2013年5月31日金曜日

第2回 政策研究大学院大学政策研究センター長 森地茂さん(後編)

■地域格差の是正と高度成長を同時に達成した「日本の奇跡」

山岡 ― 今日は、戦後の復興から高度成長、バブルとその崩壊を経て現在に至る社会資本整備の流れをお聞きしたいと思います。私たち一般人は公共事業というと、道路や鉄道、橋、河川、港湾と個別の事業に注目して、あれこれものを言いがちです。ただ、これらは国土をベースにつながっているわけで俯瞰的に見ることも大切でしょう。そのあたりからお話いただけますか。

森地 ― 戦後の社会資本整備には、主に次の目的がありました。①需要追随:都市化やモータリゼーションなどへの対応。②災害対策:暴風雨、地震、火山の噴火など。③経済効率性の向上:高速の交通体系、工業団地や水・エネルギー資源への対策。④環境対応:水質や大気、土壌などの汚染への対策です。そして、⑤地域格差の是正:地域間の人口、雇用、所得、生活水準などの格差をなくすという五つの目的です。
 敗戦の焦土から、高度成長での復活は「日本の奇跡」と世界中で言われました。その後、ブラジルや中国、インドなど高度成長を遂げた国は多いですが、日本の奇跡には、他の国々と違った特徴があります。それは「地域間格差」が、高度成長とともに縮小した点です。ふたつ同時に達成した国は日本だけ。これが日本の奇跡と言われる所以なのです。

山岡 ― 地域格差が縮小、ですか? 格差は開いている印象が強いのですが……。

森地 ― 所得分配の不平等さを測るジニ計数や、三大都市圏への人口流入などを見ますとね、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州などのブロック間の格差は1975年頃までにほとんど解決しています。これは地方の一次産業と都市の二次、三次産業との所得格差を縮小するために社会資本整備を先導役に工場の地方分散を図り、農山漁村の雇用機会の創出と兼業化を促進する政策が採られた結果です。その後、ブロック間の格差はほぼ横ばいからやや上がりますが、これは金融や情報サービス産業が都市に集中したためです。90年台以降のデフレ時代は、ブロック間格差は再び縮小しています。

山岡 ― 地方は経済のグローバル化で生産拠点が海外移転し、駅前にはシャッター街。高齢化のスピートも早く、疲弊しているように感じられるのですが……。

森地 ― 問題は、関東圏の東京と群馬とか、中部圏の名古屋と岐阜とか、ブロック内、あるいと都道府県内での格差なんです。ブロック内格差と、都道府県内格差は、75年から90年頃にかけて急上昇し、その後、下ってはいますが高止まりしている。つまり、日本全体としての所得格差は縮まっているのですが、地方のなかで格差が開いた。その間、都市的サービスを求めて地方中枢都市への人口移動が続いた。85年のプラザ合意以降、急激な円高で大企業も中小企業も東南アジアなどへ生産施設を移転させます。従来の大都市から地方部への企業進出という地域活性化のシナリオが崩れました。

山岡 ― 工業団地を開発しても、海外とのコスト競争で企業を誘致できませんね。

森地 ― そこで地方の不況対策として公共事業が求められました。90年代から産業基盤投資、生活基盤投資ともに地方部での増加が目立ち、箱物投資批判や公共投資批判を招いた。

