2013年9月30日月曜日

第10回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(後編)

■土木と医学と化学工学の三本柱で「環境工学」を開拓

山岡 丹保さんの学問領域は、土木と医学(衛生学・細菌学)、化学工学の三本柱で成り立っておられます。土木から他分野へと専門が拡大した経緯を教えてくれませんか。

丹保 僕が北海道大学に入学した1950年当時、日本の水道普及率は、わずか26%です。都市問題イコール水問題だったので、ダムを造りたくて土木の河川工学を専攻しました。昭和27年の北大3年生の時の実習先は建設中の東京水道の小河内ダムでした。1938年に着工して戦争で工事が中断し、米国のフーバーダムやTVAのダムのテキストを参考にして、何とか造っていました。機械もフーバーダム建設で使った中古品でね、しばしば故障していました。僕の目の前でケーブルクレーンの支索が切れて、二人の作業員がビューンとはね飛ばされて亡くなりました。生まれて初めての経験です。それから1週間、工事は止まって、お葬式が行われました。現場で人が亡くなるとは、こういうことかと知りました。小河内ダムでは87名の方が犠牲になっています。

山岡 いまとは比べものにならないほど危険だったのですね。

丹保 そのままダムをやるつもりだったのですが、大学4年のときに日本で初めて、京大とともに北大に「衛生工学科」ができることになりまして、指導教授から、先発要員として行ってはどうか、と言われ、従いました。大学院では土木に籍を置きながら、半分、医学部に通って細菌学、衛生学を勉強しました。1957年に日本で最初の衛生工学科が北大に設置され、講師、助教授となって、米国へ留学したんです。

山岡 助教授時代、日本の河川では初めて、石狩川の水質基準を決める調査をなさっていますね。

丹保 はい。当時、江戸川と石狩川で水質基準が作られることになりました。どちらも製紙会社が廃水を川に流して、周辺の漁民、農民と衝突していました。江戸川は建設省の御膝元ですから調査はできます。北海道はなかなか人がいない。開発局から北大の研究室でやってくれないか、と丸投げで依頼されました。山歩き用の大きなリュックに、川水採取用の瓶をいっぱい詰めて、列車で最寄り駅まで行く。そこに開発局のジープが待っていて、現地へ行って水を採取して戻って分析、試験をする。毎週、毎週、そうやって石狩川の上流から下流までくまなく歩いて、石狩川の最初の水質基準を定める基礎資料を作りました。

山岡 米国留学のきっかけは?

丹保 あるとき、東北大学で開かれた物理科学分野の「コロイド(膠質)化学」のシンポジウムが催され、水処理の基礎を学ぼうと聴きに行きました。ところが、何のことやらさっぱりわからない。三日か四日聴いたけど、さっぱりわからない。これが理解できなければ、水処理の分野には踏み込めません。そこで米国で物理化学/化学工学を勉強することにしたんです。戦後の占領期間中、GHQはマッカーサーの指示で、日本の大学の応用化学の講座を化学工学に切り替えるよう助言したのですが、北大は出遅れていました。留学すれば、遅れを取り戻せるだろう、と。

山岡 GHQは日本の石油化学の勃興を視野に、化学工学を奨励したのでしょうか。

丹保 GHQの工業教育使節団が日本で遅れている分野として化学工学の全面的展開と中心的大学に3校ほどの衛生工学を作るように文部省に勧告しました。とにかくプラスチックができたばかり、ナイロンが出始めたばかりでした。化学工学は先端の科学でした。いまでこそ流体や応用力学と同じように扱われていますが、化学工学は最先端だった。日本には化学を産業化する機械工学との組み合わせの化学工学、医学と土木の組み合わせの衛生工学といった複合的な総合工学がないと示唆したのです。それで米国に渡って、水を凝集して、水がもっている物理、化学的なことなどを勉強しました。だから米国の友だちは、いまでも僕は物理工学、化学工学屋だと思っています。

