2013年6月30日日曜日

第4回 東京大学名誉教授 高橋裕さん(後編)

■「蜂の巣城紛争の教訓――水源地を活性化せよ

山岡 - 前回の対談で、日本は、戦後、TVA(テネシー川流域開発公社)の技術的方法論を真似て多目的ダムを建設するなど大規模な河川整備事業を行ったが、根本の「哲学」を疎かにしてきた、とご指摘いただきました。その典型がダム建設における水源地対策の遅れだ、と。

高橋 - ダムを造ればいいという発想で、水没する集落の住民への対策は、戦後、一貫してお粗末でした。その典型が九州の「蜂の巣城紛争」です。私は、幸か不幸か、下筌(しもうけ)ダム建設反対運動のリーダーだった室原知幸氏が「下筌ダムを含む建設省の治水計画は公共事業に値しない」と東京地裁に訴えた行政訴訟で、原告側の鑑定人に選ばれました。確かにあの治水計画には特に水源地対策にかなり問題があると思いましたね。

山岡 - 一般の読者は「蜂の巣城紛争」をご存知ないかもしれませんので、概要を述べておきましょう。発端は1953年6月の筑後平野一帯の大洪水。筑後川上流域への集中豪雨が原因で堤防が次々と決壊し、147人が亡くなりました。翌年、建設省の九州地方建設局は上流の熊本県小国町を中心に治水ダムの建設計画を立て、調査を開始します。
57年8月、九州地建は初めて地元住民への説明会を開きますが、山林地主の室原氏を中心とする住民は建設省に不審を抱く。小国町は「建設絶対反対」の決議を採択。58年から13年間に及ぶダム史上最大の反対運動、蜂の巣城紛争が展開されました。
建設省が土地収用法に基づいて調査に入ると、地元民は抵抗し、下筌ダムの予定地に監視小屋を20棟以上建て、蜂の巣城を築きます。九州地建の蜂の巣城への立ち入りに対して、住民は激しく抵抗し、乱闘事件も起きました。その後、九州地建は蜂の巣城を強制撤去する代執行の申請を裁判所に行ない、室原氏も事業認定無効、差し止めの訴えで応じます。しかし室原氏側に不利な決定が続き、反対派住民のなかから、条件付き賛成派に回る者が増え、63年6月に蜂の巣城は落城、撤去されます。ダム工事が始まり、室原氏は第二、第三の蜂の巣城を構え、また法廷闘争を展開して、徹底抗戦の立場を貫くものの70年に逝去。室原家と建設省が和解し、下筌、松原の両ダムは73年に完成しました。

高橋 - リーダーの室原という人は、典型的な肥後もっこす。信念を曲げなかった。不思議ながんばり屋で、反対運動の戦法がユニークでした。たとえば機動隊が蜂の巣城に迫ってくると、ダムサイトの川べりに町じゅうの牛を集めて、そこに赤い布をつけて興奮させて、機動隊にぶつける。そうかと思えば、千早城に立て籠もった楠正成のように機動隊に向けて糞尿をばらまく。蜂の巣城のあちこちに水道管を巡らせたり、周囲の木に支援者の名前を書いた札をくくりつけて「闘争記念樹」と呼んだりね。発想が奇抜でした。
 新聞は、それをおもしろがって書くわけだ。でも、なぜ室原氏が治水計画に反対したかは書かないんですよ。マスコミは変わった現象を好むけれど、彼が反対した哲学を書いた記事は、ついぞ、目にしなかったですね。

山岡 - 室原氏は「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」と言っています。反対のための反対ではなく、地元をどう活性化するかを最優先に考えていたようですね。

高橋 - その意味では、彼は先見の明があった。日本の水源地対策がいかに立ち遅れているか、見抜いていた。

山岡 - 建設省幹部との交渉のなかで、室原氏は周辺整備について、たびたび意見を出しています。住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋やトンネル、観光資源としての遊覧船……。その多くが採用された。ダム湖は「蜂の巣湖」と命名(1988年)され、紛争の記憶を風化させまいとしています。