山岡 ― 財政的には地方への投資も厳しくなりました。いま、私たちが感じている格差は、社会資本整備の視点からどうとらえればいいのでしょうか。

森地 ― 全体の所得格差は縮まっているにもかかわらず、大変な格差があると感じているのは「将来展望」への格差でしょう。

山岡 ― 少子高齢化で雇用、医療や介護、生活全般への不安が拡がっていますね。

森地 ― そこから将来展望の格差も生じる。これを解決しなくてはいけません。


■東海道新幹線を世界銀行からの借款で建設した理由


山岡 ― では、時代を遡って、終戦直後からインフラ整備の具体像をお聞きします。戦後、真っ先に国がとりかかったインフラ整備とは何だったのでしょうか。

森地 ― 港は、かなり早く着手されたようです。昭和20年代初頭に建設省に入った先輩に聞くと、最初は仕事がなくて、外国の論文ばかり読んでいたけど、流砂で港が埋まり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)も困って、神戸港と横浜港大桟橋への投資が許されたそうです。他の港にも波及し、臨海工業地帯構想が浮上して、埋め立てと工業立地が合体します。交通の技術革新が起きて大型船が通れるようになった。工業振興、交通の技術革新、埋め立ての三拍子がそろった。さらに港湾開発を後押しする歴史的資産もありました。

山岡 ― それは、何ですか。

森地 ― 大正末期から昭和の初め、日本は世界屈指の海運国家でした。軍艦をたくさん建造した。商船や造船、商社の上層部は別荘を持つほど裕福でした。いったん、そこまで豊かになったのだから、そこまでは戻れるという確信があった。イメージがあったから、戦後のどん底でも、どんどん投資できたのです。

山岡 ― 確かに第一次大戦後、日本は英米に次ぐ世界三位の船腹量を誇っていました。「成り金」の時代。その成功体験が、戦後復興の原動力だったのですね。

森地 ― 復興途上で、次に力を発揮したのが受益者負担による道路整備特別会計です。1949(昭和24)年に揮発油税が復活し、56年にワトキンス・レポートで「日本の道路は信じ難いほど悪い」と評されます。道路整備が急務になり、田中角栄のアイデアで揮発油税は道路特定財源になる。ODA(政府開発援助)なしに社会資本を整備できたのは特会があったから。もしも政治家や官僚が完璧に理性的、論理的に行動するのならいいですよ(笑)。そうでなければ特会で税金の使い道を縛ったほうがいい。そこでお金は循環します。加えて公団が創設され、郵便貯金の財政投融資を使った社会資本の整備が進みました。

山岡 ― 60年代に入って東海道新幹線、東名高速道路と国家プロジェクトが実り、日本は先進国入りします。新幹線にはGDPの3%ちかい投資をしていますね。

森地 ― 国鉄の十河信二総裁が新幹線構想をぶちあげると、欧州から「世界三バカ投資」と揶揄されました。ピラミッド、万里の長城と並ぶ三バカ投資だって(笑)。
欧州では航空や高速道路が整備されて、鉄道はお客を奪われて衰退の一途。米国も同じ。そんな状況で巨額の投資をしても採算はとれないと嘲笑われた。

山岡 ― 世界銀行から1億ドルちかい借款を受けて建設しますね。

森地 ― 先輩に聞くと、あれはお金が欲しかったからではないそうです。

山岡 ― へぇ、そうですか。

森地 ― 総理大臣がころころ変わって途中で止められたら鉄道事業は破綻します。政府が止めたと言えないように世銀のお金を入れて、政権交代に関係なく、返済の義務を負って事業を続けようというわけです。名神、東名高速にも世銀の借款が使われています。新幹線のやり方を見て、建設省の道路局も真似したのかもしれません。

山岡 ― その後、国鉄は分割民営化でJRグループ各社に分かれましたが、高度成長を支えた存在だったことは間違いありませんね。

森地 ― 日本の鉄道では、三つのことが世界で高く評価されています。第一に新幹線、多額の投資をわずか5年で回収した。二つ目が羽田のモノレール。空港へ鉄道を敷くのも採算に合わないと見られていたけど、これも成功。三番目が国鉄分割民営化です。民営化の最中に、僕は欧州の公開シンポジウムで講演をしました。そしたら「バカげている」と批判された。欧州の都市鉄道はどこも赤字でダメになったから公営化した。赤字で民営化なんて気が狂ってると言わんばかり。会場では労働組合の人たちからブーイングを浴びました。でも、日本は民営化がうまくいきました。するとドイツが先導し、サッチャーの英国も、フランスも民営化へと舵を切った。その後、英国は過激な民営化の反動で事故も起きましたけどね(『折れたレール』クリスチャン・ウルマー著に詳しい)。