山岡 そのまま米国に残ろうとは思わなかったのですか。

丹保 独身だったけど、米国人として残ろうとは思いませんでした。当時、北大の給料は70ドル(2万5200円)。米国の研究機関の給料が540ドル(19万4400円)。研究所のボスに「ここにいたら、来年は年俸1万ドルのポジションをつくってやる」と言われたけど、帰国しました。衛生工学を一歩進めて、日本に環境工学を確立するために留学したわけですからね。

■水処理における東西文化の違い

山岡 米国から戻られた翌年、1964年に東京五輪が開催されています。東京五輪は渇水危機のなかで、開幕が迫っていたのでしたね。

丹保 あの年、東京で国際水質汚濁会議が開かれました。平河町の都市センターが会場でした。現在の建物とは違う、古い建物だったのですが、水がなくてね、宇井純や、僕らはトイレで流す水をバケツで汲んで運びあげていました。

山岡 水俣告発で有名な、東大都市工の良心といわれた宇井さんとご一緒に、ですか。

丹保 そうです。都市センターでトイレを流す水がないものだから、外の井戸でバケツに汲んで、せっせと運びあげました。まったくひどいもんです(笑)。東京の水道は利根川とつながっていなかったから、小河内ダムができても焼け石に水。河野一郎さんの英断で、中川とつながってやっとオリンピックができました。

山岡 それからの上下水道の普及の早さは、目を見張るものがあります。下水道の普及率は、現在では75%くらいになっていますね。

丹保 日本は官僚組織が全国一律、号令一下、補助金つけて一気にインフラを普及させました。欧州で100年かかったところを、30~40年でやった。だから日本の上下水道は、バリエーションがなく、おもしろみに欠けます(笑)。フランスは、パリのなかでも200年くらいの幅で建設した水道、下水道の設備があります。だから、古いものをリフォームする際、最先端の技術を採り入れられる。ドイツもそう。ルール川は、広域水道、下水道のトップランナーを走っています。

山岡 汚れた水をきれいにする水処理の方法は、それぞれ国柄の違いがあるのでしょうか。

丹保 国による違いよりは時代の違いが顕著です。1930年代頃までは緩速砂濾過法という方法が採られています。ふつうの沈殿池に原水を、半日くらい静かに置いて、それを静水圧で1日に3~4mというゆっくりした速度で濾過を均一に進行させて浄水をつくります。もとは1820年ころ英国で発明された濾過方法なのですが、テムズ川のほとりに大きな池をいっぱいつくっていて、半日から1日、場合によれば10日も溜めた水を濾過している。自然発生的な技術です。1900年代に入って人口増加の著しいアメリカ東部で、アルミニュームや鉄塩の凝集剤を用いて水中の粒子を集塊沈殿させて、その水を1日に120m程で高速濾過する急速濾過法が開発され世界に普及します。日本の処理法の大半もそうです。

ライン川の下流に位置するドイツやオランダでは様々の微量汚染物質が流れ込んでくる長大河川の下流の複雑な水質から人々を守るために、活性炭吸着をして、さらに地下帯水層に流しこみます。それを井戸で汲んで、配っています。地下帯水層に長時間おくことによって、瞬間的に原水に汚染物質が混じるようなことがあっても長時間の平均化で対応できますよね。オランダでもアムステルダムの砂丘の浸透濾過池に水を突っ込んで、3か月くらい溜めてから出して、処理して配る。一回、地中に戻した水は、大地の恵み、と欧州人は思っているようです。発想が全然違います。

山岡 江戸時代の江戸は、水の循環が衛生的で優れていたとよく耳にしますが。

丹保 江戸だけでなく、当時の城下町はきれいな浄水を汲んで飲んでいましたね。そしてし尿は全部肥料に回していた。し尿は資源でした。汚水といっても、当時はそんなに出さないでしょ。米のとぎ汁くらいなもので、紙だって、全部手習いの習字に使って、最後は焚きつけですね。ほとんど始末がついていた。それが明治以降、人口が増えて、大正時代に東京市清掃条例というのができた。し尿を汲みとって、きれいに処理しましょう、垂れ流してはいけませんという条例です。ここからし尿が廃棄物になりました。