高橋 - 室原氏の裁判の原告側鑑定人をやって、しばらく建設省には恨まれました。役所というのは訴えられると、「守旧」が最大の目的になる。こう言っても仕方がないが、なぜ訴えられたかを考え、反対派の言い分も聞いて、自分たちの治水計画でも改めるべき点があれば改めればいいのだけれど……まぁ、無理かな。
 室原氏の哲学は、反対の加勢をした左翼陣営もあまり理解していなかった。60年安保闘争と重なったので、社会党と総評(日本労働組合総評議会)が彼を応援しましたが、反対するのが目的で、水源地問題まで突っ込まなかった。政治ショーが大事だったのでしょう、社会党は。反対運動に自ら陶酔して、サッと引いた、と感じましたね。総評の人ともつきあったけど、紛争を労働問題にして、ダムの本質に入らない。長期的視野がない。たとえば欧州では石炭から石油へのエネルギー革命が起きている。日本でも石炭はいずれ斜陽になる、時代の必然だと言っても、石炭産業、労働者を守ると応えるばかりで、長期的なビジョンは持っていなかったと私は思う。ことほど左様に、左翼は弱い者を助けると言うが、日本のエネルギー政策、流域問題、水源地問題をどうするかという観点はなかった。おまけにマスコミは、現象ばかり追い、本質を語らない。このように公共事業の哲学は顧みられなかったのです。



■本質を見ないジャーナリズム

山岡 - もの書きの端くれとして、耳が痛いです。マスコミが現象に目を奪われるのはウケたいからです。逆に言えば読者、視聴者もそれに反応します。話はそれますが、新聞が飛躍的に部数を伸ばしたのは、満洲事変(1931年)のときでした。戦場で撮った写真フィルムを飛行機で東京や大阪に運べるようになり、速報性、ビジュアル性が一気に向上し、錦州爆撃だ、上海市街戦だ、と報道されると読者が飛躍的に増えた。と、ともに、国粋主義、軍国化へと世論は傾く。熱狂を煽るマスコミは危ないです。本当に怖い。

高橋 - 私が小学校に入学したのは、1933(昭和8)年、歴史の転換点でした。前月の3月末に日本は国際連盟から脱退しており、私が教育を受けた間、日本はずっと国際的な孤児でした。中国は敵国、朝鮮はレベルが低い、1933年1月に政権についたヒトラーのナチス・ドイツは立派で、アメリカ、イギリスは鬼畜だと教えられた。中学に進んだ年に日独伊三国軍事同盟、翌年、日ソ不可侵条約。両方を仕切った外相の松岡洋右は大英雄でした。旧制高校2年のときに、やっと太平洋戦争が終わりました。教育というのは、子供にとって決定的です。私は、忠君愛国を叩きこまれた世代です。

山岡 - 「富国強兵」は明治以来の日本の国是とされてきました。いまでも似たことを言う政治家もいます。これは幕末の思想家・横井小楠の『国是三論』から引いたもの。勝海舟は「おれなど、とても梯子をかけても及ばぬ」と小楠を高く評価していますが、元々国是三論は、富国・強兵・士道が大切だと言っている。士道とは単純化すればリーダーシップでしょうか。しかし、いつの間にか士道は抜け落ち、富国と強兵だけになった。そこを顧みない。国を滅ぼすのは悪ではなく、愚だ、とも言われます。教育はだいじです。
すみません。脱線しました。ダムの話に戻しましょう。ダム建設を含む公共事業の大きな揺り戻しのきっかけになったのは、やはり環境問題でしょうか。

高橋 - 土木事業は自然が相手ですね。ダムにしても、高速道路、橋にしても。川は、人間がこの世に誕生する前からあるんです。だから「川づくり」なんて言う人もいるが、私は賛成しない。川をつくるなんて僭越です、自然とどう共生するかが大事です。公共事業は規模が大きくなるほど、自然環境、社会環境に与える影響も大きくなる。それを考慮して進まねばならなかったが、小手先の施工技術が進歩したので、造ればいい、となってしまう。環境問題はそれへの警告だった。