■「聖域なき構造改革」前夜の道路公団改革案


山岡 ― 1973年末の石油ショックで高度成長は止まり、「安定成長」が課題となります。石油ショックは社会資本にどんな影響を与えたのでしょうか。

森地 ― 自動車の排ガス規制が大きいですね。米国では厳しい規制を求めるマスキー法が議会にかけられたけど、ビッグ3が不可能だとして廃案。日本でも自動車メーカーが同じような主張をしていたなかで、本田技研工業がCVCCでクリアできると発表しました。74年に排ガスの50年規制が告示され、その後厳しく改定されていきます。自動車メーカーはクルマの小型化、軽量化、燃費性能の向上とコストダウンに全力をあげて、日本経済をけん引しました。社会資本整備に「環境」の視点が本格的に入ってきましたね。

山岡 ― 次の壁が85年のプラザ合意後の円高でした。貿易立国の日本は「内需拡大」がテーマとなり、インフラ整備のかたちが変わる。バブルが始まりました。

森地 ― ちょうど「前川リポート」が出て、「生活大国」というコンセプトが示されます。生活大国の日本に集まる外貨を何とかしなくてはならない。そこで、箱物にいってしまう。インフラといえばインフラだけど、劇場だとか、庁舎、ホールとか。地方のなかで格差が拡大しているころだから、そっちに投資される。竹下登首相は「ふるさと創生事業」で各自治体に地域振興で使える資金1億円を交付します。地方の人が自分たちで考えて、事業に使ってほしい、と。その後、小渕恵三内閣でも「地域戦略プラン」が重大政策で打ち出され、広域経済圏での自立的な事業を提示します。バラマキと批判する人もいましたが、どちらも方向はよかった。うまくいかなかったのは「単年度」の予算消化に縛られたからです。本来は、2~3年かけて、地元の人に考えてもらって、うまくいきそうなところから順番にお金をつければいい。それが単年度ですぐに使わねばならないから、決まったところからどんどん交付した。

山岡 ― なるほど、お金の使い方の制約ですね。間もなくバブルは崩壊し、財政が急速に悪化し、公共事業に急ブレーキがかかります。

森地 ― 財務省は政治家がお金を使いたがるのを抑えるために公共事業の「乗数効果が落ちた」と盛んに言うわけですが、乗数効果はしょせん投資効果。道路をつくったら鉄の値段が上がるといった類のこと。現実には道路をつくったら工場が建ち、流通が合理化されていきます。こうした効果は計測できない。インフラを整備したら実際に地域がどう変わるのか、民間がどう変わるかを見定めることが大切です。

山岡 ― 小泉純一郎内閣の「聖域なき構造改革」で公共事業に大ナタが振るわれ、投資額は年々減りました。

森地 ― じつは森政権末期に国交省が道路公団改革を真剣に議論していました。僕もその委員会のメンバーで、全国一律の高速道路料金ではなく、都道府県がある程度負担したら、料金を下げる仕組みを考えて、財務省も自治省も合意したんです。法律を通す準備をしていたら、道路公団が猛烈に反対しました。公的なお金が入って、国交省道路局が直轄で高速道路をつくることになりますからね。結局、政治家の裁断で、法案の提出が先延ばしにされました。財務省とも話がついていたのですが、流れた。それが年度末の三月、そして四月に小泉さんが総理に就任されたのです。その後、新直轄方式と称して、一般国道と同じように国交省地方整備局が整備して、完成後は無料開放される高速道路と、従来通りの高速道路ができるわけですが、流れた案と比べて、どっちが合理的だったか、よく考えねばなりませんね。


■公共事業をいかに「評価」し、「選択と集中」を行うか

山岡 ― 民主党政権の「コンクリートから人へ」はどう受けとめられましたか。

森地 ― ワンフレーズで、一般受けはよかったのかもしれませんが、インフラは生活を支えるためにも重要だということをミスリードした。高速道路の無料化までいった。八ッ場ダムにしても、いきなり「止める」と言う前に公共のリスクを検討する段階が必要でした。

