2013年11月30日土曜日

第14回 参議院議員 脇 雅史さん(後編)

■震災復興と国土強靭化の関係とは?

山岡 前回のお話で、国土強靭化への政府、与党の意識の高さはよくわかりました。一方で、大震災からの復興に目を向けると、先行きへの不安感が漂っているのも事実です。先日も、取材で福島県の自治体の首長さんたちに会ったのですが、国土強靭化と東京五輪のインフラ整備に人、モノ、金が流れて復興は後回しにされるのではないか、という強い不安感を皆さん、口にしておられました。

 復興も強靭化、五輪もすべてやらなくちゃいけません。日本はできるはずです。明治期も、敗戦後の昭和の時代も日本は貧しかった。貧しいなかで懸命にやりくりしてインフラを建設したのです。あれだけ貧しい時代にできたことが、いまできないはずがない。かつて、貧しかったにも関わらず、なぜできたのかというと、将来への確かな手ごたえがあったからです。将来、その方向に伸びるとわかっていたから、設備投資もできた。国土強靭化は、そのような方向性を示したものなのです。だからデフレマインドを振り払い、皆で歯を食いしばって努力しなくちゃいけない。その気構えも重要です。

山岡 ただ、現実の復興は、かなり遅れていますね。復興事業の入札は不調続きです。

 津波の被災地では営々と築いてきたまちが、不幸にして、一挙に崩れました。そこから立ち上がるのは並大抵のことではないでしょう。しかし、地域をどう復興させるかを決める主体は、その地域で生活を営む皆さんです。高台に移るか、それとも海に近い場所を活かすか、国家ではなく、地域の皆さんに主体的に考えていただきたい。
だから、復興庁を立ち上げるとき、私は現地事務所をまずつくるよう、当時の民主党政権にも働きかけました。担当大臣は東京にいないと仕事になりませんが、現地の2~3市町村ごとに復興事務所を置き、各省庁の代表を送り込む。県や市町村の担当、商工会議所、地域の諸団体や住民の方々がそこに集まって、アイデアを出し合ってプランをまとめる体制をつくるよう言いました。鍵になるのは事務所長です。役所のOBでもいいから、行政経験がある人が現地の作戦本部長になって仕切ればいい、と随分、意見を言いましたが、進みませんでした。

山岡 震災前、数十億円規模だった予算が、一気に数百億円に膨らんだ被災自治体もありますが、これがなかなか消化できていません。宝の持ち腐れのようになっています。

 予算をつけても地元が意思決定しなければ、国があそこに住みなさい、ここに住みなさいとは言えません。破壊されたまちをつくり直すのは容易ではないでしょう。道路ひとつ隔てて、壊れたところと、無事に家が立っているところもあります。合意形成は、難しい。しかし、くり返すようですが、現地に権限をしっかり委ねれば、いろいろ意見があっても議論をすればどこかに落ち着きますよ。必要は発明の母です。現地の方々が判断できるような方向に持っていくことが復興庁の役割です。政権交代して、以前より、少しはよくなったと思いますが、まだ、困難が続いています。

山岡 そうしたなかで、宮城県の女川町のように津波で市街地の7割が流出しながら、山林を切りひらいた高台にまちを移転する「1000年に一度のまちづくり」も始まっています。7600人に減った人口を震災前の1万人に戻そうと、女川町が住民の土地を買い上げ、UR都市再生機構と包括的なパートナーシップを締結し、住宅と公共施設は高台移転。沿岸部は漁業と観光交流エリアにする壮大な計画のようですが、この女川モデルは国土強靭化ともリンクすると考えていいのでしょうか。

 そうです。強靭化を先行してやっているということですね。

山岡 女川町、あるいは宮城県東松島市の野蒜地区、岩手県陸前高田市などのプロジェクトでは、国土交通省の指導の下でUR都市機構がコンストラクション・マネジメント(CM)アットリスク型という設計から施工までをの発注する新たな建設工事契約が導入されています。この契約方式の意味とは?

 要するに、元々の発注者である市町村には、大規模な復興事業で契約上の実行管理をするノウハウは蓄積されていませんね。それでマネジメントも含めてURに委託し、着実に、やっていこうということです。いま、工事の予定価をつくって復興事業を遂行しようとしていますが、その工事がいくらなら妥当か判断できる技術者がいない市町村もたくさんある。インフラの冬の時代が続いた影響ですね。それで、実態に合った契約方式で、できないところはできる機関に委ねる。適正な競争のなかで整合性のとれた契約方式を選ぼうというわけです。とくに珍しいことではないです。


■公共調達における契約の根本的誤り

山岡 では、このあたりで脇さんご自身の歩みについてお聞きしたいのですが、どういう経緯で、建設官僚から政治家へ転身されたのでしょうか。

 建設省では河川局や道路局で公共事業に携わっておりました。伝統的に建設省は国会議員を輩出してきました。公共事業をしっかり行ない、建設産業を育てるには立法府にも人がいたほうがいいという組織的な判断ですね。そのことも建設省の大切な役割だと思っていました。あるとき、先輩議員がお辞めになる際、人事担当者が誰かやりたい人はいませんか、と省内に呼びかけたんです。カチンときましてね。ふざけたことを言うな、と。大事な役目なのだから、きちんと考え、誰か選ぶべきだろうと言ったんです。そしたら、しばらくして、では、あなたに決めました(笑)、と指名された。

山岡 投げかけた言葉がブーメランのように返ってきたわけだ(笑)。官界から政界に転じて、ご自身のなかで何がどう変わりましたか。

 河川や道路の公共事業に携わっていたときは、税金で、いかにいいものをつくるかに神経を集中していました。税金で仕事をしているのだから、国民への責任があります。立派なインフラをつくることが使命です。現場にずっと関わっていたので、業界とも付き合いは多少ありましたが、業界を健全にしようとか、契約方法を何とかしようとはあまり考えなかった。しかし、舞台が変わって、建設業界の代表として国会に入りました。公共事業が目の敵にされて、建設業界は死にかけていた。当然、どうすれば業界が健全になるのか考えます。そこで契約問題に行きあたり、根本的な誤りに気づいたのです。