山岡 - 転換期は、1980年代でしょうか。

高橋 - そうですね。ダムは、環境への悪影響が大変わかりやすい。湖は水質が悪くなるし、土砂は溜まる。溜まった上流は川床が上昇するから水害を起こしやすい。下流は生態系が破壊される。川は、土砂が流れてきてくれないと困る。大きなダムを造った川ほど、土砂が下流へ流れなくなり、河口が浸食される。高さ155.5メートルの佐久間ダムは天竜川の上流にありますね。それで天竜川の河口、浜松市と磐田市の境は、ダムを造ったころと比べて、300メートルくらい浸食されている。海が陸地側に入ってきて、砂浜が減っています。佐久間ダムだけではない。他の大規模ダムの河口も同じ。日本の領土が減っているんです(笑)。

山岡 - ダムを含む河川整備事業にブレーキがかかったのは1990年代、バブル崩壊後の経済不況や財政赤字もあり、橋本内閣で大型公共事業縮小の判断が下されました。背景には、 「脱ダム」へつながるダム批判がありましたね。

高橋 - ええ。ただね、確かに環境問題は大切ですけれど、90年代からのダム自体を全否定する風潮は行き過ぎだと思いました。ダムのメリットというか、果たした役割もジャーナリズムは否定しました。高度経済成長期までは、洪水だ、渇水だといえば、なぜダムを造らないんだ、とジャーナリズムは書き立てたわけです。それが、一切、ダムはダメだと言いだす。ある有名な男性ジャーナリストは、長良川河口堰の反対運動の先頭に立っていました。当初、彼は「長良川はダムのない唯一の川だ。だから守れ」と言っていた。しかし、長良川の支流にはダムがあるのを知ると、前言を訂正するのかと思っていたら、その支流のダムの現場に行って、こんなに悪いダムがある、と開き直った。ジャーナリストには、そういう人が多いですよ。

■親子孫、三代が翻弄された「八ッ場ダム」

山岡 - 現実に河口は浸食され、ダム湖には土砂が溜まって、すでに水害が発生しています。ダムの老朽化も進んでいる。何から、どう手を打てばいいのでしょうか。

高橋 - 補修しなくてはいけませんね。ダムは、道路や橋よりは老朽化が少し後になりますけれど橋は、全面的に手を打たないとやがて次々落ちる恐れがある。高度成長期以降、土木事業は維持管理・補修が大切だということを忘れていた。なおざりにしたまま、公共事業を減らせばいい、という方向に走った。

山岡 - その象徴が、民主党政権の「コンクリートから人へ」でした。

高橋 - 標語としてはウケたのでしょうか。確かにわかりやすい。コンクリート=土木事業よりも、人=社会保障だ、と言いたいのでしょう。社会保障はだいじです。でも、コンクリートを否定することはないでしょう。メンテナンスが疎かになると警鐘を鳴らした土木技術者は多勢いましたが、伝わらなかった。

山岡 - 八ッ場ダムの建設をめぐるドタバタは、どのようにお考えですか。計画の原点は1947年のカスリーン台風(死者・行方不明者約2,000人)。同規模の台風が関東を襲っても水害が発生しないようにと、52年に利根川支流の吾妻川上流に多目的ダムをつくる計画が発表されます。八ッ場ダムには首都圏の「水がめ」の役割も託された。しかし、酸性の河水、貯水容量や水没物件の問題などで計画は進まず、補償問題もこじれて反対運動が起きる。1994年に建設省は付帯工事に着手しますが、事業費の膨張、天下り先団体への事業発注、首都圏の水需要の減少、水没する川原湯温泉への対策不足など、さまざまな点からダム建設への懐疑的な意見が多かった。一方で、吾妻川流域の豪雨への備え、埼玉県の安定利水への渇望、現在も利根川流域では渇水で取水制限がたびたび発生していることなどから、ダムが必要だとする意見も根強い。そうした状況で、2009年に前原誠司国土交通大臣は、マニフェストどおりに「事業中止」と明言し、地元住民や関係者から反発を受ける。次の馬淵澄夫国交相は、政府方針を撤回して「検証」を進めると表明。その次の前田武志国交相が建設再開の決意表明する、と。こうなったわけです。