■水循環はフラクタクル―皇居のお濠の水も飲めるようになる

山岡 水をコントロールする技術は、自然と人工との合作なのですね。

丹保 要するに、溜まって止まっている「静水」と、流れている「流水」の組み合わせなんです。静水と流水のいろんなパターンが、小川から大河川まで、フラクタクルにくり返されています。東京のような大都市は、フラクタクルなパターンをぶち抜いて水道、下水という大規模なパイプ網をつくって高速で流していますが、田舎の一軒家のなかには天水を溜めて、使って、排水しているところもありますね。これはフラクタクルの一部のエレメントです。分散型の極小といえるでしょう。

山岡 分散自立型の水代謝のシステムをつくろうとしたら、このフラクタクル構造を利用し、制御しなくてはならないのですね。そうすると、どの程度の規模なら分散型でコントロールできるのでしょうか。

丹保 それは情報系によって決まります。一軒家くらい小さければ、少ない情報を家主がコントロールして水を使えますが、地方の自治体レベルでやろうとすると、知恵も腕力もないリーダーが変なことをして失敗するよりは、能力のある都道府県レベルに頼もうか、となるかもしれません。情報をコントロールできる能力が、規模の大小を決めます。

山岡 ふと『方丈記』の冒頭を思い出しました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。この淀みに浮かぶ泡の生滅もフラクタクルの一要素のようです。フラクタクルの概念が最適化された分散自立の規模とは、どのくらいなのでしょうか。

丹保 わかりませんね。水道水だったら、1日に大きくて10万トン。小さければ、数千トンでしょうか。その場合でも、情報は人間が使うものだから、ネットワーク系をつくって、ハードウェアは小さくても、トータルで制御している人がいればいいんです。つまりインテグレート・システムでやればいい。たとえば東京なら、皇居の周りのお濠にあれだけの水があります。でも、お濠の水、飲めませんでしょ。あれを全部きれいにして、飲めるようにするのは、さほど難しくない。いっぺんにやろうとしたら大変です。しかしお濠の裏側に小さな浄水場をつくらせていただくとか、たくさんの水を皇居の林に捲かせていただくとか、毎日、水を回していけば浄化できます。もしも東京で大災害が起きたら、すべて補給品になりますね。

山岡 それこそ国土強靭化ですね。大きな堤防をつくるだけが能じゃない。

丹保 利根川の上流に新しいダムを造りたくなければ、飲み水だけは既存のダムから東京に運ぶ。そしてビルや工場の雑用水は、芝浦運河を淡水化して賄う。芝浦に水門を造ってね、品川運河をすべて淡水化してしまう。膜処理技術が発達したから、ビルなら通常の正常な淡水さえ手に入れば、困らないでしょう。いずれ、そういうローカルな分散自立型のシステムはできるだろうと僕は思っています。隅田川で泳ぐのは夢ではないのです。

■「ふたつで一つ」の日本文明が「近代の崖」を超える?

山岡 前回の対談で、丹保さんは2100年、世界人口が100億人に達したら、近代文明は終わる、日本は、そのとき新たな文明の担い手として浮上するチャンスがある、とおっしゃいました。『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンチントン氏や、生態学者の梅棹忠夫氏は、日本文明を融通無碍で東洋と西洋の仲立ちをし、融合できるものととらえていました。そのあたりにも「近代の崖」を超える可能性を感じておられるのでしょうか。

丹保 日本は中華文明の端に位置しているのですが、縄文から定住して一万年の歴史を持っています。中国は、確かに巨大だけれど、時代ごとに中心の場所が変わっています。もともと西方に位置していた国が山東半島まで掌中に収めたのです。こうして見ると、一万年前に縄文文化を持った日本の普遍性は、注目されていい。先端に出るかもしれません。