山岡 何ですか。根本的な誤りとは。

 行政が「買い手」で、建設業は「売り手」だという根本的関係を取り違えているのです。私たちは、つい仕事を発注する行政が売り手で、建設業は買い手だと思いがちですが、実は、建設業はインフラをつくって国や自治体に売るからお金をもらえる。れっきとした売り手です。だけど、本来、生産者が有する値付けや商品の質や量をコントロールする術はない。すべて買い手の行政の指示に従わねばならない。売り手だけど弱い立場なので市場メカニズムなど働きません。ところが経済学者は公共事業にも市場原理を持ち込んで、市場メカニズムに従え、という。その結果、入札金額も、ただ単に安ければいいとなる。ダンピング合戦になって、業界が衰退しても平気。経済学者は独占禁止法まで持ち出して、正しい競争をしろと建設業を追い込む。そもそも独禁法は、生産者より弱い立場で、情報量も極めて少ない買い手の消費者を守るための法律です。行政は買い手とはいえ、圧倒的に強い、断然強い。業法に則って、売り手の建設業者を潰すことさえできる。公共事業で、何を、いつまでに、いくらでつくるかも決められる。それほど強い買い手を独禁法で保護するのは間違いです。業者間の正しい競争は必要ですが、公共調達をふつうの市場に置き変えようとする発想自体、間違いです。公共調達は、国や県、自治体が決めているのです。

山岡 なるほど、公共調達では売り手のほうが弱いんですね。なのに、一般に土木建設業界は強いと見られています。それは建築の分野で、家を建てたり、買ったりする場合、買い手である消費者のほうが弱く、当然、独禁法などで守られており、そのイメージが強いからではないでしょうか。

 そうそう。それはありますけど、震災後の国のお金の使われ方はどうもおかしい。たとえば、民主党政権は、サプライチェーンを守らなければならないと言い出して、部品メーカーとか、多くの企業に材料を提供している企業に3000億円、4000億円というお金をバラマキました。融資ではなく、返さなくていい補助金です。税金を私的企業にくれてやるのです。その根拠法は何かと訊くと、ない、と言う。そもそも税金は法定主義で、個人のお金を徴収するには法律に拠らねばなりません。だったら、自治体や公共団体に補助をするのならともかく、私的企業にお金を出すにも法律がいるはずだけど、ないのです。
 一方で、土木事業の入札で行政が設定した予定価格の9割以上で取ったら、不正があるのではないか、と拒絶される。安くしろ、安くしろです。建設業が疲弊したら災害復旧もできません。被災地で、真っ先に動きだすのは地場の建設業です。

山岡 確かに。東日本大震災後、地元の建設業がいかに懸命に「啓開」に取り組んだか、私も取材を通して知りました。

 大混乱のなかで動きだすのだから、行政と契約なんて交わしている暇はない。自分の家が地震で潰れても、真っ先に動かなくちゃ、人命を救えない。ところが、やっと状況が落ち着いて、かかった費用の精算をしようとすると「1社でやったのはおかしい。談合だ」とクレームをつけられる。これはまったくおかしい狂っています。議員になって15年、公共事業契約の適正化を主張し続けて、やっと最近、安ければいいではなく、まともな価格で受・発注する方向へ少しずつ変わってきました。

山岡 復興現場では、技術者不足、資材不足で労務単価、資材の高騰でコストがどんどんあがり、落札率も落ち込んでいるようですが……。

 それはいいんです。全部が筋道だってうまくいかなくても、デフレマインドを消すためには、それも必要。長いスパンで考えねばなりません。

■地方の定住性確保~「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ」

山岡 高知県の南海地震に対する多重的な防御、福井県のLNG(液化天然ガス)関連のインフラ整備、そして北陸新幹線。これらのプランも強靭化に位置づけられますか。

 そうです。地域それぞれの状況を入れこんでいます。そういう必要に応じて、先導的に強靭化が進んでいくでしょう。

山岡 米国のシェール革命の影響でロシアが慌てて、日本に天然ガスを売り込んできた。福井のLNG基地の建設は、エネルギー安全保障上も重要な意味を持ちます。最近、地方の衰退は仕方ない、大都市圏だけ活性化すればいいと極論を唱える人が増えていますが、地方が衰えたら、大都市圏も死んでしまいますね。

 現在の名産品のほとんどが幕藩体制下の江戸時代に生まれています。要するに各藩レベルの定住性がないと地域は栄えません。江戸が栄えたのも、そういう地方の繁栄が下支えしていました。定住性が確保されていないと、伝統文化も育ちません。その地域が嫌なら出ていけばいいという人たちの間では保守思想もひんまがってしまう。いまの自民党の保守思想も正しいものとは言い難い。保守と革新を取り違えています。

山岡 財政破綻したデトロイトからは市民がどんどん脱け出し、180万人くらいだった人口が70万人まで減っています。行政サービスは最悪。米国は土地が広くて、地価も安いから、嫌なら出て行けばいいけれど、平地が狭く、人口密度の高い日本では無理です。

 だから定住性の確保が重要なのです。私は、勝手に「7対3の法則」と言っていますが、その地域に生まれた人の7割くらいは定住して、3割は転勤族でもいいと思う。そのためには地方の産業とインフラは一体的に整備していかねばなりません。建設省に入って、最初に赴任したのが北陸地方建設局旧信濃川工事事務所でした。大河津分水路に立ってみると、天地雄大で青山士の「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ国ノ為メ」という記念碑の文言がずっしりと胸に響きました。明治の先達は、乾坤一擲の気概で事に当たり、大工事を成し遂げ、新潟の穀倉地帯が守られたのだと感じました。安ければいいという情けない発想は微塵もない。

山岡 インフラの価値を、私たちはつい忘れがちになります。

 9月中旬の台風18号の襲来で、京都の嵐山の近くを流れる桂川が氾濫して、渡月橋付近の旅館やホテル、みやげ物店、30件以上が浸水被害を受けましたね。京都市は、市民約27万人に避難指示を出しました。渡月橋は濁流を受けていましたが、あの災害で、もし桂川上流にダムがなかったら、橋は完全に破壊されていますよ。浸水被害はどこまで拡大したかわからない。国交省には、そういうデータも出して、ダムはいらないと言っている人たちに本気で考えてもらえ、と言っているんです。

山岡 戦後から高度成長期にかけて、とにかく、早くつくれ、とインフラが構築されたわけですが、その過程では政治を巻き込んだ歪みも生じています。最初の赴任地が新潟だったとのことですが、いまだに毀誉褒貶の激しい田中角栄・元首相をどうとらえていますか。「日本列島改造論」と国土強靭化の違いは何でしょうか。