高橋 - 前原さんは国土交通大臣に就任した日に中止と言いましたね。その前に現場には行かれたのかもしれませんが、マニフェストに書いたとはいえ、唐突でした。最後は、前田さんが現場で頭を下げたりしておられます。彼は、元建設省の官僚ですね。建設方針の二転、三転は、水没予定集落の人たちには、とても気の毒ですね。水没集落は、ダムができると聞けば、まず反対です。招かざる客はお断り。でも、その後、建設省なり、電力会社なりが10年、20年かけて説得して、条件付き賛成になっていく。移転をして、生活も変わる。その水没予定地域の公共事業は止まるんです。道路も、橋も、傷みます。住宅が壊れかけても修繕しない。いずれ水底に沈むのですからね。そうして何十年か経って、突然、工事ストップ。八ッ場ダムの場合は、親子孫三代、60年以上振りまわされているわけです。水没予定者は、一生を棒に振りかねない。それが三代続いた。

山岡 - 八ッ場ダムの是非自体はいかがですか。

高橋 - 反対派は、カスリーン台風のときにも吾妻川にはあまり雨が降っていないと言います。それは事実です。八ッ場ダムがあっても、吾妻川に雨が降らないのだから、いらない、と言う。あの川は、ここ50年間、豪雨は少ない。しかし、台風の進路如何でどうなるかわかりません。年々、台風は大型化していますし、もの凄い集中豪雨が発生している。海水温が上がったせいか、台風の進路は変わっている。上陸したら自転車並のゆっくりした速度で長期間、雨を降らせています。行政はどうする、と言われれば、吾妻川にも治水ダムがほしい、となるでしょう。八ッ場ダムは、工事を止めるほうがお金もかかります。

■老朽ダム再生、ふたつの視点「目的変更」と「若返り」

山岡 - 戦後の経済成長を、まさに縁の下の力持ちとなって支えたダムが、古くなり、さまざまな問題を抱えています。今後、老いたダムにどう向き合えばいいのでしょう。

高橋 - 20~30年先の課題と、百年単位の課題を分けますと、前者は「ダムの目的を変えること」。後者は「ダムの若返り」です。ダムのメンテナンスについては、利水者がお金を負担しています。利水者は地方自治体や電力会社などいろいろですが、日本の財政が厳しい折に補修資金を出すのは容易ではない。そこでダムの利用目的を変える。たとえば水資源機構は、その名のとおり、上水道や工業用水などの水資源を確保するためのダムを多く所有していますが、それを利水だけでなく、治水の安全性のほうへ一部目的変更する手もある。もっとも利水者はダムを建造する際に費用を負担していますから、補償をしなくてはいけない。そのお金をどうひねり出すか。財政的な厳しさはつきまといます。
 ダムの若返りとは、川床に溜まった土砂を浚渫して、どこかへ運び出すこと。土砂が溜まるほど洪水調節や利水の容量が減るわけですから、それを掘り出す。問題はやはり費用。佐久間ダムに関しては、管理する電源開発(株)と国交省が話し合っているようです。浚渫した土砂は、ダンプで下流へ運べばいいと思うかもしれませんが、膨大な量の土砂を運搬したらダンプ公害で大変なことになる。峡谷に造られたダムは、浚渫した土砂を置く場所もない。浸食されている河口へ持って行くのは正論だけれど、非常にお金がかかる。

山岡 - いま議論されている「ナショナル・レジリエンス(国土強靭化)」のプランのなかでダムの若返りなどもメニューに加わりそうでしょうか。

高橋 - そうなればいいですけどね。橋やトンネルは、待ったなしかもしれませんが、将来起きる大水害を想えば、いまダムの補修や土砂の浚渫に資金を投じたほうが、長期的にはよほど安上がりだと思います。

山岡 - 手をつけるべきダムの優先順位はついていますか。

高橋 - 決まっていませんね。どれもこれも危ない。佐久間ダムだけではないです。議論はしているのかもしれませんが、私は知らない。日本中に高さ15メートルを超えるダムは約3,000あるんです。その四分の一くらいは明治以前の農業用ですが、戦後、造ったダムは例外なく土砂が溜まって、困っています。

山岡 - 公共事業をどうするかは、政治の影響力が大きいです。

高橋 - 一般の人に、もう少し、公共事業の本質を理解してほしい。メディアに振りまわされるのではなく……。そのためには土木界自体が、都合のいい情報ばかりでなく、正確な情報を伝えなくてはいけません。そういう努力が足りない。何か言われたら、その場しのぎの反論はするけれど、公共事業のあるべき姿、正論を育てることが、私たちの役目だと思います。
(写真撮影・永田まさお)