山岡 日本文明の普遍性ですが、突きつめると「ふたつで一つ」という原理ではないかと思います。『西欧キリスト教文明の終焉―日本人と日本の風土が育んだ自然と生命の摂理』(中西真彦・土居正稔著 JPS出版局)という本に示唆を受けたのですが、たとえば、朝廷と幕府、風神と雷神、火の神と水の神、あうんの狛犬……日本では大切なものをふたつ用意してきました。天皇の権威と政府の権力を使い分けてもきました。両方が並び立って、初めてひとつとなる。この考え方が基本にあったから、外から流入してくる文物を相対化し、多元的にとらえられたのではないか、と想像します。都市づくりや、インフラ整備も「ふたつで一つ」といった対概念、補完的な思考が不可欠ではないかと思います。

丹保 確かに伊勢神宮も、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)という二つの正宮がありますね。伊勢神宮は、インフラの神様ともいえます。式年遷宮もあり、新陳代謝=メタボリズムを象徴しています。メタボリズムは人間の生活の基本です。建築家のなかにはメタボリズムの名を借りたグループもありましたが、建築物の水道や下水を「裏から見た○○」といった言い方しかしない。建築家のメタボリズムは、せいぜい空調と揚排水までです。やっぱり違うなぁと思いますね。

山岡 彼らは様式美や意匠への関心が強すぎて、メタボリズムの本質論まで深められないのではないでしょうか。構造物や建物をデザインする人が、せめて対概念をもっていないと、単一的で直線的な価値観にとらわれる。そういうデザインは、弱い。

丹保 僕は大学に長くいましたが、半世紀以上も前、留学した米国のシビル・エンジニアリング学科には、経済学、生物学、素材学の教授たちがいましたよ。土木一辺倒じゃない。

山岡 多角的なアプローチのほうが、学びは深まりますね。

丹保 そうです。近代というのは科学技術の文明です。違った表現をすれば、真似ることが学ぶこと。日本では大学の4年間で決まった範囲しか学ばない。米国の大学は、社会人がどんどん入ってきます。社会で経験を積んで大学に戻るから、全体のレベルが上がります。

山岡 日本の製造業が元気だったころ、新卒の学生を会社は全人的に鍛えるしかない、とモノづくりの大部屋に叩きこみました。エンジニアや営業、技能士、デザイナーや購買が一緒になって「知識創造」をして、モノをつくった。そのなかからイノベーションが起きて、市場を変革しました。大学教育の実践編を企業が担っていました。

丹保 そのときに、企業は大学を利用しなかったのですよ。なぜ、米国の大学が世界で1、2のレベルにあるかというと、そのときに大学を使うんです。工学系では、世界で一番優秀なのはカリフォルニア工科大学、次がハーバードかMITですが、企業で経験を積んだ人が、ポスドクとして大学に勉強しにきている。博士号を取った上で、別の勉強をする。だからレベルが高いんです。

山岡 科学技術、あるいは学問というのは、さまざまな刺激を受けて、単純に直線的に上昇するのではなく、スパラル状に向上します。そういう道筋を大切にしてほしい。

丹保 おっしゃるとおり。歴史も、必ずスパイラルです。そして、この伸びしろが学問の進歩なんだと思います。基本的には、クローズとオープンで、歴史も回っています。閉じたり、開いたりの連続です。縄文時代から、古代、中世、近代、そしてまた新中世。「閉じた代謝と開いた心」の文明が始まるかもしれません。文明を支える技術は、すべて違います。しかも、伸びしろがあります。伸びしろは、人が増えるからできます。アイヌの人は確かに自然と共存していました。そのころのアイヌの人の人口密度は1平方キロに0.5人。いま、北海道には1平方キロ60人が住んでいます。日本全体では350人。東京では6000人を超えています。これでは、アイヌの人と同じ文明では暮らせません。地球の人口が100億人を突破するまで、あと80年余りです。私たちの置かれている状態をしっかり認識し、将来ビジョンを議論しなくてはならないでしょう。

2013年9月15日日曜日

第9回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(前編)

対談日:2013年6月28日  於:土木学会会議室


丹保憲仁さんプロフィール
1933年北海道生まれ。工学博士。1957年北海道大学大学院工学研究科土木工学修士課程修了。北海道立総合研究機構理事長。第89代土木学会会長。北海道大学総長、放送大学長などの要職を歴任。
専門は環境工学、著書に『人口減少下の社会資本整備-拡大から縮小への処方箋』(2002年、土木学会など。)









