2013年7月31日水曜日

第6回 元本四公団総裁 山根孟さん(後編)


■東条英機に却下された高速道路計画

山岡 今回は、高速道路行政について、お聞きしたいと思います。高速道路の建設も1990年代以降、無駄な公共事業と批判されてきましたが、なぜ、どのように高速道路が造られるようになったのか、一般にはあまり知られていません。批判をするにしても、来歴を知ることは大切だと思います。日本では、1962年の首都高速1号線(京橋~浜崎橋JCT)の部分的開通を皮切りに、63年の名神高速(栗東IC~尼崎IC)、68年の東名高速(東京IC~厚木IC、富士IC~静岡IC、岡崎IC~小牧IC)、中央自動車道(八王子IC~相模湖IC)……と経済の高度成長に合わせて、どんどん延びていきます。
 そもそも、高速道路の構想は、戦前まで遡るのですね?

山根 はい。高速道路建設の基礎調査が初めて、正式に行なわれたのは1940(昭和15)年~1942(昭和17)年です。当時の内務省土木局が「重要道路整備調査」の一環として行なっています。民間でも同じ年に「東京~下関間幹線道路建設促進同盟」が誕生し、「弾丸道路」という呼び名で高速道路への関心が高まりました。当時、ドイツでヒトラーが進めていたアウトバーンの高速道路網建設に刺激されたのです。陸上輸送力の強化は戦時体制では不可欠と考えられていました。1942年には大東亜道路会議が東京で開かれ、日本本土から朝鮮半島、中国、タイ、ビルマ(現ミャンマー)東南アジア諸国を経てヨーロッパの道路網につなげる夢の構想が示されています。現代のアジアハイウェー構想ですね。

山岡 政治を牛耳っていた軍部は、高速道路の建設に前向きだったのでしょうか。

山根 それにはエピソードがあります。内務省土木局は、「全国自動車国道網計画(5,490km)」をまとめます。その最優先区間として東京~神戸をあげ、このうち名古屋から神戸間を緊急区間として実施計画を策定しております。名古屋~大阪間は「木津川ルート」(いわゆる名阪国道)の計画です。この名古屋~神戸間の高速道路建設費を2億円と概算し、予算要求を行なうことになりました。
それで、内務省の省議に予算案を提出した。当時の内務大臣は陸軍出身の東条英機です。東条大臣は、その案をひと目見るなり、「土木局は気が狂ったのか」と、差し戻したそうです。戦争遂行には莫大な国費がかかるのに、何を考えているのか、狂気の沙汰だ、との思いからでしょう。当時、東京と神戸の間の国道でさえ、自動車のすれ違いが困難な区間が多く、トラック輸送などの面で高速道路のニーズは高かったのですが……。戦局が悪化した1944年には、国鉄の新幹線計画と同時に高速道路調査も打ち切られました。

■ワトキンス調査団の秘話―政治家秘書の胆力

山岡 戦争は、つくづく国を破壊するものだと思いますね。終戦直後は、戦争中に手がつけられなかった国道の改修で手いっぱいだったと前回の対談でお聞きしました。高速道路建設が動きだすのは、やはりサンフランシスコ講和条約が発効し(1952年)、日本の主権が回復してからでしょうね。

山根 『高速道路と自動車』(現在の公益財団法人高速道路調査会発行の月刊誌)という雑誌で、「ワトキンス調査団報告45周年記念座談会」(2001年2,3月号)が行なわれ、そこで戦後の高速道路建設の始まりについて、興味深い話が開陳されています。1952年に、電源開発の高碕達之助総裁が、大学の研究者だった川本稔さんという方を秘書に登用し、吉田茂総理がヨーロッパ経由でアメリカへ行くのに同行せよと命じます。吉田総理は、東京から神戸まで高速道路をつくることに非常に熱心で、これまでにもドイツのアウトバーンやアメリカの高速道路を視察したりしていましたが、この時には資金面のメドをつけようとしていたようです。

山岡 高碕達之助は、水産技師から会社経営者、政治家に転身した人ですね。戦中は、満洲重工業総裁を務めました。日産コンツェルンの鮎川義介とも親しい。いわゆる満洲閥の人材で、電源開発総裁として佐久間ダムの建設にも尽力しています。戦後の道路や電源開発などの公共事業は、満洲閥の力で進められていますね。