2013年6月15日土曜日

第3回 東京大学名誉教授 高橋裕さん(前編)

対談日:2013年3月26日  於:土木学会会議室
(写真撮影・永田まさお)

東京大学名誉教授 高橋裕さん
高橋 裕さん プロフィール
 1927年1月28日生(静岡県)。東京大学第二工学部土木工学科卒業(1950年)、フランスグルノーブル大学留学を経て、1968年東京大学教授、1987年芝浦工業大学教授、東京大学名誉教授。土木学会誌編集委員会委員長、土木史研究委員会委員長、出版文化賞選考委員会委員長など土木学会での活躍の他、1990年ユネスコIHP政府間理事会副議長、1992年河川審議会委員、1996年世界水会議(WWC)理事、2001年国際水資源学会(IWRA)副会長、国際連合大学上席学術顧問を歴任。専門分野は河川工学、水文学、土木史。
 主な著書に『日本土木技術の歴史』(1960)、『国土の変貌と水害』(1971)、『都市と水』(1988)、『河川工学』(1990,2008)、『日本の川』(1995)、『地球の水が危ない』(2003)、『現代日本土木史』(2007)、『社会を映す川』(2008)など多数。

■日本版TVAからスタートした戦後のダム開発

山岡- 日本列島は、平地は狭く、地形は急峻で川の流れは速い。風水害に地震、津波と災害が頻発し、古来、治山治水は国づくりの要諦とされてきました。今日は河川とダムを中心に、戦後の治水や水力電源開発の「根底にあるもの」を、ぜひ、お教えいただきたい。

高橋- 敗戦後の1945~59年の15年間は日本の歴史のなかでも、最も悲惨な水害が続いた時期です。ほぼ毎年、千人以上が亡くなっており、1959年の伊勢湾台風では5000人以上の死者が出ています。政府にとって、治水対策は極めて重要でした。しかし、治水事業には限界があります。本当は川幅を広げて堤防を高くすればいいのですが、下流域では土地問題が横たわっていて、拡張できません。都市のなかでは川幅を広げられない。戦後、ダム技術の先進国だったアメリカからダム建設を薦められたのです。上流でダムに水を溜めて、流量をコントロールして洪水を緩和しようというわけです。

山岡- 1947年に経済安定本部が戦争で中断していた河水統制事業を復活、促進させるための協議会を設置し、利根川など24河川の調査を開始しています。農林省(現・農林水産省)も大井川など4河川で水利事業を始め、翌年、建設省が発足して河川行政の主務官庁になっています。ダム造りは戦前の内務省から建設省へ引き継がれたのですね。

高橋- ええ。ダム技術は大正時代から進んできたのですが、アメリカでは1936年竣工のフーバーダムをきっかけにダム技術が革新されました。大量の電力供給が可能になり、砂漠のなかにラスベガスの街ができた。戦後の日本は、あれほど大規模なダムではないけれども、ニューディール政策のTVA(テネシー川流域開発公社)の開発事業をモデルに河川開発に乗りだします。TVAの特徴は、治水だけでなく、灌漑、水力発電と多目的なダムを20以上も造ったことです。それを真似て、利根川のT、只見川のT、と日本版TVAを標榜して、多目的ダムを数多く造り、ワンマンコントロールする方式が採用されました。

山岡- アメリカ中心の連合国軍は、戦後、約7年日本を占領したわけですが、当初は「ハード・ピース」路線で厳しい占領政策が採られました。が、東西の冷戦構造がはっきりし、日本は「防共の防波堤」「アジアの工場」と位置づけられます。占領政策も逆コースの「ソフト・ピース」へと転換され、朝鮮戦争を機に経済発展を遂げた。当時、土木事業に携わった方々は、占領を仕切るGHQとどう向き合ったのでしょうか。