 入省したばかりでぺーぺーだった私は、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中さんにお目にかかる機会はありませんでしたが、大きな役割を果たした政治家だと思います。列島改造論は、当時のことですから、新幹線、高速道路、橋など交通体系をよくすることが主眼だったように感じられます。総論としては、地方の産業とインフラ整備をリンクさせていますが、手法論の側面が強かったように思います。

山岡 総論としては大都市圏への集中を緩和し、地方に産業を分散し、国土の均衡ある発展を唱えていますね。

 ええ、国土強靭化と、根っこではつながっていますよ。しかし、過密、過疎がここまで進んでしまうと、本気で県レベル、自治体レベルで、じぶんたちの地域をどうするか考え直さなければ、取り返しのつかないことになる。国土強靭化は、そんな国家の構造そのものをしっかり見直そうと言っているのです。開発というより、国としてのありよう、地方としてのありよう、それを住民レベルでつくり直そうと提唱しています。どこかの業界、政党のためではありません。本気で国家の構造を考えず、地方分権と言いながら、わけのわからない「道州制」へと誘導したりするのは間違いでしょう。

山岡 道州制論議も、つきつめると行政の効率化ということですか。

 安ければいいという考え方の延長にある改革論です。だから疑問点だらけなのです。国会発の道州制論があってもいいけど、本当にそれでいいのか。国家が何を担い、地方政府は何を担当するのか。そのときに本当に道州制がいいのか。もう一回、国のあり方を原点から考え直す必要があります。そのために参議院では「国の統治機構に関する調査会」(会長・武見敬三氏)を立ち上げて、これから本格的に議論をしていきます。

山岡 この国のかたちが、いま真剣に問われていますね。

 国土強靭化は、そういう議論の入口でもあります。


2013年11月15日金曜日

第13回 参議院議員 脇 雅史さん(前編)

対談日:2013年9月27日  於:参議院会館

脇 雅史(わき まさし)さんプロフィール

1945年東京生まれ 1967年東京大学工学部土木工学科卒 参議院議員 土木学会フェロー会員

1967年建設省入省(北陸地方建設局旧信濃川工事事務所)、1974年中国地方建設局太田川工事事務所、1981年河川局開発課長補佐、1983年中部地方建設局三重工事事務所長、1985年河川局海岸課海洋開発官、1990年河川局治水課都市河川室長、1992年関東地方建設局河川部長、1993年道路局国道第二課長、1994年河川局河川計画課長、1995年近畿地方建設局長、1997年建設省退官
1998年参議院議員初当選(比例区自由民主党)、2004年参議院議員再選、2010年参議院議員3期目当選。

 この間、参議院国土交通委員会理事、外交防衛委員会理事、東日本大震災復興特別委員会理事、政治倫理審査会会長、参議院自由民主党国会対策委員長、参議院自由民主党幹事長、国土強靭化総合調査会顧問などを歴任


■公共事業悪玉論を払拭する国土強靭化

山岡 今回は「国土強靭化」に焦点を絞り、政界で最もパワフルに、この政策をけん引してこられた参議院議員・脇 雅史さんに話をうかがいます。現在、国会で「防災・減災等に資する国土強靭化基本法案」の審議が行われています。可決、成立は間違いないと思われますが、そもそも「自民党国土強靭化総合調査会」ができたのは2011年10月21日。東日本大震災の発生から7カ月後でした。会長は元運輸大臣の二階俊博さん、脇さんは副会長に就任し、法制化の陣頭指揮をとってこられました。調査会発足から、こんにちまでをふり返りつつ、国土強靭化とは一体何なのか語り起こしていただけますか。

 国土強靭化を最初に言い出したのは、京都大学の藤井聡教授ですね。『列島強靱化論――日本復活5カ年計画』(文春新書)を著しておられます。東日本大震災が発生し、日本は自然災害リスクに弱いことが明らかになった。こんな災害は二度と起こしてはならない。ハードだけでなく、ソフトも含めて、災害に強い、しなやかな国づくりをしようと谷垣総裁の下、自民党内に総裁直属の調査会を立ち上げました。ちょうど欧州や米国も同じような考え方で動いていました。リスクに強い国家構造にするには「コンクリートから人へ」は間違いです。コンクリートを使わねばならない大切なところもあります。いろいろ私たちも勉強するなかで法律がいるだろうとなって、当時、野党時代でしたが、「(旧)国土強靭化基本法案」をつくりました。

山岡 自民党は2012年6月に旧国土強靭化基本法案をまとめました。法案が発表されると、メディアは総投資額200兆円という数字をクローズアップしましたね。

 200兆円という数字は、ほとんど意味がありません。メディアは、そういうところばかりを強調するけれど、あまり意味はない。元々あった公共事業投資に震災の復興事業費を30兆、20兆と積み重ねていけば、10年で200兆くらいになるという話で、大した意味はないのです。それよりも重要だったのは、公共事業悪玉論、悪しき解釈で公共事業が沈んでいく現実を逆転させることでした。インフラをきちんと維持する価値観を復活させたかった。公共事業は悪で、予算も減らせばいいという極論が何をもたらすか。中央高速のトンネル事故は、その象徴でした。予め災害対応で、インフラの維持管理にお金を使っておけば、結果的に人の命も助かるし、施設も長持ちする。そのための強靭化です。

山岡 確かに、ここ十数年、公共事業の計画自体が害悪視されてきました。

 そもそもインフラは道路であれ、ダム、港湾、空港であれ、計画的につくらねばなりません。毎年、単年度でできるわけがない。10年、20年の期間を鑑み、計画的に建設しなくては整備できません。ただし、インフラ計画は単独のそれだけでは成り立ちません。上部概念としての国民生活、経済、社会活動をこうしたいから、下部としてのインフラが必要という関係になっていなければいけない。わが国は、戦後の焼け野原で、まず産業復興に着手しました。太平洋臨海部を中心に工業を発展させましたが、インフラ整備が遅れ、歪みが生じました。過密と過疎が起こる。そんな状況で、道路がない、製品をどう運ぶのか、と慌ててインフラをつくりだす。とにかく早く、実行することが正義で、なぜインフラが必要なのか訊くだけ野暮。30年もそういうことをやっていれば、当然、インフラも需要に追いついてくる。そうすると、地元との合意が難しくなり、何でダムや道路、橋がいるのか、と素朴な疑問が出てくる。その問いかけへの行政の答え方が不親切でした。その点は反省しなくてはなりません。上部と下部、経済計画と国土総合開発計画を大きなところでは繋いでいたが、各地域に落とし込んだ細かいリンクを張っていませんでした。そこに折悪しく、財政が悪化し、大蔵省(現財務省)が公共工事不要論を仕掛けたふしもあります。かつて自民党政権下で、インフラの整備計画自体が悪だ、と決めつけられて計画を放棄した。挙句の果てに「コンクリートから人へ」で息の根を止められる。半端な経済学者は計画論イコール統制経済とみなして、すべて市場でやればいい、と言ったのです。