山根 ええ、満洲で試みられた手法が、戦後の国づくりの実践に活かされた面はあるでしょう。高碕総裁の秘書となった川本さんは、もともと土木とは縁のない方でした。建設省の職員から2週間、昼夜兼行で道路に関するレクチャーを受け、米軍に掛け合って日本列島の立体地図を入手し、そこに高速道路のルートを全部描き入れて、吉田首相と一緒にアメリカへ渡ります。その後の顛末がおもしろい。座談会から川本氏の発言を引用しましょう。
 川本「吉田総理の考えは、当時、余剰農産物資が日本にどんどん入り、その資金である円がかなり溜まっているので、それを使わせてもらう交渉をしようということだったんです。しかし、ワシントンに乗り込んだところ、私の出番どころか初めからそれは潰されまして、吉田さんが私に、『残念だったけれども、ウォール・ストリートの法律事務所に君を預けるから、トールロード(Toll Road有料道路)のボンド(起債)を勉強してくれ』ということでニューヨークに私は預けられました(略)。  ……資金の問題でワールド・バンク(世界銀行)に行き、ミスター・ドールという日本の担当者に会い、『日本は道路をつくりたいんだ、金を貸してくれ』と言ったら、『ノー、日本は道路なんかいらない。日本はインシュラ・カントリー(島国)だから、マーチャント・マリーン(海運力)をもっと発展させろ、それが一番早道だ』という答えが返ってきました。私は『しかし、日本政府はどうしても道路が欲しいと言っているんだ。私は場合によってはアメリカの一流の専門家を日本へ連れて行くけれども、レポートを書いたら見てくれるか』と申したところ、『必ずしも金を貸すというわけにはいかんが、レポートはいつでも見てやる』と言われました。『ああそうか』ということで、私はワトキンスさんに頼んで、人選をしていただいたわけです」
山岡 なるほど、そこから「ワトキンス調査団」が編成され、あの有名な書きだし、「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」で始まるレポートができるのですね。レポートを契機に道路づくりが始まります。それにしても、川本氏の世銀相手の粘り強い交渉力には感服します。私は、最近『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社,2013.6)という評伝を出版したのですが、体を張って復興に挑んだ人たちに共通するのは崖っぷちでの胆力。彼らには長期的な先見性がありました。だから力が発揮できた。豊かで、平和な現在も、じつは、そのような先見性が求められていますが、短期的な価値観だけで動きがちです。

山根 国土づくりは、本来、長期的な視点で取り組まねば成功しませんよ。

■東海道と中央道を巡る大論争の始まり

山岡 さて、日本を調査したワトキンスは名神高速道路の経済的・技術的妥当性をまとめた報告書を提出、1956年8月帰国します。そこには「東京から名古屋までの中央道案は東海道案の代替案ではなく、経済開発のために望ましいもうひとつの計画である」としています。東名が先か、中央が先かで、政治を巻き込んだ大論争へと発展しますね。中央道と東海道の先陣争いです。

山根 中央道の大の推進者は、青木一男先生です。発端は1955年に議員立法として国会に提出された「国土開発縦貫自動車道建設法」でした。海岸線を走る道路ではなく、日本の内陸部を縦に背骨のように貫く高速道路を建設するための法律です。青木先生は、この立法に財政の専門家として関わられました。

山岡 青木さんは、大蔵官僚出身で、戦前から戦中にかけて大蔵大臣、大東亜大臣を歴任し、戦後、A級戦犯容疑で収容、釈放されてからは、参議院議員として政界で活躍された人ですね。お孫さんが民主党の参議院議員だった小宮山洋子さん。

山根 青木先生の見解は「わが国の産業、人口は特定の地域に集中しすぎている。交通の便をよくすることによって、今まで遅れている地方を開発し,人口の分散を図ることが国策の基本である」、「高速道路建設は自力でできる。お互いに働いて貯蓄し、それで高速道路を建設して子孫に残すべきである」という論旨です。

山岡 ああ、郵便貯金を使った財政投融資の発想ですね。財投は、明治に郵便貯金制度ができて間もなく始まった。その後、大蔵省資金運用部が担当しています。


■名神高速道路の着工と中央道・東海道論争の激化

山根 ワトキンス調査団の来日に先立ち、1956年4月、高速道路の建設・管理を担う日本道路公団が発足しております。57年4月には、国土開発縦貫自動車道建設法、高速自動車国道法が成立、公布されました。翌5月、国土開発幹線縦貫自動車道建設審議会が開催、名神高速道路の審議が進められ、10月15日、その整備計画が決定されました。これにより、名神高速道路の施行命令が発せられ、建設が始まることになりました。これには世銀借款が導入されます。
 これを機に、中央道・東海道論争が激化します。東海道を優先すべきだとの猛烈な運動に対し、青木先生は、東京・山梨・長野・岐阜の各知事、議長などの関係者を糾合して建設推進委員会の委員長に就任し、政治の舵取りをします。自民党内でも東海道派と中央道派に分裂、深刻な事態になりました。たまりかねた村上勇建設大臣が、「どうか中央道側で譲歩して東海道案も認めてもらいたい。中央道については、政府と自民党で建設促進の保証を与える」と青木先生に申し入れます。それで折れて、東海道案を認めることとなりました。
 1960年7月、中央自動車道の路線を定める法律(東京~小牧間)と東海道幹線自動車国道建設法の両法の制定となり、62年5月、中央自動車道の東京富士吉田間と東名高速道路の東京~静岡間の施行命令となります。63年10月には、東名高速道路の施行命令は全線にわたりました。

