所に戻って、吉田徳次郎先生に弟子入りして、PSコンクリート(プレストレスト・コンクリート)の研究を再開しました。


■国鉄の「本家」意識と東海道新幹線の夢

山岡 戦中は、物資も資金も人も足りず、ご苦労されたことでしょう。

仁杉  PSコンクリートは、まず枕木の材料として考えられました。将来、橋梁に使うなんて想像もできなかった。戦争中は哀れなものでね、セメントも砂利、砂もプレストレス用の鋼材材料もない。それで当時、先輩が担当していた信濃川発電所が工事をやっていて、お願いして、貨車に材料を積んでもってきた。そこからPSコンクリートの枕木の原型ができたんだよ。

山岡 長い戦争が敗戦で終わりました。やはり、虚脱状態のように……。


仁杉  研究所には、もう何もないし、運輸省の施設課に移って、行政に携わるようになりました。新線建設のチェックなどをしたね。1949年に運輸省から日本国有鉄道が分離すると、東京鉄道局施設部工事課長を拝命し、戦災の復旧事業にとりかかった。

山岡 国鉄の発足当時、旧鉄道省出身者には、自分たちが鉄道行政を司る「本家」であり、運輸省が監督官庁になることに反感を抱く人もいたとか……。

仁杉  ハッキリ言って、もとは鉄道省なんですよ。鉄道省のなかに私鉄の監督局とか、運輸省がその後やるような仕事も入っていたんだよ。それを、運輸省を国鉄の監督官庁みたいにした。おれのほうが偉いのに何だ、運輸省は、という空気はあったと思います。だけど、まぁ歳月が経てば、運輸省は運輸省、国鉄は国鉄。とにかく、公共企業体として鉄道事業を行い、路線をつくるのは僕らだからね。時の流れが解決したと思いますよ。

山岡 国鉄は、政治的判断もあって、外地からの引揚者を大量に雇用しました。職員数は、50~60万人にも達しています。それが後々の赤字につながりますね。

仁杉  満鉄や朝鮮鉄道、中支の鉄道などに勤務していた人が帰ってきたら、原則として国鉄に入ったんですよ。

山岡 国鉄発足のタイミングで、「下山事件」あるいは「三鷹事件」「松川事件」が起きます。時の下山貞則国鉄総裁が誘拐後、轢死体で発見されたり、無人の電車が暴走したり……。この当時の国鉄の空気って、どんな感じだったのでしょうか。

仁杉  下山総裁がいなくなったのは、その日の夕方にわかった。翌日未明に死体が発見されたけれど、何がなんだか見当もつかない。土木屋の僕らより、車輌屋や保線屋のほうが詳しいだろうが、自殺説、他殺説、どちらの可能性もあった。わからなかったね。

山岡 ああいう事件が日々の仕事に何か影響を与えましたか。

仁杉  現場では、とにかく毎日、汽車を動かすだけで大変だった。列車の窓に板が打ちつけてある状況だよ。いまのJRからは想像もできない。そこに外地から戻った人がどっと入ってくる。そりゃね、ああいう事件は起きちゃいけないけど、あの混沌からすれば起きても不思議じゃなかった。われわれは、早く、この混乱から脱却して、新しい鉄道を打ち立てたい。安全で快適な鉄道運行を実現したい。そういう意識のほうが強かった。突っついてもわからない事件は事件として、それよりも早く鉄道事業を再建して、お客さんにいいサービスしたい、と思ってたな。国鉄ができて、10年ちかくは戦災復興に追われた。車輌も線路も悪かった。敗戦の痛手はそのくらい続きました。そして、新しい鉄道のひとつの目標として浮かび上がったのが東海道新幹線だったんです。

■頭のなかで新幹線を走らせていた天才技師・島秀雄

山岡 東海道新幹線建設の立役者は、十河信二総裁と、親子二代の国鉄マン・島秀雄技師長だと言われていますが、仁杉さんは島さんの下におられたのですね。

仁杉  そうです。1955(昭和30)年に東海道線の輸送力増強をどうするかの議論が始まって、そこから新幹線へ向かう。島さんなくして、新幹線はなかった。技術的には、島さんの頭のなかには現在の新幹線の構想があったと思う。こんな列車で、こんなふうに走るのだと、島さんの頭のなかにしか、それはなかった。たとえば動力分散型にするとか、交流電化、下り坂では電力を吸い上げるとか、安全装置はどうとか、すべて島さんの頭にあった。当時はわからなかったが、後で考えるとそうとしか思えない。全体像があの人にはあったんです。

山岡 島氏は、まるで頭の中で新幹線を走らせていたようですね。いつ、それを確立したのでしょうか。

仁杉  彼の生い立ちから考えなくちゃいけない。関西鉄道出身の親父さんも技師で1,435mmの標準軌道論者です。狭軌ではスピードが上がらないし、外国から車輌を輸入すると後で改良しなくてはいけない。だから標準軌だ、と主張しておられた。息子の島さんは、そういう意見を聞いて育っている。おまけに頭がものすごくいい。天才的だ。六ヶ国語を喋ったといいます。親父にくっついて欧米諸国に行っているから、鉄道のことは何でも知っている。それで、海外の進んだ点を、日本で真っ先にやってみたのが、交流電化です。フランスの技術を参考に、仙山線を筆頭にあちこちでやった。新幹線への布石を打っています。電車に動力を分散するのも、小田急鉄道から特急車輌を借りてきて、東海道線で動かしているんです。国鉄のOBのツテで小田急から電車の車輌を借りています。