高橋- GHQが背後にいたからこそ、アメリカのダム技術が全面的に受け入れられたのは間違いありません。ただ、間接的な話ですが、占領期は「情けないもんだ」とコンクリートの父と呼ばれる吉田徳次郎教授がこぼしていた、と直弟子の先生から聞いたことがあります。奥多摩の小河内ダムは、戦中に労力も資材もなく工事を中断していたのですが、戦後、工事を再開しました。そのコンクリート技術を指導したのが、東大の吉田教授です。細かい配分から施工方法まで指導しました。ところが、占領期ゆえ、配合も施工も一々GHQの許可を得なくてはならなかった。GHQの技術者より、吉田教授のほうがよほど世界的に知られた学者なのだけれど、向こうは「権力」を持っていますからね。全部、許可が必要だったそうです。それで、吉田教授は「占領というものは、情けないもんだ」と言っておられた、と……。


■金字塔「佐久間ダム」に託した司馬遼太郎のメッセージ

山岡- なるほど。実感がこもっていますね。占領末期の1951年に「国土総合開発法」、翌年「電源開発促進法」が施行されます。ちなみに田中角栄は、両方とも立案に深く関わっています。電源開発促進法では、議員立法の提出者に名を連ねていますが、このあたりから河川開発が本格化したと考えていいでしょうか。

高橋- そうですね。終戦直後は、災害対策中心だったが、日本を貿易立国に立て直すには工業化のエネルギーが必要になる。そのころ、原子力は実用化されていないし、火力の効率も悪かった。水力発電が頼みの綱でした。遡れば、日本のダム式水力発電所の第一号は、1924年に岐阜県の木曽川中流部に建設された大井ダムです。高さが53.4mで初めて50mを超えたダムでもあります。「電力王」と呼ばれた福沢桃介が建設に努力しました。

山岡- 福沢桃介は福沢諭吉が娘の婿養子に迎えた人物ですね。相場で得た資金をもとに電力事業を始めています。「電力の鬼」といわれた松永安左ェ門の兄貴分でした。

高橋- 桃介はね、能力のある人だったけど諭吉はどうも気に入らなかったようですね。

山岡- まぁ、晩年には、妻がありながら、平気で女優の川上貞奴と同居生活を送るような人ですからねぇ。養父の福沢は、早くから気づいていたのかもしれません(笑)。

高橋- その福沢桃介が大井ダムを造ったあと、いくつか電力力ダムはできますが、大規模なものは戦後になります。松永安左ェ門や松前重義が奮闘して電源開発株式会社(現・Jパワー)が創設され、TVAを真似た開発が進みます。そして1956年、電力ダムの金字塔、佐久間ダムが完成しました。それまで日本に高さ100mを超すダムはなかったのに、一気に155.5mです。世界中を驚かせた。工事期間中にも、一日のコンクリート打ち込み量5,180m3で世界記録を更新した。35万KWという発電力も飛びぬけていました。高度成長の礎を築いたダムといっていいでしょう。

山岡- いきなり世界レベルのダムを可能にしたものは、何だったのでしょうか。

高橋- それは、大型土木機械を導入したことに尽きます。パワーショベル、ブルドーザーとか、ダンプトラックとか、それまで日本は使ったことがありませんでした。全部、アメリカから輸入した機械です。佐久間ダムの建設所長だった永田年(すすむ)の大英断で、世界銀行から借款を受けて、大型土木機械をすべて輸入したんです。

山岡- もしも、従来の人海戦術だったら、佐久間ダムはいつ頃完成したでしょう。

高橋- 何年かけても、できません。ひと冬すごす間、天竜川を堰止めなきゃならん。暴れ天竜は大洪水が起きる。洪水がきたら工事はできない。秋から春先の間につくらなきゃいけない。そんな短い期間にできる技術はありませんでした。人海戦術のような無謀なことはできません。つまり、1950年頃まで天竜川にダムはできない、と言われていた。大型土木機械が、その壁を突破した。佐久間ダムの次に、下流の秋葉ダムの建設に大型機械が流用されて威力を発揮する。それ以来新幹線、高速道路、地下鉄、ニュータウン建設とありとあらゆる公共工事で、大型土木機械が一斉に使われるようになったのです。

山岡- 佐久間ダムの建設は、日本の土木工事の母体になったのですね。

高橋- そうです。永田年は、北海道電力から電源開発にスカウトされたのですが、噂では、北電の退職金を、すべてアメリカの土木施工に関する原書の購入に注ぎ込んだといわれるくらい研究熱心でした。