山岡 ― メインテナンスに必要な費用まで削られそうでした。長い歳月、物理的に社会を支えてきたインフラの老朽化への対策は急務だといわれています。

森地 ― 一例をあげると、新宿南口の甲州街道とJR路線との交差部分に架設された新宿跨線橋。あれは2000年から架け替え工事が行われていますが、きっかけは1995年の阪神淡路大震災での高速道路の崩落です。現場を京大の先生たちと僕は一緒に歩いて、落ちた理由などを聞きました。帰りのバスで「東京で直下型地震が起きたら、どこが危ない?」と訊ねたら「新宿だ」と。あの跨線橋は、関東大震災後の1925年に建設されている。支持構造もヒンジ(蝶番)で強くない。怖い。直せばいいのだけれど、懸案のままになっている。聞けば、JRと国道の管轄の違いで云々と。双方の担当者に「きみらね、人が死ぬかもしれないんだよ」と言って、それぞれのトップに話をして着工にこぎつけたんです。

山岡 ― 15m以上の橋は全国に15万橋もあるそうですが、多くが古くて、しかも半数以上が市町村の管理。ということは修繕の手が届きにくい。そもそも個別の公共事業が適切かどうかは、どのように評価すればいいのでしょうか。

森地 ― フランスで始まった「費用便益分析」の手法は、市民も理解できるモノサシとして先進諸国に定着しています。どこの国も数字でチェックします。しかし、最終決定は大臣がやります。日本は、そこの議論が欠けています。評価の方法としては英国方式がいい。英国は、一枚の紙にひとつのプロジェクトの費用対効果、環境負荷、立ち退きを迫られる人の数、土地はいくらで買収できているか、他の計画との整合性など、じつに細かく書いて公表します。それを一枚ずつ比べれば、どの事業の効果が大きいかわかります。変なことをしたら、市民や世論が、これはおかいしぞ、と言える仕組みになっているんです。

山岡 ― オープンですね。日本では行政機構の垣根の問題などもあって難しいですか?

森地 ― 増田寛也さんが岩手県知事をしておられた頃、費用対効果だけ公表したんです。それだけでも県議会議員の意識が変わったとおっしゃっていました。

山岡 ― さて、近代化とともに築かれた膨大なインフラが老朽化しています。財政の縛りがあるなかで、何からどう手をつければいいのでしょうか。

森地 ― 「選択と集中」でしょう。僕らの仕事は、直近の緊急対応的なものと、長い尺度で将来を見すえてやるもののセットです。両者の方向は必ずしも一致しない。これは極めて悩み深いものです。費用対効果の比ではない。選択の条件をどうそろえ、何に集中するか。究極は、利根川が氾濫したら東京がやられるので50年かけて堤防をこしらえる、しかし、その間、大阪の淀川には手をつけない、というような選択は困難です。では両方を長期間かけて整備すれば、その間のリスクは、上がったり、下ったり。こう言う問題はどこでもある。公共事業を減らすといっても、日本は、特定の分野だけ減らせない。一律に減らす。大義名分を立てて、メディアも巻き込んで「選択と集中」の悩み深さを含めて議論をしなくてはならないと思います。

(写真撮影・永田まさお)

2013年5月15日水曜日

第1回 政策研究大学院大学政策研究センター長 森地茂さん(前編)

対談日:2013年3月6日  於:土木学会会議室

(写真撮影・永田まさお)


森地 茂さん プロフィール
1943年9月29日生(京都市)。東京大学工学部土木工学科卒業(1966 年)、日本国有鉄道、東京工業大学、マサチュセッツ工科大学、東京大学大学院教授を経て、2002年東京工業大学名誉教授、2004年政策研究大学院大学教授、東京大学名誉教授、2009年政策研究大学院大学特別教授。第92代土木学会会長、土木学会名誉会員。これまでに交通工学研究会会長、アジア交通学会会長のほか政府審議会委員などを歴任。専門分野は、交通工学、国土計画。
主な著書に『社会資本の未来(編著)(1999)』、『国土と高速道路の未来(編著)(2004) 』、『国土の未来(編著)(2005) 』、 『人口減少時代の国土ビジョン(編著)(2005) 』『未来への投資(編著)(2007)など多数。