山岡 本四連絡橋のルート争いに似た対立ですね。

山根 中央道、東海道、両方の高速道路の同時着工が正式に認められ、いざ予算の配分。ここに至って、こんどは大蔵省と経済企画庁の事務当局が中央道着工反対の方針に固執します。東海道を先に通して、経済発展の果実をもぎ取りたいわけです。『道を拓く』という本に、青木先生がその顛末を寄稿しておられます。政府が東海道を先にして、中央道を後回しにするなら、重大な決心がある、と大平正芳官房長官と前尾繁三郎幹事長に対して、次のようにおっしゃいました。  
青木「この期に及んでも東海道の建設費だけが先に決まって、中央道はあと回しになるということになるならば、自分は何の面目があって各県の諸君にまみえるのか。自分は当然責任をとるつもりである。しかし、その前に自民党と政府がいかに信用のおけないものであるかを天下に表明し、その上で自分の進退を決するが承知されたい」

山岡 ハッタリではなさそうですね。

山根 大平官房長官も前尾幹事長も大蔵省では、青木先生の後輩ですから、青木先生の有言実行の性格はよく知っています。そこから政府、自民党とも中央道を放置するわけにはいかなくなり、建設予算がついたんです。

■中央自動車道は、なぜ諏訪経由になったか? 青木一男の決断

山岡 中央道には政治の場での闘いが反映されていますねぇ。当時のマスコミの論調を見てみますと、中央道には批判的です。1959年12月29日付の読売新聞は「再考を要する中央高速道路」と題して、次のように論説しています。
「(建設省がまとめた中央道路線についての)報告書の結論としては、山岳道路につきものの豪雨、降雪、凍結、霧など気象的な悪条件の重なりと、勾配区間やトンネルが多いことから走行速度が制限されるため、高速道路としては不適である点をまず指摘している。さらに全長二九五キロのうち五割までがトンネル、橋梁などの構造物で占められているため、建設費は三二〇〇億円の巨額に達し、(中略)有料道路として非採算的であると結んでいる。この報告で明らかにされるまでもなく、中央道については、かなりの疑点がある」

山根 当初の中央道の計画は、富士吉田から身延町を経由して、飯田市に至ることになっていました。南アルプスを貫くわけです。この間に全長8,058mの赤石トンネルはじめ大小多数のトンネルがありました。世界一金のかかる道路建設になりそうでした。青木先生も、そのことは承知のうえで東海道との同時着工にこぎ着けた。
 しかし、その後、ご自身が欧州へ視察に行き、フランスとイタリアを結ぶモンブラン・トンネル(全長12,000m)の建設現場に赴き、大規模で困難な工事を目の当たりにして、建設省や道路公団の反対論にも理由があることを痛感します。帰国すると、従来の赤石山脈をぶち抜く案を変更し、諏訪地方を経由するルートに改めると提案したのです。

山岡 ははぁ。それで諏訪経由に変わるわけですか。一説には、青木氏が長野出身なので“我田引道”とばかり、自分に都合のいいように変えたとも言われていましたが……。

山根 いや、違いますね。赤石山脈を迂回するために諏訪経由にしたのです。

山岡 建設省は手を叩いて喜んだでしょうが、急に予定していた高速道路が通らなくなった身延町とか下部町、長野県下伊那郡の町村などは、話が違う、と大反対したでしょう。

山根 そこから、また青木先生が、政治力を発揮して関係各団体を説得して回られました。ルートから外れた自治体には県が道路整備を重点的に行なうとか、手当ても用意されました。

■高速道路の全国展開へ

山岡 名神、東名、中央の次のステップは?

山根 1963年7月関越自動車道建設法、以後、東海北陸、九州横断、中国横断と自動車道建設法の立法が相次ぎ、国土開発縦貫、東海道幹線をあわせ、6建設法により、13路線、約5,000kmが定められました。建設省はこれらを包含し、全国にわたる自動車道路網32路線7,600kmを策定、国土開発幹線自動車道建設法を提案、1966年7月公布に至りました。同年同月には、中央道の甲府~小牧間、東北縦貫道の岩槻~仙台間、中国縦貫道の吹田~落合間、美祢~下関間、九州縦貫道の粕屋~託麻間、北陸道の富山~武生間の整備計画が決定、施行命令が発せられ、高速道路の建設は全国にわたります。
  青木先生は高速道路建設に全精力を注ぎ込んでおられた。私は、1972年から76年にかけて、3年7カ月、高速国道課長を務めさせていただきましたが、その間、たびたび青木先生を現場にご案内しました。随分、勉強をさせていただきました。先生にある原稿を見ていただく機会があって、「国土の秩序ある有効利用」のフレーズには、首を傾げられて「国土の全面的な有効利用」と訂正していただきました。