■2100年、世界人口が100億人を突破したら「近代」が終焉

山岡 水の循環、環境システム分野のオーソリティである丹保憲仁さんは、文明史的観点から地球の近未来に警鐘を鳴らし、近代の終焉、文明転換の必要性を説いておられます。バブル期にデザイン界がもてはやしたポストモダン論などとは次元の違う、本質的な問題提起だと思います。まずは、そのあたりから、お話をお聞かせいただけますか。

丹保 この図が、今日お話したいことの根本にあります。


西欧は産業革命後、西暦1700年ごろから中世に別れを告げ、近代へと入ります。蒸気機関、内燃機関が発明され、石炭、石油の化石燃料をエネルギー源として大量生産、大量消費のパターンが世界に広まりました。食料が増産され、列強諸国は海外に植民地を求め、人口が爆発的に増えます。北海道立総合研究機構の研究者に「そもそも現生人類は、紀元前1万年くらい前から現在までに何人ぐらい生まれたのか。西暦1800年以降の近代が始まってから今日までにどのくらい生まれたのか」と問いかけて、推算してもらいました。

山岡 文明史的に人口増加の変化を推定したわけですね。

丹保 すると、生まれた現生人類の総数は1050億人ほど。そのうち紀元前1万年から西暦1800年にかけて、つまり1万年以上かけて誕生した数は700億人ほど。これに対して、近代に入った1800年以降、わずか200年少々で生まれた数は、なんと350億人ほど。近代以降は、それ以前と比べて平均して年間25倍ほどの勢いで増えていることになりそうです。

山岡 今後、日本は人口が減っていきますが、中国、インド、アフリカを中心に世界人口はしばらく増加し続けますね。

丹保 2100年に100億人に達します。ここで僕は近代文明が終わる、と思います。その終わり方がカタストロフィーなのか、そこから少しずつ人口を減らしてじりじりと違う文明へと移行するのか、わからない。大変なことが起きる予感がします。たとえば地球の水の総量と、世界総人口の大きさを比べてみましょう。100億人になれば、世界人口10億人の時代に西欧でつくられた近代上下水道システムを使い続けるのは難しくなるでしょう。100億人超の時代がきても、1人1年間2000m3ほどの水がなければ食物生産を含む生存のための需要は満たせません。できれば2000~3000m3の水が欲しい。1000m3の極限量に世界人口100億人を掛けると世界の総降水量の15%が必要となる。常識的にはその2倍が恒常的な農業生産の維持に必要なので、総降水量の30%が必要になります。これでは、インド亜大陸、中国本土、中近東、アフリカ乾燥地帯では近代の水システムを未来にわたって使うのは困難です。まったく異なる水利用/循環のシステムが求められます。

山岡 水と並んで、従来型のエネルギー資源も枯渇の壁にぶち当たりますね。

丹保 いま、現代人は、化石エネルギーに核分裂型の原子力エネルギーを併せ持って、人類史上初めて、そしておそらくただ一度の最大量と思われる105TWh/年ほどの非再生型エネルギーを使って、地球規模で高速大量輸送技術に支えられた大量生産、大量消費の日々を営んでいます。しかし100年も経てば、化石燃料や核分裂(ウラン235型)によるエネルギー供給は難しくなります。次の集中型エネルギー源に核融合がくるのでしょうか。100億人超の地球を支える再生可能な新自然エネルギー時代を、現生人類は、エネルギー・イノベーションで、いつ、どのような規模で迎えるのでしょうか。社会構造を変えて成長型の近代文明を止揚し、はびこりすぎた人類の数と過剰資源消費を漸減させ共生の新文明にたどり着く前に、滅亡の危機に合わないで済むのでしょうか。大切なのは、100億人超の時代とその先の後近代に向けて、論点を絞りながら検討を進めることです。


■最後は腹を切る覚悟で西欧技術を身につけた近代の父たち

山岡 人口爆発に従来型システムでは対応できない「近代の崖」にわれわれは追い込まれているようです。が、一方で私たちの思考は1900年ごろの「坂の上の雲」を追った当時の開放型、膨張型のパターンに慣れてしまっています。グローバル化した市場での競争が死活問題と信じ込み、ついそのような近代的パターンを志向しがちになります。