山岡- 大型土木機械の効用を、事前に永田はしっかり把握していたわけですね。

高橋- 余談になるけど、土木学会60周年記念の学会誌(1975年1月号)上で司馬遼太郎さんと対談しました際、佐久間ダムの話をしたら、司馬さんは『日本土木技術者は初めて奴隷を使うことができましたね』とおっしゃった。古来、チグリス・ユーフラテスの河川工事でも、ピラミッドや万里の長城の建設でも、権力者は奴隷を大勢使って実現させた。日本は、戦争をして奴隷を連れてくる歴史を持たなかったと司馬さんは言った。で、佐久間ダムで初めて奴隷、つまりアメリカ直輸入の大型土木機械を使って、大土木工事が完成した、と言うわけです。

山岡- 司馬さんらしいダイナミックな比喩ですね。

高橋- ただ、そこで話は終わらない。司馬さんは『日本は奴隷を使って有頂天になった。いまは土木の黄金時代かもしれないが、いずれ揺り戻しがくる』と言われた。先見の明です。

山岡- うーむ。1974年の対談ですよね。第一次石油ショックがあったとはいえ、高度成長の軌道で開発まっしぐらの時代でしょ。さすがに司馬さん、社会の趨勢を見通している。

■哲学を忘れた開発―1964年夏、東京五輪直前の渇水

高橋- 日本は、海外からいろんな技術を採り入れましたが、とかく形だけ真似して精神を置き忘れてしまう。哲学を学ばない。TVAを真似して、多目的ダムをたくさん造った。でも、精神は忘れている。電気さえつくればいい、で終わっています。司馬さんは、そこを指摘したのです。

山岡- では、TVAの精神とは、ズバリ、何でしょう。

高橋- ニューディール政策は、アメリカ経済の蘇生が目的です。その一環であるTVA開発は、公共事業を行う場所の地域開発ができてこそ、成功と考えています。確かにダムは下流のためのもの。洪水調節でも、発電でも、下流の人びとの暮らしに直結する。しかし、TVAは下流を豊かにするだけでなく、水源の地域開発にも成功した。一方日本のダムが造られる上流地域は、だいたい衰退している。水源地対策を、ずっと疎かにしてきました。

山岡- ダム建設で湖の底に村が沈もうが、補償すればいい、と「その後」を軽視した、と。

高橋- アメリカの農務省の管轄下で、「4Hクラブ」という農村青少年運動があります。4Hとは、Head(頭)、Heart(心)、Hand(手)、Health(健康)の4つの頭文字です。1916年に始まった農村振興運動ですが、それが花開いたのがTVAでした。ダム建設による水没地域で農業や林業に従事する若者を、どうやって救うか、と大きな運動が展開されました。日本の総合開発では、こういう哲学は無視された。むしろ明治、大正期のほうが技術の底に流れる精神は大切にされたと思います。

山岡- 土木の世界に共通する公共、パブリックの観念は、なぜ弱くなったのでしょうか。

高橋- 戦前、戦中と忠君愛国、国のため、公のためという意識が強すぎた。その反動で戦後は私権が膨張しすぎたのかもしれないですねぇ。もっとも、高度成長期から都市化が急速に進み、田中角栄の時代は、都市に人口が集中し、公害、交通渋滞、水不足、次々と発生する都市問題をどうするかが緊急課題でした。

山岡- 都市への人口集中で産業構造も大きく変わるなか、地方の水源地は「過疎」のレッテルを張られ、人びとの関心の外へと追いやられる。確かに都市問題は、深刻でした。

高橋- たとえば、東京五輪が開かれた1964年、あの年、東京は深刻な水不足でした。当時、東京の水甕は、多摩川の小河内ダムでしたが、1959年の伊勢湾台風以降、多摩川の上流に台風が来なくなった。おまけにカラ梅雨が続き、小河内ダムの水位がどんどん下がった。そのダム湖である奥多摩湖は満杯で1億8000万トンですが、8月に300万トンを切った。

山岡- ええッ、貯水率が2%を下回ったのですか。五輪の開幕は10月の予定でしたね。

高橋- オリンピック担当大臣は、河野一郎でした。河野洋平の父で、太郎のお祖父さん。建設大臣や農林大臣も歴任した実力者です。私は、東京新聞で河野さんと対談しました。テーマは東京の水問題です。いやー、河野さんは威勢のいい人だから、東京の水問題は解決する、と胸を張ってね、荒川と利根川をつなぐ武蔵水路を、突貫工事でやらせていました。でも、すぐには解決しなかった(笑)。それができたのは、翌年の3月で、ひと月やふた月では無理です。