山岡 秩序では都市優先の序列がつくけれど、全面的とすれば地方も開発できる、というわけですね。

■エンジニアの役割は「コンクリートに血を通わせる」こと

山岡 戦前の「弾丸道路」の構想が東名、名神高速に結実し、旧中央道の赤石トンネル貫通プランも、リニア中央新幹線に引き継がれます。世紀を超えて交通体系は継承されているわけですが、その交通インフラの老朽化に、どう対応したものでしょうか。

山根 憂慮されるのは橋梁です。1980年代に『荒廃するアメリカ』という本が出て、アメリカのインフラ老朽化問題が浮上しました。上司から、「アメリカを視察してこい」、と命じられ、専門の連中と渡米しました。一番感心したのは、全米にわたり経年的に橋梁を点検・分析しており、連邦議会に報告していることでした。道路庁に行くと、一課の課長がコンピュータで小さな橋から、大きなハイウェイにかかった橋まで、徹底的に分析してレポートを作っていた。今年の2月、オバマ大統領は一般教書演説の中で、全米で7万もの橋梁が老朽化していることを例に挙げながら、「まず修繕を」と訴えております。
 日本では、まず点検・分析の徹底、さらに診断、保全・長寿命化計画の策定と実施が緊要です。橋梁台帳のない都道府県もあり、市町村になればもっと管理は遅れている。

山岡 最近は定点カメラで橋の状況をモニタリングする技術などもできていますね。

山根 チェックできる技術者が足りなければ、それなりの工夫をしなくてはいけません。「コンクリートから人へ」と公共事業は目の敵にされましたが、エンジニアの役割は、「コンクリートに血を通わせる」こと。そこは、時代の移ろいに関係なく、不変だと思います。

(写真撮影・永田まさお)



参考
昭和38年(1963) 6月栗東~尼崎間 71.1km供用開始
7月関越自動車道建設法 公布
9月地域経済問題調査会答申:社会資本A,B,C
11月国土建設の長期構想,道路整備の長期構想
「拠点都市の育成,交通需要の交通需要の激増に対処し,幹線自動車道路網を設定して整備を促進する(イタリア方式),都道府県道以下は未改良であっても 交通量の少ない道路は現道のまま舗装(イギリス方式)を含め,10ヶ年で舗装する,目標年次(昭和55年度)に交通量が交通容量を越える区間については改築,再改築を行う」ことを骨子としている。
昭和39年(1964) 6月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
東北自動車道,中国自動車道,九州自動車道および北陸自動車道の予定路線を定め,中央自動車道の予定路線を変更(諏訪回りに)
7月東海北陸自動車道建設法 公布
昭和40年(1965) 1月中期経済計画 閣議決定
第四次道路整備五箇年計画 閣議決定
5月九州横断自動車道建設法 公布
6月中国横断自動車道建設法 公布
7月名神高速道路全通
昭和41年(1966)7月国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正
名称を「国土開発幹線自動車道建設法」と改称     
7,600kmのネットワーク
昭和41年(1966)7月いわゆる縦貫5道1次区間の施工命令
中央道の甲府~小牧間,東北縦貫道の岩槻~仙台間,中国縦貫の吹田~落合間、美祢~下関間,九州縦貫道の粕屋~託麻間,北陸道の富山~武生間の整備計画が決定,施行命令が発せられた。