山岡 国鉄と私鉄じゃ垣根がありますよね。

仁杉  その動力分散型の車輌を設計したのは国鉄の人だったし、小田急も渋い顔をしたわけではないが、島さんは私鉄に頭を下げてでも手を打つ立派な人でした。

山岡 島氏は、1951年に国鉄の桜木町駅構内で起きた列車火災事故(桜木町事故)の後、一度、国鉄を退職していますね。そのシコリのようなものはありませんでしたか。

仁杉  あの事故には二つの問題がありました。車輌の窓が開かず、乗客が外に出られなかったこと。もうひとつは、列車の車両間を行き来できなかったことです。細かくは、直流電化であったために電流を切断できなかったとか、いろいろですが、やむを得ない面があった。三段窓だって、材料があればあんなことはしなくて済んだ。工作局長の島さんとすれば、嫌な思いもあったでしょうが、国鉄を退職されて住友金属に移った。そこを十河さんが、技師長として戻ってくれ、と引っぱりました。十河さんは島さんのお父さんをよく知っていますからね。島さん自身、国鉄に戻ってからは、新幹線に全身全霊を傾けていましたね。


■日本の危機の本質は国土計画がないこと。

山岡 十河総裁の功績も大きいですね。

仁杉  十河さんがいなければ島さんも活躍できなかったでしょう。多くは語れないけれど、僕は秘書室で十河さんが島さんを呼ぶ工作のお手伝いをしました。島さんは、十河さんの下で働くのならいいけど、他の幹部の下では嫌だ、と。ごもっともですよ。でも、国鉄という法律で決められた組織では、そう言っても通じない。日本国有鉄道法の条文を直さなきゃいけない。それを僕が引き受けて、秘書課長とか、副総裁とかを口説いて歩きました。
もちろん十河さんもバックアップしてくれたから、それが通った。あそこで頓挫していたら、島さんも国鉄に来られなかったかもしれない。この話、知っている人は他にいません。

山岡 いま、初めて明かされる「秘話」ですね(笑)。十河さんが新幹線にこだわったのは、やはり戦中の「弾丸列車」へのこだわりでしょうか。

仁杉  十河さんは満鉄の理事だったでしょ。やっぱり「あじあ号」のロマンじゃないかな。世界一の列車をつくりたいという夢ですね。それには島さんが絶対に必要だった。戦中の弾丸列車計画は、東海道、山陽道に一本線が引いてあるだけですが、島さんは、鉄道省の上層部に浜松に試験線をつくってくれ、と要求しています。試験線で、動力分散や交流電化などを試してみようとしたようだね。試験線の考え方は、東海道新幹線の開発で、小田原~相模川間で採り入れられ、進められました。

山岡 戦争という巨大な障害に直面しても、島氏のなかではずっと高速鉄道の構想が熟成していたのですね。技術者の凄みを感じます。

仁杉  いくら僕が鯱鉾立ちしても、島さんにはかないません。僕も、東海道新幹線では、何百というPSコンクリート橋を架けたけどね(笑)。いま、新幹線の代わりに新しい鉄道をつくると言っているが、本当にそこまで技術が進んでいるのか、しっかり分析して、構想を立てられる島さんみたいな人はいません。一つひとつの技術はある。リニアなら、リニアという技術はある。しかし、どこが急所か、本当に知っている人は、残念ながらいないでしょうね。

山岡 技術者が総合的な視点を持ちにくいのは、あまりに技術が高度化、細分化しすぎたせいでしょうか。

仁杉  技術屋というのは、どうも細かいことに意識が向きすぎる。その道のことは詳しいが、全体を見られない。僕は、いまね、土木屋で一番足りないのは国土計画だと思うんですよ。これが、ないからね、どうしようもない。大学の先生は重箱の隅を突っついてばかりです。官僚も落ち着いて広い視野の勉強をしていない。日本の危機の本質はそこにある。「国土強靭化計画」とかやっていますね。いいですよ、強靭にするというのは。だけどどのくらい金がかかるのか、何からやるのか、強靭化で橋ばかりつくっても仕方ない。
 それは、土木だけではないかもしれません。電気やコンピュータは、大きなビジョンをつくっているのでしょうか。トータルなビジョン、これをどうするか。太平洋側に地震がくるかもしれないから巨大な構造物をつくるというが、お金はどうします。どんどんお札を刷るのもいいでしょう。でも、その後はどうしますか。

山岡 おっしゃりとおりです。向こう百年とは言えなくても、せめてひと世代、30年先くらいは考えておきたいです。次回は、技術論から経営論に転じて、国鉄分割民営化などの秘話をお聞きしたいと思います。

(後編へ続く)