山岡 新自由主義的な市場原理主義の台頭ですね。市場メカニズムを絶対視しています。

 そういうインフラ整備への不幸な経緯を、国土強靭化は払拭するのです。

山岡 しかし、旧強靭化基本法案は野田政権下で廃案になりましたね。

 民主党内にも少数でしたが、われわれの考えに賛同する動きもありました。藤井さんも民主党内の勉強会に招かれています。党派を超えた共感もあった。が、現実的に野党の立場では、政策を遂行できませんし、予算も使えない。政府との打合せもできない。まず私たちの考えを世間にアピールしなくちゃいけません。若干、荒唐無稽でも理念を明示する法律をぶちあげる必要がありました。そこで旧強靭化法案をまとめたのですが、世に訴える法案ですから、パフォーマンスの側面がなくもない(笑)。野党時代と、与党時代の法案が違うのはおかしいと言う人もいるが、法案の持っている意味合いが違いました。


■国土強靭化の目玉は都道府県、市町村による「国土強靭化地域計画」

山岡 昨年末、自民党が政権を取り戻し、第二次安倍政権が誕生しました。首相の安倍さんは内閣官房に「国土強靭化推進室」を設け、側近の古屋圭司さんを担当大臣のポストに就けました。自民党の国土靭化総合調査会のメンバーが担当大臣になるのかな、と見ていたら、やや意外でした。党と政府の間にすきま風みたいなものは……(笑)

 ないです。閣僚人事は総理の専権事項ですからね。

山岡 官邸の国土強靭化推進室は、諮問機関の「ナショナル・レジリエンス懇談会」を設け、藤井さんを座長に強靭化の具体案を練りました。一方、自民党は連立相手の公明党と「国土強靭化基本法案プロジェクトチーム(PT)」立ち上げ、脇さんが座長に就かれた。

 それは、自民党が政権与党に返り咲いて、強靭化を進めることを前提に法制化を図ろうとなりまして、PTの座長になるよう私に要請があり、お受けしたんです。

山岡 野党時代とは違う、与党としての法制化のポイントは何ですか?

 インフラ整備の不幸な経緯の払拭とともに「デフレからの脱却」も重要なポイントです。国土強靭化は、アベノミクスの「3本の矢(金融緩和・財政出動・成長戦略)」の2本目に位置づけられるわけで、デフレギャップを埋める有効策です。デフレギャップは10兆円ぐらいあるけど、不必要なものに公費は使えない。一方で、地震対策やインフラの維持管理にお金が要るのは自明ですから、まずは、そこに投資をしましょう、というわけです。デフレ脱却の財政出動に論理的解答を与えることも国土強靭化の使命だと、私は思っています。それとデフレから脱却するには、消極的な縮み志向の「デフレマインド」も振り払わねばなりません。公共事業の予算を減らせばいいという考え方の背景にも、心理的なデフレマインドがあります。

山岡 デフレが続くと、企業は内部留保をため込みながら、積極的な投資をしなくなる。個人も消費にお金を回さず、預貯金でため込む。経済的に余裕のある高齢者は、物価低迷の恩恵に浴して幸福感を味わえるかもしれないが、若い世代は給料が上がらず、非正規雇用も増えて将来への希望が持てない。悪循環が続きますね。

 だから、そこを断ち切るのです。新たな国土強靭化基本法案では、強靭化の基本計画をしっかり立てることを主眼に置いています。基本計画によって、政府全体に必要な分野に取り組んでもらわなくちゃいけない。すでに各省庁にはそれぞれ計画があります。

山岡 強靭化の議論から浮上したのは、①行政機能/警察・消防等、②住宅・都市施設、③保健医療・福祉、④エネルギー、⑤金融、⑥情報通信、⑦産業構造、⑧交通・物流、⑨農林水産、⑩国土保全、⑪環境、⑫土地利用などの分野ですね。

 そうそう。政府が国家として、日本のぜい弱性を、いろんな分野ごとに評価し、洗い出す。そのなかで、優先順位をつけ、国土強靭化の理念に沿った基本計画をつくる。その基本計画のもとに各計画をすべて見直し、実際の事業に取り組んでいく。ですから、国土強靭化基本法は、全体を覆う傘、いわゆるアンブレラ方式で各プランを包括するのです。難しいのは、今までの行政の事業をどう整理するか。それぞれの行政が、この予算科目は強靭化に入れる、入れないとすべてを強靭化で吸い上げようとしたら、わけのわからない計画になりますね。だから、現在、すでにある計画を強靭化の概念に沿って、リスクを管理し、より安全で安心なものにするには何をすべきか、自発的に考えてやりなさい、という意味で基本法なんですよ。

山岡 と、言うことは、国土強靭化という国家プロジェクトがあって、そのために特別の財布をこしらえて公的資金を入れ、公共事業を執行する、というのではないのですね。各省庁が既存の計画を、国土強靭化の理念と優先順位に沿って見直し、実行する、と。

 その時々の財政事情が違うわけですから、強靭化でこれだけ必要だから、この金を使えといっても、できないものはできない。デフレ脱却と同時に財政再建も重要だし、状況は変わります。だから200兆円云々なんて意味がない、と申し上げています。来年度の予算要求では、各分野で強靭化の脆弱性調査を行い、とくに急がれるものを拾い上げて、5000億円程度になっています。すでにできるところから始めています。

山岡 そこで、重要になってくるのが都道府県、市町村の役割ですね。

 そうです。国土強靭化の最大の目玉は、都道府県や市町村が基本計画を受けて「国土強靭化地域計画」をつくることです。地方自身が強靭化の視点で20年後、30年後、どんな地域にしたいか、どんな産業を栄えさせ、どんな暮らしを営みたいかを考え、アイデアを提案する。そこに各省庁の補助金などが組みこまれていくわけです。