<国土開発幹線自動車道路網-高規格幹線道路網設定までの経緯>
  • 昭和44年(1969)5月 新全国総合開発計画
    60年度を目標年次とし,高福祉社会を目指した人間のための豊かな環境の創造を目標に,
    ①自然の恒久的な保護保存
    ②開発可能性の全国土への拡大・均衡化
    ③各地域独自の開発整備による国土利用の再編成・効率化
    ④都市,農村を通じての安全,快適で文化的な環境条件の整備・保全
    の四つの課題をあげ,目標達成の方式として,大規模開発プロジェクト構想をとった。高速道路網は新ネットワーク形成にかかるプロジェクトとして,国土の空間構造の基礎を形成し,国の地域開発政策の重要な戦略手段とされた。
  • 昭和46年(1971)3月 第6次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間中1,900km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進
  • 昭和48年(1973)2月 経済社会基本計画:
    高速自動車国道については, 国土空間の再構築のための基礎条件として,昭和60年度までに約10,000kmを整備することを目途に,計画期間(昭和48~52年度)中に既設高速道路を含め約3,100kmを供用する。
  • 昭和48年(1973)6月 第7次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期間(昭和48~52年度)中おおむね3,100km供用
  • 昭和52年(1977)11月 第3次全国総合開発計画:
    高規格幹線道路網の構想 として10,000km余,本州四国連絡ルートは,当面早期完成を図るルートとして児島・坂出ルートに道路鉄道併用橋を建設(環境影響評価を実施の上)
  • 昭和53年(1978)5月 第8次道路整備五箇年計画:
    高速自動車国道の計画期 (昭和53~57年度)中に既供用区間を含めおおむね3,500km供用を目途に縦貫5道,関越,常磐等その他の自動車道の建設促進など
  • 昭和62年(1987)6月 高規格幹線道路網の設定
    建設大臣により,国土開発幹線自動車道等7,600km,本州四国連絡道路180km,これらと接続する新たな路線6,220kmをあわせ14,000kmのネットワークが定められた。

2013年7月15日月曜日

第5回 元本四公団総裁 山根孟さん(前編) 

山根孟さんプロフィール
1928年2月20日生まれ、1950年東京大学第2工学部土木科卒、同年5月建設省入省(中国四国地方建設局岡山第一工事事務所)、1958年中国地方建設局岡山工事事務所調査設計課長、1962年道路局企画課長補佐、1970年道路局企画課道路経済調査室長、1972年道路局高速道路課長、1976年道路局企画課長、1977年中国地方建設局長、1978年道路局長、1980年本州四国連絡橋公団理事、1986年本州四国連絡橋公団総裁。この間、1963年~1964年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会上部構造に関する専門委員会幹事、1965年~1976年土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会幹事補佐、同耐震設計小委員会委員、同耐風設計小委員会委員のほか土木学会土木計画学研究委員会幹事、同委員、企画委員会委員、建設用ロボット委員会委員長などを歴任。2000年には土木学会功績賞を受賞している。
主な著書に『計画者と技術者のための交通工学 』(共訳、1976)、『道を拓く-高速道路と私』(共著、1985年)その他「土木学会誌」、「道路」、「高速道路と自動車」などの雑誌掲載記事多数。
対談日:2013年4月30日  於:土木学会会議室
(写真撮影・永田まさお)

■戦後、頻発した海難事故――本四架橋は人びとの悲願


山岡 個人的な話で恐縮ですが、私は愛媛県の松山市で生まれ、高校を出るまで過ごしました。四国の人間にとって海は親しみがあり、その恵みを享受する一方で、荒れたときの怖さは骨身に沁みています。じつは、私の伯母は幼かった従兄とともに客船の海難事故で命を落としました。私が生まれる前の話なのですが、祖母は100歳で亡くなるまで、台風が接近していたのに伯母たちを船に乗せたことをずっと悔いていた。正確な天気予報などない時代の海難事故だったのですが……。
 現在、本州と四国の間には、神戸―鳴門ルート、児島―坂出ルート(通称:瀬戸大橋)、尾道―今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道)と3ルートの橋が架かっています。財政負担の大きさや、予想を下回る交通量などから、本州と四国の間に三つも橋なんていらない、という批判をよく耳にします。マクロ的に見れば、確かにそういう面はあるでしょう。ただ、本四架橋の原点は単なる経済効果だけではなかった。生命を救う橋だったのだということを、ちょっと申し添えておきたい。感傷に浸っているのではなく、実際に戦後の復興期には船の沈没事故が次々と起きていますね。


山根 ええ、そうです。終戦の1945年11月には瀬戸内海汽船の「第十東予丸」が、定員の三倍を乗せた状態で荒天に船出し、伯方島沖で沈没し、死者・行方不明者450余名(『愛媛県史』)を出しています。間を置かず、同年12月、播淡汽船の「せきれい丸」が明石海峡で沈没して、304人が亡くなった。48年には阪神―多度津航路の関西汽船「女王丸」が牛窓沖で機雷に触れて沈み、死者・行方不明者は199名(『岡山県史』)……と、海難事故は頻発しています。
当時は、まだみんな自分が食べることに一生懸命で、事故が起きてもなかなか公共政策に対策が反映されなかった。転機は1954年9月、国鉄の青函連絡船「洞爺丸」事故です。これで1155人の方が亡くなりました。国鉄は、真剣に海を越える橋を考え始めます。そして55年5月に国鉄の宇高連絡船で「紫雲丸」の事故が起きた。視界100メートルの濃霧のなかで、四国の高松と岡山の宇野を結ぶ客船の紫雲丸と、貨物船が衝突して、修学旅行中の小中学生など、168人が犠牲になりました。この事故を受けて、瀬戸内海を安全に快適に渡りたい、橋かトンネルを、と地域の機運は高まり、同年8月に「本土淡路四国直通鉄道促進期成同盟会」(会長・徳島県知事)が結成されます。国鉄は本四連絡鉄道の調査を開始しました。ここから本四連絡橋の議論が高まっていきます。