■若き岩倉使節団が「欧米」を吸収したエネルギー

山岡 : 日本が近代国家としての「国づくり」「国のかたち」に目覚めたのは幕末・維新からですが、当時の人びとの西欧に追いつこうとする情熱はもの凄かったですね。現在、インフラが直面している問題を考えるに当たっても、あのエネルギーのほとばしりは、よく確認しておかなくてはいけない気がします。

森地 : じつは、今日、国づくりを先導した人に関する三つの文献を紹介したいと思って、持ってきました。最初の本は『米欧回覧実記』(久米邦武著 岩波文庫全5巻)です。1871(明治4)年から73(明治6)年にかけて、岩倉具視を大使とし、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通ら使節約50名、随員、留学生を合わせて100名を超える岩倉使節団が、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を訪れました。この本は、使節団の一員だった久米邦武がまとめた博大な視察の記録です。若い息吹が充満しています。

山岡 : 岩倉使節団は、もともとフルベッキの私案を受けた大隈重信が提起した小規模な使節が政治的駆け引きもあって、政府のトップが国を空ける大使節団になったのでしたね。

森地 : 西郷隆盛らは残って留守を預かるわけですが、岩倉使節団はとにかく若い。最年長の岩倉でさえ出発時の数え年は47歳、木戸39歳、大久保は42歳……一行で最も若かったのは司法権少判事の長野文柄で18歳。使節団の平均年齢はほぼ30歳です。20~30代の若者たちが、猛烈に欧米の文物を吸収していく。ありとあらゆるものを見て歩いています。たとえばベルギーでは、鉄道を、国がつくるべきか、民間がつくるべきか、あるいは鉄道インフラは国がつくって運営は民間がすべきか、どれがいいか、と議論をしている。いまの「上下分離方式」と同じことを検討している。以前、運輸省の官僚に100年以上も前に同じ議論していたのを知っていますか、と聞いたら、知りません、と(笑)。
 使節団はパリやロンドンではガーデン・シティを学びます。企業の社員へ引退時に社宅を与えることを終身雇用の条件に考えたりしている。社員が家をもらうころには地価がすごく上がっているからインセンティブになるんだ、と言うわけです。盲学校や綿工場、炭鉱などにも足を運んでいます。

山岡 : 憲法も、内閣も、議会もできていない段階で、若い使節団が、よくまぁ、あれだけ貪欲に熱心に動いて吸収できたものです。しかも相手国はきちんと対応しています。

森地 : 西郷ら留守番組と、木戸ら外遊組で約束を交わしています。使節団には条約の改定交渉の協議という使命があったのですが、留守番組は「不平等」を解消せよと言い、逆に外遊組は留守中に台湾や朝鮮に攻め込むな、と念を押し、互いに約束して出発した。アメリカの大統領は二回も使節団に会った。正式な使節と認めたからでしょう。しかし帰国したら征韓論で沸き立っていて、西郷の政府離脱、士族の反乱、西南戦争へとつながります。

山岡 : 国際デビューと内政の国づくりを同時にスタートさせた日本は、激しい政争を経て骨格が定まった。よく「国を開く」といいますが、じつは開いたり、閉じたりの歴史です。

森地 : とくに発展途上の段階では、そうですね。明治の人たちは中国のアヘン戦争後の惨憺たる状況を見て、ああなってはいけないと肝に命じている。不平等条約への意識というのは、明治の末に改正されるまで、ずっと残りました。