山岡 地方自治体が自らビジョンを描くのですね。それは理想でしょうが、困難でもある。

 正直言って、計画づくりに慣れていない地方は戸惑うかもしれません。しかし、地方も自立が求められています。いいアイデアを出した地方にはお金がつく一方、悪いアイデアしかないところは衰えていく。それが実情でしょう。いまでも、山の中の過疎地に、電柱が一本もない街ができて、産業の活性化が進んでいるところもあります。いいアイデアを出すには住民の意見を採り入れ、地方政府も頑張らなきゃいけません。そのためには、これまでの消極的なデフレマインドと決別して、前に進むしかないのです。

■国土強靭化か、ナショナル・レジリエンスか――法案名称をめぐる綱引き

山岡 話題を、法案策定のプロセスに移したいのですが、今年5月20日、二階さんが提案者代表になって、自民党、公明党の共同提案で「防災、減災等に資する国土強靭化基本法案」が国会に提出されました。与党のPTと官邸の強靭化推進室との役割分担はどうなっていたのでしょうか。

 さまざまな面で調整しながら進めましたよ。われわれ立法府の役割は、法案を審議し、成立させることですが、実際に仕事をするのは役人、行政ですね。法案をつくる際には理念の整理、実際の行政上、こんな法案でいいのかどうか、推進室はもとより、各省庁と調整しながら、進めました。総理大臣以下、役割分担は法案に書いていますから、国会を通れば、すぐに実行可能になります。

山岡 法案は議員立法で提出されましたね。なぜ内閣提出法案にしなかったのですか。

 本質論として、閣法がいいと私は思います。閣法は、内閣法制局がこれまでのすべての法律と法案を突き合わせ、体系的に整理し、齟齬がないよう膨大な審査作業をしてまとめます。非常に完成度が高い。一方、議員立法は、衆・参法制局が審査しますが、どうしても力関係からして、ツメの甘い部分がでてきます。議員の熱意にほだされて、まぁ害がなければいいか、とまとめられるケースもあります。私は、閣法でやるべきだと奨めたのですが、時間的制約がありました。アベノミクスが現実に始まり、第二の矢の理論的支柱である国土強靭化を遅らせるわけにいかない。速度を重視し、議員立法にしたんです。ただし、内閣法制局は通らなくても、各省の目は全部、通させました。

山岡 法案の名称に「ナショナル・レジリエンス」と入れるかどうかで厳しく対立した局面もあったとか……。

 それは二階会長の強靭化への思い入れの強さですね。党の調査会の設置以来、一年半、数十回にわたって議論してきたわけですよ。なじみのなかった強靭化という言葉も、やっと法律用語になり、一人前になりかけたときに公明党が強靭化では嫌だ、と言いだして、何を言うか、とやりとりがあって、若干の調整が必要でした。

山岡 公明党は選挙公約に「防災・減災ニューディール」と称し、公共事業推進の看板を掲げていました。災害対策面を強調するとともに、公共事業へのバラマキ批判を交わすためだったとも伝わっています。支持母体の創価学会の防災、減災へのこだわりも強い。それで内閣府の参与が自公の間を取り持つつもりでナショナル・レジリエンスという言葉を持ってきた。実際に官邸の有識者会議には、その名前がつきました。しかし、二階さんは、冗談じゃないと、突っぱねたのですね。

 ええ。二階会長は、強靭化の名で会議をしてきたのに急に変えるのはおかしい。そんなに愛着のないことでどうするんだ、とお考えでした。地方のお年寄りにレジリエンスなんて言っても通じない。なんで今さらという自負心ですね。私は、個人的には名前にこだわりはなく、理念がしっかりしていれば強靭化でなくてもいいかな、と思いましたが、二階会長の強い思いを尊重したんです。最終的には総理に決断しもらおうかと思いましたが、そこまで煩わせてはいけないので、「防災、減災等に資する」とつけて法案名にしました。

山岡 法案が成立すると、基本計画をまとめる「国土強靭化推進本部」が重要な鍵を握ります。総理を本部長に官房長官、担当大臣、国交大臣が副部長として入る。本部の組織体制はどうなりますか。

 そこは行政の仕事だから、私が口を出す筋合いではありませんが、総理は、強靭化の重要性を認識しているから、各省庁から代表者を集め、ふさわしい組織にするでしょう。

山岡 ナショナル・レジリエンス懇談会の藤井座長は「大至急対応が必要な『重点プログラム』における施策例」として、住宅・建築物の耐震化、大規模津波対策総合事業、都市部における集中豪雨対策、巨大地震リスクを想定した食料供給体制の強靭化などを示しています。これらは強靭化の具体的メニューととらえていいのでしょうか。

 はい、そうですね。ただ、くり返しますが、財政事情で変わります。強靭化基本計画は、財政事情で決まる毎年度の予算、あるいは5年、10年先の予算に対する「元帳」みたいなもの。財政事情やデフレ脱却というさまざまな政策のなかで、毎年度、元帳に照らして、強靭化への予算も変わる。元の計画ですから、200兆どころか1000兆あっても困りはしませんよ。

(後編に続く)

2013年10月31日木曜日

第12回 鹿島建設副社長 田代民治さん

対談日:2013年8月27日  於:土木学会会議室

田代民治さんプロフィール

1948年福岡生まれ 1971年東京大学工学部土木工学科卒 鹿島建設株式会社代表取締役副社長.
1971年鹿島建設入社.川治ダム,恵那山トンネル,厳木ダムなどの工事事務所を経て1994年同社横浜支店宮ケ瀬ダム本体JV工事事務所長,1995年広島支店温井ダムJV工事事務所工事長,2000年東京支店土木部長,2005年執行役員東京土木支店長,2007年常務執行役員土木管理本部長,2009年取締役専務執行役員土木管理本部長.2010年から現職.
この間,日本建設業連合会公共工事委員長,日本建設情報総合センター(JACIC)理事,日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)理事,エンジニアリング協会理事,日本河川協会常任理事,ダム工学会副会長,日本ダム協会理事・施工技術研究会委員長,日本大ダム会議理事,土木学会理事・副会長などを歴任.


■川治ダムで職人たちに教えられた現場感覚

山岡 本日は、インフラ建設の現場を知り尽くす田代民治さんに技術者の本音をお聞きしたいと思います。田代さんは1971年に鹿島建設に入社され、川治ダムを振り出しに、中央高速の恵那山トンネル、厳木(きゅうらぎ)ダム、宮ケ瀬ダム、温井ダムと1974年から26年間、現場に関わった後、管理部門に移られました。そもそもインフラづくりを志したきっかけは何だったのですか?