■阪神・淡路大震災で1m延びた明石海峡大橋


山岡 山根さんは1950年に東大の土木を卒業されて、建設省に入省され、すぐに中国四国地方建設局(1958年に中国と四国に分離。現・中国地方整備局、四国地方整備局)に赴かれたのですね。どのような仕事からスタートされたのですか。


山根 公共事業は壊滅状態でした。河川、道路、港湾などをどう復興させるか、食料をどう確保するかが国策の中心課題でした。最初に上司から「土木研究所へ行って、打ち合わせて来い」と命じられました。岡山の工事事務所は、旭川と吉井川の河川改修、国道2号(旧山陽道)と30号(岡山から瀬戸内海を挟んで高松へ至る)の改修が主たる事業でした。そこに食料確保、穀倉地帯創出のために農林水産省の児島湾干拓事業が持ちあがります。湾奥を締め切って、人工の淡水湖(児島湖)をつくる計画でした。その淡水化に関わる調査です。旭川は児島水道に流れ込むものですから、湾を閉め切ると旭川の流量に影響が生じ、洪水を招くのではないか、もし洪水の危険があるのなら対策が必要ではないか、と。現代のアセスメントですね。二年くらい調査し、電算機を使って複雑な計算をしましたが、結局、影響なし。建設省は農水省に事業を進めてください、と返事をしました。


山岡 次が国道の改修ですか。


山根 そうです。国が手をつけるところは、どうしても県境付近からになりましてね。そこが一番、なおざりにされていますから。県の方々は、どうも東京へ向かう道路は一所懸命に手を入れるのですが、離れていくほうは不熱心(笑)。県境のトンネルなどは遅れがちでした。国道2号の広島県境にちかい笠岡市の金浦湾あたりは軟弱地盤で苦労しました。30号の児島湾周辺の地盤も悪かった。

山岡 地盤の議論は、あまりマスコミにも出ませんが、大切ですね。

山根 東日本大震災でも地盤の問題がありました。千葉県浦安市では、砂地盤が地震で揺すられて液状化しましたね。あの現象は1964年の新潟地震で最初に生じ、深刻な被害を与えました。信濃川左岸では液状化で県営アパートが大きく傾いて、ほとんど横倒しになった棟もありました。震源地に近い信濃川右岸では、新潟空港の滑走路が液状化に見舞われました。95年の阪神・淡路大震災では、神戸のポートアイランドの液状化がクローズアップされましたが、地盤の問題はそれだけではありません。兵庫県南部地震が起きたとき、明石海峡大橋は神戸市垂水区と淡路市岩屋の間にタワーが立てられ、ケーブルを掛け終わったところでした。これからケタを吊ろうとしていたところで、強烈な揺れに見舞われました。明石海峡大橋の基礎と基礎の間を構造線が通っていた。その結果、支柱と支柱の間が、何と1mも伸びてしまった。支柱間が1990mから1991mとなりましたが、幸いにして事なきを得て、完成したのです。地盤に応じて基礎をどうするかは、非常に大きな問題で、それを看過していると、砂上の楼閣になってしまいます。


■政治家を巻き込んだ熾烈な「ルート争い」


山岡 公共事業の基盤にかかわる技術を担っておられたのですね。そのうちに本四架橋にも自然と携われるようになったのですか。

山根 中国四国建設局のなかに橋梁グループがありまして、先輩方がしきりに四国に渡る島と島の間に橋をかける計画を練っておられた。私は企画部にいて、そのプランを横目で見ながら、ああなるほどな、と感心していたものです。1960年前後に土木研究所の方々が中国建設局にお見えになり、尾道―今治ルートの現地を視察したいということで、私が案内役を仰せつかりました。当初、本四連絡橋のルートは5つありました。A神戸―鳴門、B宇野―高松、C日比―高松、D児島―坂出、E尾道―今治です。BCDはいずれも岡山―香川間なので、技術的、経済的側面からDに絞られていきます。

山岡 松山で暮らしていた子どもの私には、四国と本州が橋でつながるのは、夢のようでした。物心ついた頃には愛媛県庁に「かけよう瀬戸内海大橋」のネオンが輝いていたけど、そこから「瀬戸内しまなみ海道」が出来るまでが長かった。やはり問題は政治でしょうか。