■「技術は自然科学と術を融合せる文化創造なり」宮本武之輔の技術者運動

山岡 : 明治という時代は、とにかく「政治」が先行し、「かたち」が後でついてきました。

森地 ― そこで、二冊目にご紹介したい本が、『宮本武之輔と科学技術行政』(大淀昇一著 東海大学出版会)です。宮本武之輔は1892(明治25)年に愛媛県に生まれた土木技術者です。土木界では有名で、河川工学の発展に多大な貢献をしました。内務省で利根川や荒川の改修を指揮しています。1927(昭和2)年には信濃川の大河津自在堰の陥没という非常事態が発生して、宮本が現地に送り込まれ、心血を注いで復旧させます。1938(昭和13)年の神戸水害の復旧にも卓越した技量を発揮している。技術行政官のトップに立つ人なのですが、宮本は、ずっと「国土づくりは科学的にやれ。ベースは科学だ」と言い続けた。

山岡 : あえて「科学的にやれ」と言わねばならなかった理由とは、何でしょうか。

森地 : 明治の初めに20~30代の若者たちが岩倉使節団のようなことを実行できたのは、あの当時の日本人が漢学を学んでいたからだとも言えます。漢学とは、突き詰めれば政治です。だから政治的に大胆な行動がとれたのかも知れません。
しかし、欧米に追いつくためには、社会をリードする若者が、皆が皆、政治の道に進んだのでは国が成り立たない。だから工科、医科などを専攻する道もできる。政治は法科大学を出た人の領分で、他はそれぞれの分野で頑張れ、という仕組みになった。そこに中国の「科挙」の考え方が結びついて、官僚登用の高等文官試験ができる。このような制度のなかで、土木技術者が内務省や農商務省などに入っても、なかなか課長にもなれないんですね。そういう不満が背景にはあったようです。科学技術を浸透させ、工学を合理的に展開するには、技術者が力をもたなければならない。そこで宮本は技術者運動を積極的に展開しています。仲間と「日本工人倶楽部」という団体も立ち上げた。その「発会の辞」で「技術は自然科学と術を融合せる文化創造なり」「技術者は創造者なり」「日本工人倶楽部は技術的文化創造の策源地なり」と宮本は述べています。

山岡 : 技術を非常に幅広く、リベラル・アーツ的にとらえていますね。宮本は博学多才で、若いころは、文学を志していたとも聞きますが……。

森地 : ええ。小説を書いていますよ。法科か、工科か、進路でずいぶん悩んだようですが、第一高等学校を卒業する前の日記(1914年2月25日)には「小生は桂太郎たり山本権兵衛たらむよりはその信条の如何は第二の問題として実践躬行の二宮尊徳を尊ぶ。工科の内何を専攻したりとて結局同じ事には候べきも、小生の『やって見ようか……』と思わるるものは仍見、土木と採鉱とに候」と記しています。

山岡 : 当時は、陸軍出身の首相だった桂が亡くなったばかりで、海軍の山本が総理の座にありましたが、そんな政治家よりも、報徳思想の農政家の二宮尊徳を尊ぶというのはなかなか潔い。宮本は大正デモクラシーの風を浴びて社会に出て、関東大震災から昭和恐慌、戦争への時代を独特の技術観、文化観を抱いて生きている。置屋から仕事場に通ったりもしています。親分肌で、おもしろい人物ですねぇ。

森地 : ちなみに、晩年の宮本は、大政翼賛会の運動に深くかかわっていきます。大政翼賛会は、いま風に言えば、右翼。そのなかで科学技術の新体制の確立運動などを各省と一緒にやっていくのですが、亡くなる直前の1941(昭和16)年4月に「企画院」の次長に就任します。企画院は、内閣直属の物資動員や重要政策の企画立案機関で、主要テーマは大陸開発です。宮本は満州建国の頃から大陸に関心を寄せ、視察に行ったりしています。1933(昭和8)年に満州国国務院の局長級のポストを打診されますが、この人事は宮本の仲間たちが、左遷だ、うるさいから満洲に追いやられるんだから行くな、と止めたこともあり、実現しませんでした。その後も宮本は対支技術連盟などを結成して何度も北京視察を行い、1938(昭和13)年には内務省から占領地における大陸資源の開発を目指す興亜院に新設された技術部長に転身します。軍との関係も緊密になっていく中、1941年第二次近衛内閣の企画院総裁となった鈴木貞一陸軍中将から、企画院次長就任の要請があったわけです。しかし、技術院の開設を見ることなく12月24日に肺炎で逝去します。まだ49歳の若さでした。過労死だったのではないかな、と僕は想像しています。