田代 大学は橋梁研究室を出たのですが、自然を相手に巨大で人の役に立つものをこしらえたいと思い、山岳土木を志向しました。学生時代に観た『黒部の太陽』(1968年公開)の影響もありますね。黒部川第四発電所(黒四ダム)建設では、資材輸送のための「関電(大町)トンネル」の開通工事が難航を極めました。破砕帯の突破に7カ月もかかったのです。この映画は困難に立ち向かった男たちの物語です。主演の三船敏郎さん、石原裕次郎さん、さらにトンネルの先に建設された実際の黒四ダムの圧倒的なスケールに心打たれました。

山岡 最初の現場、川治ダムでは、どのようなことを先輩から教えられましたか?

田代 現場の所長が、ダムの上流側に私を連れて行ってくれまして、「きみ、ダムができた姿が見えるかね。俺には見える。きみも見えるようになったら一流のダム屋だ」と言われました。びっくりしました。目の前には雄大な山と、渓谷があるだけですからね。

山岡 明治維新の軍略家・大村益次郎は地形が読めて作戦を立案できたと言いますが、現場の所長の想像力は相当なものですね。

田代 おそらく頭のなかで三次元の図面を組みたてていたのでしょう。現場では、職人から技術を教わりました。彼らは、荒っぽくて気難しそうだけど、凄い感覚を身につけていた。たとえば、山の稜線は一律に同じ角度で傾斜しているわけではなく、部分的に平なところもあります。図面では、その下の急斜面から切る(掘削する)ようになっていても、ちょっと待て、平なところから切ったほうが安全だ、と教えられました。ごくわずかの角度の変化なのですが、彼らは、それを見抜く目を持っていました。あるいは、発破をかける職人は、岩盤の目の具合や、吹き飛ばした土石の崩れ方、どの方向にブルドーザーで押して、どうすくって土捨て場に運ぶのかを考えたうえで、爆薬や詰め物を調整していました。そして、最も効率のいい方向へ岩盤を倒していた。他にもケーブルクレーンを据え付ける職人、コンクリートを締め固める職人、それぞれ土木屋としての高いプライドを持って働いていました。新人だった私は、彼らから土木技術の現場における基本を教わりました。

山岡 以前、私は、70代の元建設官僚から、田中角栄・元首相に中央工学校で土木のイロハを教えたのは、東京都建設局長を経て参議院議員、衆議院議員を務めた石井桂氏だったと教えられました。「田中に青竹でコンクリートを突いて、締め固めるのを教えたのは俺だ」と石井氏は言っていたそうですが、田中の政治家としての国土建設への執念は、現場の経験、現場に継承された土木の遺伝子なくしてはありえなかったと思ったものです。

田代 われわれの時代は、もう竹で突っつくようなことはなかったのですが、昔は、一輪車にセメントと砂利を載せて運んで、コンクリートを練ることもやっていました。ものをつくるからには、きちんと仕上げたい、いいものにしたいと思うのは、日本人に共通のDNAだと思いますねぇ。



■自然と調和する感覚を三次元CADで視覚化したい

山岡 田代さんが技術者として研鑽を積まれた1970~80年代は、土木技術が急速に進んだ時代でもありました。

田代 その象徴が油圧式機械の普及です。油圧式で小さな装置で大きなものを動かせるようになり、微妙なコントロールもできるようになった。コンクリートの締め固めも油圧式機械でやるようになりました。安全面でも格段に向上した。油圧革命と言ってもいいでしょう。

山岡 機械の進歩が、熟練した技術者の研ぎ澄まされた感覚を後景に追いやったのかもしれませんが、図面では描けない現場感覚、あれっ、これは少し違うぞとか、もっとこうしたほうがいいという感覚は、機械が代行できるものなのでしょうか。

田代 その「あれっ」という感覚は、私なりに言うと、自然と調和する、自然となじむ感覚なんです。それは山や川と毎日、向き合って培われます。じつは、私は、その感覚を、何とか視覚化したくて、三次元CADを初めてダムの計画に応用したんですよ。宮ケ瀬ダムの計画のときでした。たぶん日本で一番早く、入れたんじゃないかな。土木の設計・計画にとって重要なのは、見えないものを見えるようにすることです。地形とか、地質とか、情報を全部入れて、三次元CADにすれば完成形に近いものができると思ったのです。

山岡 川治ダムの所長が「俺には見える」と言ったダムの姿を三次元CADで描こう、と。

田代 そうですね。図面上でも三次元にすれば、ここはちょっとおかしいな、というのは気がつきます。実際にはまだ山を掘っていなくても、図面上でも一応掘った形が見えます。だから、宮ケ瀬ダムの片側の天端は、もともと道路をつけるプランだったのですが、三次元CADでチェックしたら、山が無茶苦茶になってしまうので、トンネルに変えてもらいました。

山岡 景観的なこともシミュレーションできるということですか。

田代 そうですね。世のなかが景観重視へ変わるにつれて、三次元CADで視点を変えて、いろいろ描いてチェックするようになりました。それと、設計段階を大きく変えたのはコンピュータの発達ですね。私たちが新入社員だったころは、まだ手回し式の「タイガー計算機」でした。足し算、引き算機能があって、加減計算を連続して行うことで掛け算、割り算にも対応するというものです。その後、関数計算機が出て、コンピュータになって、自動化がどんどん進みました。測量の分野では、光波測距儀が普及して、いまではGPSも利用できるようになりました。まさに隔世の感があります。しかし、そうやって技術が進んだために職人を現場から追い出してしまったのかもしれないですねぇ。

山岡 技術が進む一方で、1990年代に入ると、自然環境とダムのあり方を見直す声が高まりました。脱ダム宣言も出されました。どのように受けとめましたか?