丹保 日本が明治維新後、わずか数十年で近代システムを取り込み、西欧列強に対抗する国家になったのは、近代の礎をつくった世代が「サムライ」だったからです。たとえば後藤新平(1857~1929)、内村鑑三(1861~1930)、新渡戸稲造(1862~1933)、彼らはそれぞれの分野で日本の近代化を推し進めたキーパーソンですが、少年期には、ちょん髷つけて漢籍を学んでいます。根っこの精神は近代でも何でもない。根性はサムライで、最後は腹を切る覚悟で、西欧の新しい技術やしくみを身につけようと猛烈にがんばった。だから、強い。後藤新平なんて、相当に過激なことをしていますね。

山岡 ええ。台湾で民政長官を務めていた初期には、日本の統治を受け入れようとしない人たちを大勢殺しています。後藤自身がそう言っている。あるいはアヘン政策、敵対する言論への弾圧など、凄まじい行動をとっています。最後は、政治の倫理化運動のために脳溢血で死ぬのを覚悟で岡山へ演説に赴く列車のなかで倒れ、京都で亡くなりました。

丹保 腹を切る覚悟で生きているから、近代化をあんなに速く達成できたのです。新渡戸の同級生に廣井勇(1862~1928)という「港湾工学の父」と呼ばれた土木技術者がいます。小樽港や上海の築港に辣腕をふるい、多大な業績を残しています。彼は、自分が設計した橋梁の上を、列車が試運転する「渡り初め」のとき、橋のたもとで震えていたというんです。そのくらい自分がやった仕事が怖かった。彼らが幼少期に習った学問と、西欧近代技術というのはもの凄いギャップがありました。だから緊張し、緊張に耐えて、技術を採り入れた。パイオニアは、自分のやったことを自分では評価しないものです。震えながら他人の評価を受け入れる。そういう姿勢がまた緊張感を生むのでしょう。

山岡 なるほど。かつて福沢諭吉が『瘠我慢の説』という本を書き、勝海舟を批判した際、事実誤認や訂正があれば教えてくれ、と草稿を勝に見せました。すると勝は、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候」と応えた。出処進退は自分で決めること。その善し悪しを論じるのは他人の仕事。どんな評価を下していただこうとも、まったく依存はございません。送ってくださった草稿は、(おもしろいので)このままいただきたい、と切り返した。福沢も福沢なら、勝も勝です。

丹保 やはりサムライなんですね。

■世界に例のない東海道メガロポリスと海洋開放系

山岡 日本は戦争に敗れ、国が破綻しましたが、戦後の復興、高度成長にはサムライに薫陶を受けた世代がまだ生きていました。戦後の経済発展をどうとらえればいいでしょう。

丹保 日本という国で、ふつうに太陽エネルギーだけで生きていける人口は4000万人です。日本列島を潜水艦に囲まれ、封鎖されても4000万人なら飢え死にせず、喧嘩しないで生きていけます。ところが、現実は1億2500万人。8500万人も過剰です。これだけの人口が生きていられるのは、東海道から山陽道、北九州に至る沿岸部に、千葉、東京、川崎、横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡とメトロポリスが連なり、世界最大(断突)の東海道メガロポリスを形成しているからです。海岸線にこんなに巨大都市が連なった例は、世界にありません。世界中見渡しても、半径50キロを超えるメトロポリスはない。水を運んで、下水に捨てて、ゴミを処理して、都市交通体系で通勤できる都市を造ったら半径50キロ圏になってしまう。それを超えそうになるとパリでもニューヨークでも衛星都市をつくる。ところが、日本は、太平洋岸に串刺しのようにメトロポリスを連ねました。