山岡 : 大政翼賛会は、発足当初は右から左まで幅広い人材が揃っていましたが、だんだん右が強くなって偏っていく。そうした政治の渦に宮本も巻き込まれたのかも……。

■建設省を技術者の砦として立ち上げた兼岩伝一

森地 : 宮本の「国土づくりは科学的に」という考え方を、戦後、まったく同じように提唱して、技術者運動を展開し、技術者が活きる建設省を実質的に立ち上げた人物がいます。三冊目の本『民主的国土建設と一技術者 兼岩伝一の歩んだ道』 (兼岩伝一君記念出版の会編 民衆社)の主人公、兼岩伝一です。兼岩は、宮本の7歳下で愛知県に生まれました。東大の土木科を出て、内務省に入り、帝都復興局、愛知県、三重県、東京府、埼玉県で技師、課長を務め、戦後、1946(昭和21)年に内務省国土局調査室に戻ります。兼岩は大きな業績を残したのですが、建設・土木の行政史ではほとんど採りあげられない。

山岡 : 「正史」に記されにくい事情があるのでしょうか。

森地 : 無所属で参議院選挙に立って当選して、建設省をつくった後、共産党に入党したんです。それで行政史には採り上げられなかった、と……。経緯を整理すると、敗戦後、焦土を前に建設技術者はぼんやりとしていられませんでした。荒廃した国土の復興という大仕事が目の前にあります。復旧、復興に向けて内務省、運輸省などの心ある技術者は真剣でした。そのリーダーが兼岩です。彼らは、まず技術者自身の奮起と、理想的な建設行政の機構の設立が必要であることに行きつきます。その実現を目ざすための技術者運動組織、「全日本建設技術者協会(全建)」を46年12月に設立します。全建は、その名前を出せばGHQだろうが、誰だろうが会えない人はいないといわれたくらい組織力があった。全建の初代委員長に就任した兼岩は、内務省の解体を機に、技術者中心の理想的な建設行政機構、つまり建設省の立ち上げに動きます。

山岡 : 内務省は、戦前の国づくりを統括しましたが、GHQから軍国化の中枢機関と見られてバラバラに解体されますね。地方行政部門は各都道府県や自治省、警察は警察庁と国家公安委員会、衛生・社会部門は厚生省、労働省へ。で、土木部門がどうなるか、ですね。

森地 : そうです。兼岩は、全建だけでは政治力が足りないと感じて、自ら参議院議員になります。まず建設院をこしらえて、それを建設省へ移行させる。内務省解体の大騒動の間隙をつくように、兼岩と全建は技術者主導の建設省を立ち上げます。新設の建設省では事務次官と、河川、道路、営繕、住宅の4局長、それに関係各局の課長ポストを技術者が占めました。当時、一番技術者が強かったのが建設省。逓信省の電信電話関係は電電公社、通産省は鉱山保安局だけが技術者の局長で、技術屋の多くは工業技術院へ集まっています。

山岡 : それほど熱心に建設省の設立に関わった兼岩が共産党に入ったのは?