山岡- 五輪本番まで、2か月もなくて、いったい、どうするんですか(笑)。

高橋- それが、何とか間に合った。猛烈な水不足は7月から8月20日まで。8月20日に雨が降ったんです。それで以後、例年どおりの雨が降って、五輪本番頃には十分、水も確保できました。しかし、8月20日までは大変でした。五輪の水泳競技をどうするかが大問題だった。水がなければ、水泳できない(笑)。でも水泳を中止するわけにはいきません。どこから水を持ってくるか。私も、政府の水対策の相談役で、横浜から持ってこようとか、あれこれ議論をしたんです。東洋で最初の五輪で、水泳ができなくては大変なことになりますからね。そのときに河野一郎さんが頑張った。

■大物政治家がしのぎを削った高度成長期

山岡- 河野一郎は、どんな政治家でしたか。実際に対談されて。

高橋- 田中角栄よりも評価が分かれますね。実行力はあります。思い切った手を打つ。でも強く反発する人もいました。河野さんは建設大臣時代に地方整備局の局長の半分を法学部出身に変えました。それまで全員、技術者でしたが、技術屋に事務はうまくできないだろうとの判断もあり、半分を法科出にした。建設省は、河野さんが辞めてから懸命に元に戻しましたが、たしか5、6年かかった。それから、建設省河川局の河川計画課長と、農水省の技術課長を入れ替える人事も断行している。要するに建設省と農水省は、昔から仲がいいとはいえないから、両省の課長を交換してコミュニケーションを深めろ、と考えたようです。

山岡- アイデアは面白いけれど、そう簡単にはいかないでしょうね。

高橋- どちらの課長も、行った先の部下が十分には従わず、浮いていました。気の毒でした。官僚は愛省精神が強いですからね。河野さんは政治力があり、正しいこと、立派なこともやりました。でも、役所いじりは難しい。下手をすると役人がそっぽを向いてしまう。

山岡- 河野一郎や池田勇人、佐藤栄作といった大物政治家がしのぎを削った1960年代は、高度成長の真っただ中でした。成長期は、良くも悪くも、物事が大きく動きます。公共事業をめぐる政官財の癒着構造が顕在化したのも、あの時代でした。小説家の石川達三が、九頭竜ダム建設の入札汚職を題材にした『金環蝕』(新潮社)を発表したのは1966年です。歴史の一頁として、どう振り返られますか。

高橋- 関係者の方に、石川達三の小説は、どのくらい本当ですか、と訊いたことがあります。そうしたら、八割くらい本当だ、と返答されました。そういう時代でしたね。

山岡- 「金環蝕」は、京マチ子や仲代達也、宇野重吉らの出演で映画化もされましたが、ダム建設で水底に沈む鉱山会社、日本産銅の元社長の緒方克行も『権力の陰謀』(現代史出版会)というノンフィクションを書いています。こちらも資料としての価値は高い。

高橋- ダム建設では、しばしば鉱山が沈みます。それで問題が起きる。政治家と業界、官僚の話は、作家やジャーナリストにとっては興味深いでしょうね。若干、歪めて、社会の暗い面、縮図を描く。ダムは、そういうものに巻き込まれやすい。石川達三は、小河内ダムについても、1937年に『日蔭の村』(新潮社)という小説で書いています。故郷が沈む人びとの悲哀ですね。小河内ダムは、ダム建設で沈んだ家屋、地域の人口が一番多い。しかも、戦前だから、有無も言わせず、強権的に事業が推し進められた。ダム建設は、『金環蝕』のような事件も起こす一方で、水没集落を分断し、水没地域の住民どうしを反目させるケースも少なくない。補償金の額をめぐって、とか……。

山岡- 故郷が水に沈むということ自体が、社会的には大きな事件です。

高橋- だから、TVAでは、それを見越してダムさえ造ればいいというのではなく、農業や林業を続けて地元が栄えるように、手を尽くしている。そこにこそ、くり返しますが、公共事業の哲学があります。
(後編へつづく)