田代 脱ダムで、インフラいらない、と言われると、俺たちは、いったい何のためにやってきたのか、と愕然としました。私は、インフラをつくって人の役に立てる、自然と向き合って、ものをつくる。この二つを人生の大きな歓びにしていました。それを、いらない、と言われると……。現場の人間としては歯がゆかったですね。確かに、ダムの建設によって先祖代々暮らしてきた土地を追われた方々もいました。故郷が水没してしまう悲しみは想像を絶するものかもしれません。そういう方々ともおつき合いしてきました。それなりに新しい生活に踏み出された方もいます。だから、自然破壊だと言われると、ちょっと待ってほしい。高度成長を支えた電力は、どうやってつくられたのですか。戦後、毎年のように水害で多くの人が命を落としていたのを安全に治水ができるようになったのは、ダムと関係ないのですか。水がない、渇水だ、ダムをつくれと、マスコミは大騒ぎをしていたのを忘れたのでしょうか。冷静に、インフラを見つめてほしいです。

■アルジェリアの高速道路建設

山岡 この連載を通して「適切な公共事業とは何か」「正しいインフラ整備って何だろう」と私は自問してきました。戦後の高度成長期からバブル期にかけて、右肩上がりの成長プロセスで、残念ながら土木建設業界と政界、官界が癒着し、国民の信用を失ったのは事実です。無駄な公共事業もあったでしょう。だからといって、公共事業はすべて悪、公共投資は減らせるだけ減らせばいい、というのは無謀です。極端な二項対立、オール・オア・ナッシングの思考は混乱しか生みません。では、社会全体にとって理想的なインフラ整備とは何か。よりよい方向へ進むにはどうすればいいのか。改めてそこが問われています。

田代 海外に行きますと、日本は、なぜ、あんな小さな国なのにアメリカや中国に劣らない力を持っているのか、敗戦の痛手も受けたのに、なぜ経済力をつけたのかと不思議がられます。日本が力をつけた理由のひとつは、インフラの力だと思います。世界で水道の水が飲めるのは日本くらいです。交通網が整備され、分刻みで鉄道が正確に運行されている。電力供給のシステムが整い、停電はほとんどありません。このような高いレベルの生活が維持できているのは、インフラがきちんとつくられてきたからではないでしょうか。すべてインフラだけが支えているとは言いませんが、大切な要素には違いないと思う。

山岡 日本人の勤勉さや、互いに協力しながら何かをこしらえる特性が、質の高いインフラを構築してきたのでしょう。

田代 じつは、うちの会社はJVで北アフリカのアルジェリアで高速道路の建設をしています。なかなか、お金を払ってもらえなくて、苦労しているのですが(笑)。東西に走る1200㎞の高速道路のうち、日本は400㎞を担当しています。600キロは中国が請負っています。アルジェリアでは、お世辞半分にしても、日本の技術はすごいと言われます。われわれの受け持ち区間にはアージライトと呼ばれる超脆弱な地質のところがあって、トンネルを掘るのに苦労をしてきたのですが、日本の技術なら大丈夫だと信頼されています。この技術的信用力が、日本のバックボーンなのです

山岡 中国が気になりますが、中国はどんな方法で高速道路を建設しているのですか。

田代 日本と違って、人海戦術が中心ですね。彼らは労働者もごっそり中国から連れてきます。国策でやっていますから、パワーを感じます。舗装など普通の作業だけなら、そんなに難しくないです。人海戦術は、日本には真似できません。われわれには、現地の人を使い、現地の技術を高めることも期待されていますからね。

山岡 中国の労働者海外派遣にはいろんな噂がつきまとっていますが……。

田代 労働者がどういう人たちなのか、わかりませんが、現地で宿舎を建てて生活をしている状態を見ると、豊かな人たちではない。どこでも暮らせる雰囲気の人たちですね。

山岡 アルジェリアの現地の人をどう使うか。マネジメントは難しいでしょう。

田代 やはり、宗教の違いが大きいですね。とくにイスラムの人たちとは。向こうが日本人の良さを理解してくれるといいのですけど、なかなか難しい。地質の悪い、難しい工区では、どうしてもキチッと日本人はやりたがる。いい加減なものはつくれないという自負があります。それは江戸時代の玉川上水をつくったころから日本人の土木屋のなかで積み重ねで養われてきたものです。だから、ついやり過ぎてしまう。そうすると、うまく利用されてしまう。なかなか簡単ではない。



■土木の未来

山岡 では、将来に向けて、土木技術をさらに発展させていくには、どのような課題が考えられるでしょうか。

田代 日本の土木技術は、複雑な地質や地形、さまざまな状況に対して、ハイレベルを維持しています。しかし、それだけでは世界に売れません。やはり、総体的なシステムとして売ることを考えねばならないと思います。新幹線のシステムの売り込みは、よく話題に上りますが、水の配分システムも十分可能性があると思います。川の上流にダムをつくって、浄水場で処理して、飲める水を管理して配る。上下水道のシステムを、建設会社だけでなく、オールジャパン体制で輸出する。ある程度、パッケージにすることが大切でしょう。そういう意味では、土木技術者は、全体を俯瞰できる目があるのではないでしょうか。全体を見とおす力を、土木は学問的に持っています。

山岡 常々、私が着目しているのは「海」です。日本の海岸線は非常に長く、領海と、沿岸から200海里の「排他的経済水域」を合わせた広さは、世界で第六位。そこには、豊富な海洋資源が眠っています。

田代 海は、重要な視点ですね。わが社もJV代表会社としてゼネコン、マリコン、ファブリケータなどと一緒に、羽田空港の四本目の滑走路「D滑走路」の建設工事を行いました。世界でも珍しい埋立と桟橋を組み合わせたハイブリッド工法を採用しました。海洋の可能性は高まっています。これからの技術開発の焦点になるでしょう。

山岡 インフラの老朽化問題は、どのようにとらえていますか。

田代 高いレベルの生活を保つには、よりよい性能へとインフラを更新する必要があります。高速道路のトンネルの天井版だって、最近の高速道路には設置していません。古いものをそのままにせず、新しくして質の向上を図る。鉄道は、リニア新幹線が決まって技術力は上がるでしょうが、他の分野でもイノベーションのためにはインフラの更新が不可欠です。ダムにしても、電力と治水のダムを組み合わせれば、新たな可能性が拡がります。

山岡 電気、水道、ガスなどライフラインの老朽化も進んでいます。

田代 シールド工法が確立されて、ライフラインをまとめて地下に通す「共同溝」が、すでに出現しています。東京湾や名古屋湾の海底の地下では、エネルギーの供給ラインが共同溝で造られている。シールドにしておけば、点検も簡単にできるし設備の交換も容易で、長寿命化につながります。古くなったインフラを、ずっと使い続ける、朽ちるのを遅らせるというだけでは、限界があると思います。更新が次々と行なわれ、身近なインフラが変わって注目されれば、現場の人間たちの士気も間違いなく、上がります。