山根 3ルートに橋を架けると決めるまでに十数年かかっているんです。1961年8月に建設省と国鉄は土木学会に「本州四国連絡橋調査の技術的検討」を委託します。厳しい自然条件で、世界でも未経験の長大な橋をかけるのです。深い海に基礎を打ち込み、長い距離を、道路と鉄道の併用も含めて架橋する。長径間吊橋の耐風、耐震、耐久性など難題は山積みでした。62年1月から土木学会の調査委員会が始まり、4月には私も本省の道路局企画課長補佐を拝命しまして、調査分野に張り付きました。
一方で、徳島、香川、愛媛の三県は、まずは自分のところに橋を架けてもらおうと、地元選出の国会議員や県知事を中心に猛烈な誘致合戦が展開されました。いわゆる「ルート争い」です。兵庫・徳島は原健三郎さん、香川は大平正芳さん、広島に宮澤喜一さん、愛媛は知事の白石春樹さんたちが、こっちが先だ、と旗をふる。地元からの陳情合戦が続きました。62年7月に河野一郎さんが建設大臣に就任し、「建設省としては、明石~淡路島~鳴門を結ぶものから実現するよう計画している。他のルートも順次橋を架けたい」と発言して、大騒ぎになったのです。

山岡 河野一郎さんですか。この連載では、河川や道路、東京五輪の渇水対策でも名前が出てきました。息子の洋平さん、孫の太郎さんからは想像しにくい剛腕政治家。明石―鳴門を優先したのは、阪神経済圏が近く、経済効果が大きい、と判断したからでしょうか?

山根 そうでしょう。ただ、政治が過熱しても、技術的評価は、しっかりしなくてはなりません。実際に橋を架けるうえで、どのルートが最も確実で、安全で、経済的にも有利なのか、各分野の専門家が、侃々諤々、口角泡を飛ばして議論をしました。5年ちかくの調査を経て、技術的な難易度では、明石―鳴門が最も難しく、児島―坂出がその次に難しい。尾道―今治が最も確実、となった。しかし、明石―鳴門に橋を架けられないわけではない。それで67年5月、本四連絡橋調査委員会は、最終委員会の後に記者会見を開いて、「中央支間長1500m級の吊橋上部構造の建設は、技術的に可能であると考えられ、約50mの水深で大きな潮流のもとでの海中基礎の建設は、今後の調査検討により可能な方法を見出し得るものと考えられる」と正式に発表します。

山岡 水深50mでの大潮流とは、明石海峡を意識してのことですね。「可能な方法を見出し得る」とは、できると言っているのか、それとも困難だと言っているのか……。

山根 そこを記者が突いてきました。書き方が手ぬるいではないか、できないなら、できないとハッキリ書いたらどうか、とこう聞いてきたわけです。そしたら委員長の青木楠男先生が、神代の昔から、日本列島ができたときから、水深が深く、距離の長いところに橋を架けるのは難しいに決まっているではないか、それをわざわざ、このおれに言わせる気か、と応じて、抑え込んだ。風格がありましたねぇ。

■田中―大平コンビの活躍と、仮谷建設大臣の決断


山岡 河野一郎さんは、総理総裁候補と言われながら、65年に急逝しています。河野亡きあと、ルート争いはいっそう、激しくなったのでしょうね。

山根 そこで、高い見識を発揮されたのが大平正芳さん。67年7月の衆議院建設委員会で質問に立たれました。元々、大平さんは外務委員会の所属で、わざわざ建設委員会で質問に立つのは、建設省のやり方に反対するからではないか、と言われてしました。私も胸をどきどきさせながら、質問を聞いていました。すると、大平さんは、「いまの経済の成熟度からすると本四橋は一つに限らなくてよい。複数を考え、本土と四国の経済の一体化を図るべきではないか」「一本だけ、とするから激しい争いが起こる。将来展望からも複数は常識的だ」とおっしゃった。あの質問で大平さんの大局的にものをみる器の大きさが読み取れた。大きな一石が投じられました。

山岡 大平さんは、よく色紙に「着眼大局、着手小局」と書いていたようです。

山根 この大平質問以降、建設省は具体的な体制に踏み込み、「事業主体は新しい公団」を設けてやるべきだと打ち出し、69年の新全国総合開発計画(新全総)にも、3ルートの建設を図る、と明記されます。そして、ルート争いに終止符を打ったのが、田中角栄さんでした。70年1月、田中自民党幹事長は「本州と四国を結ぶ橋は、3本とも同時に実施設計調査を実施することにした。そのために新しい公団(本州四国連絡橋公団)をつくる。これによって、長年に関係地域による激しい陳情合戦は、本日をもって終わりを告げることになる」と発表しました。3ルート同時スタートを明言したのです。