山岡 そして、太平洋ベルト地帯に工業生産が集中しました。

丹保 石油、石炭、鉄鉱石など原料はすべて大容量の船で海から運んできて、大量にものを製造しました。だいたい50兆円ほどの原材料を輸入し、50~60兆円ほどの輸出をして貿易黒字を出してきた。現在は、円安と石油・天然ガスなど輸入燃料の価格高騰で貿易赤字になっていますが、おおよそ日本のGDPは約500兆円で、貿易依存度は10~15%少々。じつは、ものすごく内需の大きな国です。イギリスは外需の割合が15%、ドイツが40%、韓国は50%ちかいですね。東海道メガロポリスは、膨大な内需と外需を支える生産地帯。土木は、インフラを構築することで、その大都市帯建設に貢献してきました。海を介して、外へ開き、大量のものを運ぶシステムが機能してきたのです。

山岡 日本の強みは海を媒介にできる点です。列島が南北にのび、海岸線が長い日本は、領海と、沿岸から200カイリの「排他的経済水域」を合わせた海の広さが447万平方キロメートルと世界6位。しきりに太平洋へ出ようとしている中国の場合、領海と排他的経済水域を足しても89万平方キロメールと、日本の約5分の1です。

丹保 中国は、歴史的に鄭和(1371~1434)の遠征以来、しきりに海洋へ出ようと試みましたが、本質的に大陸国家です。いくら経済発展してきたからといって、日本のように沿岸部にずらりとメトロポリスを建設することはできません。北京の港は天津、そこから上海まで沿岸部に大都市はできない。大艦隊を建造して、太平洋に出てきても、運べる資源がもうすぐなくなる。アフリカが成長したら中国に資源を渡さなくなるでしょう。

山岡 中国は2030年に14億超で人口のピークを迎えるといわれていますが、かつて日本がたどった近代化コースをもの凄いスピードで走ってきています。

丹保 中国は、いまのうちにきちんとインフラを造っておかないと、高度成長を維持できなくなったとき、社会不安が増大します。大陸や半島での動乱で、大量の難民が日本に押し寄せてきたら、大変な事態になるでしょう。

山岡 日本の高度成長途上では、交通インフラも動脈としての役割を担ってきました。

丹保 なかでも東海道新幹線は、世界で初めて人間しか乗せない高速鉄道として産声を上げました。人間しか乗せないのだから、新幹線は情報系なんですよ。東京―大阪間を日帰りできるほどの高速で人間が行き交い、情報を創造することで高度成長は達成できたともいえるでしょう。

■ポスト近代「閉じた代謝と開いた心」へどう転換するか

山岡 東海道メガロポリスの産業集積は、海の向こうに開いて、1億2500万人の人口を支えてきたわけですが、さぁ、あと80年少々で、世界人口が100億人を突破します。一方で、日本の人口は7000万人くらいまで減ります。日本が22世紀もしっかり生き延びていくには、どのようなパラダイムの転換が求められるのでしょうか。

丹保 ひょっとすると、長い歴史時間の中で、中華文明の下流に位置する日本が、近代を駆け抜けて、一番先に脱近代のチャンスをつかめるかもしれません。縄文以来で初めて、この列島の住人が、世界の次の文明をリードするチャンスを得るかもしれない、と思います。ふり返れば、近代以前の中世は、水や食物、エネルギーの代謝が一定の範囲で閉じ、人びとの心も宗教的規範に従って閉じていました。宗教的規範に忠実に生きる人が、尊敬を集めました。近代は、逆に代謝を開放し、人の心も開放させました。宗教に代わって経済が価値の中心に移って、市場の拡大を善としてシステムが増殖したのですが、それだけでは世界が立ち行かなくなる状況が次々と近代社会を揺さぶり始めます。日本は、世界に先駆けて「閉じた代謝と開いた心」を持った新文明へと転換する成熟度と実力を兼ね備えています。分散自立型都市代謝システムの確立と自然生態系の安定確保がポイントです。