森地 : ここは僕の想像ですが、「科学的」というのは唯物論のキーワードですよね。兼岩は、もともと敬虔なクリスチャンで、入党に際しては友人、家族も大反対したそうですが、押し切った。時代も左傾化していた。1970年に亡くなるまで、ずっと彼は国土政策批判を展開しました。だから建設省側は彼の功績を残してこなかった。しかし、建設省の官僚が自分の省がどのようにして誕生したかも知らないで、あれこれ議論するのは恥ずかしいでしょ。市民を巻き込む「PI(パブリック インボルブメント)」の考え方などは、兼岩が、とうの昔に提唱しています。それを知らずに、PI、PIと言うのもどうかな、と。それで本のコピーをつくって、こうして紹介しているんです。

■戦前から戦後へ、道路建設の連続性

山岡 : 国づくりに情熱を注いだ技術者の話をお聞きしていて、戦前、戦中と戦後で、内務省も解体され、一見、大きな断絶があるようですが、不連続の連続といいますか、つながっている部分も少なくないと感じます。その延長上に、現在のインフラの問題もある。

森地 : たとえば、いまでは道路建設は公共事業の象徴のように言われていますが、大正末期から昭和初めにかけて、日本の道路にはほとんど予算がなかった。河川や鉄道にしか予算がつきませんでした。内務省の道路をやっている連中は、なんとかしたいとずっと考えていて、世界道路会議にオブザーバーとして出席します。そこで、ミラノの「太陽道路」のプランを知ります。これは「有料道路」なんですね。

山岡 : 有料道路?  日本では道路を走る自動車から料金徴収する発想がなかった?

森地 : その世界道路会議の議論では、イギリスの「ターンパイク」が話題に上ります。中世以来教区が維持してきた公道は、産業革命の交通需要の急増に追いつかなくなったので、議会が各地に財団法人を認可して道路建設させて、通行料の徴収権を認めました。しかし、失敗している。アメリカでも1900年代のモータリゼーションに合わせて「パークロード」という有料道路をつくろうとして失敗した。でも、太陽道路はうまくいきそうだということで、内務省の道路担当者は帰国してすぐに有料道路の法律づくりにとりかかります。
当時はまだ自家用車は極めて少ない。バスとトラックなんですよ。有料道路にバスやトラックを走らせてお金を徴収して財源に充てようとします。法案はできるのですが、結局、否決される。反対の急先鋒は鉄道省なんですね。鉄道省にとって、人や物資を運ぶのは自分の領分です。それで法案に反対する。翌年、法律は通るのですが、有料道路は鉄道省の道路と位置づけられるんです。内務省ではなくてね。それが戦後、運輸省に引き継がれて「道路運送法上の自動車道」がつくれるようになる。箱根ターンパイクや比叡山ドライブウェイなど、運輸省の管轄下で観光道路があちこちにできるというわけです。やがて、建設省も「道路法上の自動車道」をつくって、有料道路はあちこちにできます。

山岡 : なるほど、省間の権力闘争が法律を介して、道路のかたちが決定づけられている。歴史的経緯を知らないと、そこはわかりません。

森地 : 官だけでなく、民も関わってきますね。東急グループの首領、五島慶太は、戦後、「次は道路だ」と言いだして、渋谷から江の島へターンパイクを通そうとしたんです。それに建設省の道路局が猛烈に反対しました。ターンパイクは運輸省がつくることになりますからね。で、建設省は、早々と世田谷から保土ヶ谷までの「第三京浜」を決めるんです。結局、五島は諦めて、やっぱり鉄道でなければいけないと田園都市線に切り替えました。

山岡 : 道路や鉄道、橋、ダム、港湾……インフラには近代の歴史が詰まっていますね。さて、戦後、いよいよ国土計画が立案されて総合的な開発の時代が始まります。

森地 : 国土計画の意義は、国土の将来像を描いて、そこに向かう道筋を示すことです。そのためには、①国際情勢の洞察と歴史観、②国土の自然状況、そこでの諸活動、人びとの価値観などのモニタリング、③この国の向かうべき方向と課題の特定、④国土の土地利用と社会資本の計画、⑤それらの実現のための諸政策、制度の提示、などが必要になってきます。国土計画は抽象的で具体性がない、という批判がありましたが、歴史観や自然状況、この国の向かうべき方向性などというものは、抽象性を抜きには語れません。国土づくりは、流行に左右されるものではないということを多くの人に理解していただきたいですね。

(後編へつづく)