山岡 田中―大平は、後に首相と外相のコンビで日中国交正常化などの大仕事を成し遂げます。二人に共通するのは、いずれも地方の出身。田中角栄は新潟県刈羽郡の豪雪地帯に生まれ、出稼ぎの悲哀などを子どもの頃から感じて育った。大平正芳も香川県観音寺市の子沢山の農家に生まれています。辺境の辛さを知っている。本四連絡橋の重要な局面で力を発揮したのは、偶然ではなかったのでしょう。公共事業が豊かさを生むことを知っていた。しかし、田中―大平コンビが活躍しても、まだ架橋へすんなり進んではいませんね。

山根 73年暮れの第一次石油ショックが大きな障害になりました。11月24日に予定していた3ルートの起工式は、「総需要抑制策」の一環として中止されます。

山岡 当時、日本の産業構造は、著しく石油に依存していましたね。石油が入らなくなったら、産業の血液が止まる怖れがあった。田中首相はアラブに特使を派遣したり、資源外交を展開したりで、何とか、窮地を脱しますが、とても本四架橋どころではなかった。

山根 局面を打開したのは、高知出身の仮谷忠男建設大臣でした。仮谷さんは、75年8月、本四連絡橋は、当面1ルートについて、その早期完成を図る。そのルートは鉄道併用として、第三次全国総合開発計画(三全総)で決定する。他の2ルートについては、各橋の地域開発効果、工事の難易度などを勘案して、着工すべき橋梁を、各省庁間の協議で決めると、こう発表したのです。鉄道との併用ということで、岡山―香川間の児島―坂出ルートに絞り込まれました。ただし、神戸―明石ルートでは、まず淡路市と鳴門市を結ぶ「大鳴門橋」を架けて、兵庫県と徳島県、双方の顔を立てる。尾道―今治ルートでは、愛媛県側の大三島橋の着工凍結を解除すると同時に、広島県側の因島大島の着工時期の検討も継続とします。四国出身の大臣として、決断すべきことは決断しながら、政治的な配慮をされました。75年12月、延々と待たされていた大三島橋の起工式が、やっと行われました。寒風が吹きすさぶなか、仮谷さんも起工式に出席されました。そのときにひいた風邪がもとで、翌76年1月、現職の建設大臣のまま急逝されたのです。

■本州と四国を橋で結んだ帳尻は……


山岡 政治のドラマを感じます。政治家には力がある。しかし、力の使い方をわきまえていない政治家が最近は増えている気がします。その後、橋の建設は順調に?

山根 いやいや、山あり、谷ありですよ。鈴木善幸内閣で、「第二次臨時行政調査会(第二臨調)」が発足し、行財政改革が本格化します。当然、本四連絡橋建設の財政負担も俎上にあがる。80年11月に伯方大島大橋の架橋地点に視察にいらした渡辺美智雄大蔵大臣は、「なんでこんなところに橋を架けるんだ」と言われましてね。私がご案内していたのですが、「利根川よりもこっちのほうが短いんですから」と申し上げたら、「ああそうか」と。そのうち臨調の行革で、「1ルート、4橋に当面限定する」と決まり、神戸―鳴門ルートの鉄道併用案も消滅します。

山岡 紆余曲折を経て、本四連絡橋は3ルートが完成し、かつて瀬戸内海で多くの客船が沈んだことなど、ほとんどの人が忘れています。それだけ豊かな社会になった。では、事業費は、どのくらい膨張したのでしょうか。また、計画時に予想した交通量は、実際に橋が出来てみると、どのくらいの量にとどまっているのでしょうか。本四連絡橋への批判は、そのあたりに集中していると思われます。

山根 事業費を見ますと、73年9月の基本計画では、神戸―鳴門ルート5,937億円、児島―坂出ルート4,783億円、尾道―今治ルート2,346億円でした。これが、全通時には、神戸―鳴門ルート1兆5,000億円、児島―坂出ルート1兆615億円、尾道―今治ルート7,464億円。トータルで比較すると、計画時の1兆3,021億円から、全通時には3兆4,079億円へと増えています。基本計画直後の石油ショックで、物価の上昇が加速され、さらには環境保全のための計画変更、技術的な課題の克服などもあって、大幅に増えた。

山岡 平均して、1ルート1兆1千億円ですか。償還の鍵を握る交通量の予測は?

山根 72年の予測は、神戸―鳴門で1日3万7,900台、それが2012年度の明石海峡の横断交通量は2万3,233台、同じく児島―坂出は予測が2万5,500台で、実際は2万280台。予測と実績が比較的近いですね。同様に尾道―今治は、72年予測が1万5,300台で、2012年の来島海峡横断交通量は1万533台。将来予測が過大だったことは認めざるを得ません。ただ、日本列島の四つの島を橋やトンネルで結ぶのは、多くの国民の悲願でありみんなの希望だった。それで生まれた効果も単なる経済効果を越えて大きなものがあると思います。