山岡 具体的に、たとえばインフラの整備はどうとらえればいいでしょう。近代150年かけて築いたインフラが老朽化の波をかぶりながら、広範囲にちらばっています。

丹保 思い切ったスケールダウンは必要でしょうね。それと自然とのジョイントをいかにうまくするか。地中にパイプも電線も入っていますけど、それをうまく使いながら、質が若干劣っていてもいいものは、そのまま使う。質の高いものにだけ投資をする、とか。
電力や水、食べ物にしても、質によって使い分けるのが次のテーマだと思います。日本は一番質のいいものを、必要な量だけ供給する近代のぜいたくを尽くした末に、その過剰インフラ構造の保全更新に困難を感じ始めているわけです。現在、日本の食料自給率はカロリーベースで40%ですが、コストベースでいくと70%ちかい。すごく高いものを食べています。食べ物を買えるときは買ってもいい。自給だけを目的に社会を動かすとおかしくなります。しかし、アメリカ・オーストラリア、ロシア・ブラジルが食べ物を売ってくれなくなったとき、どうするのか。中国がもしも人口減少に失敗してね、海外の食べ物にどんどん手を伸ばしてきたら、どうするのか。そこを考え、実行するのは為政者、経世学者の仕事ではないでしょうか。まぁ、インフラ施設は50年かけないと格好がつきません。100年かからないとモノになりません。上下水道にしてもそうです。だから、慌てないこと。ボロボロになったら、手を加えて使えるところだけを使っていればいい。

山岡 情報系とおっしゃった新幹線は、東海メガロポリスだけでなく、東北、上信越、北陸、九州、さらに北海道へと延びようとしています。地方でも情報系の効力は生きますか。

丹保 いや、まったく違うものになるでしょう。東海道では、経済的闘争のために新幹線を10分に1本走らせていますが、北海道や九州では1時間に1本で十分です。人だけを運ぶのではなく、収穫された労働集約型の高級農作物を積む軽貨物車輌をひとつくらい連結して、関東地方に運んで配ってもいい。朝積めば、昼には関東のマーケットにくるでしょう。

山岡 自然とのジョイントもポイントと指摘されましが、どういうイメージですか。

丹保 川で言えば、利根川も隅田川も上流から下流まで泳げるようにする。全部、泳げるように再生する。永代橋のたもとあたりで、とぶーんと飛び込んで水泳大会をしてもいい。江戸時代なんて、そんな感じでしょう。川の上下流(流域)で、江戸の諸藩はまとまりをもって郷国を作り上げてきました。川はその要です。

山岡 都市の構造そのものが変わるのでしょうね。

丹保 これは乱暴な意見かもしれませんが、日本人は22世紀初頭に7000千万人に減っても、グリーン自立には2000万人くらい過剰です。そこで日本を二層構造にして、東京をシンガポールのような経済特区する。そして2000万人の経済戦士に東京圏に住んでもらう。特区ですから、税金のかからないフリーマーケットにして、電力も水も食料も、他地域からお金を払って買ってもらう。東京はグローバルな競争に勝ち抜くための戦士の集団と化す。そして闘いに疲れたら、北海道にきて休んでいただく(笑)。

山岡 人口7000万人社会を前に、どんなビジョンを描くかが大切ですね。東京の話で思い出しましたが、ご著書の『都市・地域 水代謝システムの歴史と技術』(鹿島出版会)によれば、首都圏の水資源量は極端に少ないのですね。

丹保 世界で住民一人当たりで最も水がないところは、年間1000m3/人程度しかないサハラ砂漠以南のサブサハラアフリカです。年間1人1千トンの水で、辛うじて生存を維持しています。その次に少ないのが、日本の関東地方なんです。4000万人もの人が集中していて、GDPはフランスより高く、経済活動で水を使いまくっています。関西には琵琶湖がありますが、関東は利根川上流に、大量に溜めておくところがない。

山岡 関東圏はいつ水飢饉が起きても不思議ではないのですか。水の代謝を維持しようとしたら、周辺にたくさんの水甕(ダム)を造らなきゃいけなかったのですね

丹保 はい。雨はコンスタントには降りませんね。ふだんは水が足りなくても、大雨が降れば洪水が起きる。ある程度溜めておかなければいけません。それで利根川上流に20幾つものダムが造られたのです。

山岡 では、後半は、水の循環、上下水道のシステムに話題を移したいと思います。
(後編に続く)