山岡 見えないものを見る「可視化」は、今後も土木技術の鍵を握りますか。

田代 「時間」を取り込んだ四次元へと可視化の範囲は拡がるのではないでしょうか。物理的に見えない部分を透視するとともに、この時期、この時期、と時間経過でものを眺めることが、土木にとっては有効なのです。見えない水脈や、地質の断層を可視化すると同時に時間軸を入れた情報を組み合わせてみると、非常におもしろくなりますよ。

山岡 最近は、CGを駆使した津波シミュレーションとか、土石流の解析シミュレーションなども開発され、防災・減災面での活用が拡がっています。

田代 あれは、動画として時間を採り込んでいますね。勝手な想像かもしれませんが、日本全国、すべての地質がね、情報として見えたら、それはすごい話になります。よくハザードマップと称して、危険地帯を示したりしていますが、どこまで危険なのか、なかなかわからない。あれを、もっと統一的に詳細に広範囲でまとめたら、かなり有効なデータになるでしょう。

山岡 不動産業界は震え上がるかもしれませんが、徹底的にやったらすばらしい。


2013年10月15日火曜日

第11回 橋梁調査会専務理事 西川和廣さん

対談日:2013年7月26日  於:土木学会会議室

西川和廣さんプロフィール

1953年東京生まれ 1978年東京工業大学大学院 理工学研究科 修士課程 土木工学専攻。(一財)橋梁調査会専務理事。
1978年建設省土木研究所橋梁研究室研究員、89年建設省東北地方建設局酒田工事事務所長、91年建設省土木研究所橋梁研究室長、2003年(独)土木研究所企画部長、2009年国土交通省国土技術政策総合研究所長などを歴任。

専門は橋梁工学。橋梁の維持管理の第一人者。道路橋示方書の改訂に長期にわたり参画。阪神淡路大震災時には鋼製橋脚の耐震補強の研究にも携わる。土木学会論文集他、学協会誌掲載論文多数。


■「荒廃するアメリカ」と山形県酒田の現場―トリアージで救える橋がある

山岡 今日は、橋梁に焦点を絞り、維持管理の理論と実践のトップランナー、西川和廣さんをお迎えしました。西川さんは、橋の経年変化、老朽化の問題に工学的視点から最も早く、警鐘を鳴らした専門家です。1980年代初頭、米国でインフラの老朽化が大きな問題となり、『荒廃するアメリカ』という本がベストセラーになりました。まさにあの時期に渡米し、維持管理の研究をされておられます。

西川 83年9月から1年間、ペンシルベニア州のベツレヘムという町のLehigh大学で研究をしました。米国道路庁の人に会って、率直に訊ねたところ、「米国では最近まで橋の維持管理をしなくてはいけないとは思っていなかった」と言われました。やっぱり、そうだったのか。日本とまったく同じだった(笑)。ただ、米国では1968年にシルバー橋が落ちて、2年に1回点検する法律ができて、点検する技術者を教育するNHI(National Highway Institute )もつくられており、しくみは素晴らしかったのです。ところが、その割に橋が落ちる(笑)。行政が予算をつけて「米国の橋はなぜ落ちるのか?」と大学に研究させました。結論は、財源の問題。維持管理にお金が回らないからです。米国でも別途予算を用意しなくてはなりませんでした。当時、ガソリン1ガロンに対して、ガソリン税を4セント増やして道路の維持管理費に充てていました。

山岡 米国の道路や橋は、かなり傷んでいましたか?

西川 ニューヨークの高速道路はガタガタでしたね。でも、まだ使っていました。ベツレヘムの地元紙にはいつもどこそこの橋が閉鎖されたと載っていました。現場に行ってみると、橋に穴があいたり、腐っていたり……。財源的理由とは別の意味で、工学的観点からみても、実際に米国の橋はよく落ちました。理論通りにつくっているから、理論通りに落ちる。日本の橋は、欧州の橋と設計の流儀が近いからかもしれませんが、なかなか落ちません。

山岡 日本は安全率を高く見積もっているからですか。

西川 いや、そうではなく、思想の違いです。日本では橋の床であるコンクリートの床版と、それを支える床桁を、橋本体のトラス構造とガチッとくっつけて固定しています。そうしたほうが、何かあったとき役に立つだろう、という考え方です。米国はそうではなく、本体の上に支承という支点をかませて、その上に床桁をポンと置いている。だから落ちる時はストーンと落ちる。日本の橋は、トラスが一本くらい切れても、床ががんばって首の皮一枚で止まる。先輩方のつくり方がフェイルセーフになっていました。欧州流が役立ったのでしょう。

山岡 米国から戻られて、建設省本省の道路局を経て、東北地方建設局酒田工事事務所長に就任されていますね。そこで、過酷な状況に直面されたそうですが……。

西川 ええ。山形県の日本海側を走る国道7号線、ここは波浪のしぶきが危険で交通止めになるほど海岸に近い場所を通っています。それで塩害が凄かった。コンクリート橋が架けて10年後くらいから塩害が出始めて、ピアノ線で引っぱっていたけれど、コンクリートのなかはボロボロ。構造的な計算をしたら、落ちないのが不思議なくらいでした。ここでも床版が頑張ってくれたお陰で、落橋を免れていた。損傷のダメージの大きな順に橋を直していたのですが、追いつかない。最終的に15橋、すべてを架け替えることになりました。いまから思えば、トリアージをして、損傷度の低い橋から直せばよかった。

山岡 トリアージは、災害救援時の緊急医療の考え方ですね。手当てをしても助かる見込みのない患者より、救える可能性のある患者の治療を優先する。厳しいようですが、ひとりでも多くの命を救おうという取組みですね。

西川 維持管理というのは、リアリズムの世界なんです。起きている現象に対して、帰納的にどう対応していくかが重要です。一方、新しい橋をつくる設計は、理論、仮定、条件を積み重ねると一定の正解にたどりつきます。つまり演繹的手法。学校でも教えやすい。しかし、維持管理は、そうではない。波しぶきを毎日のようにかぶる、とてつもない重量のクルマが通るなど、与条件がどんどん変わります。そこで発生した現象の解釈から始まり、帰納的に対策を立てねばなりません。設計と維持管理は思考回路が逆なのです。

山岡 おもしろいですねぇ。それは法学と臨床医学の違いに似ています。法学は、演繹的に法体系を構築する。逆に臨床医学は、患者の体で起きている現象、症状を診断し、帰納的に治療方法を探る。思考のベクトルが違うので、たとえば医療現場で起きた事故を、法的に裁こうとすると難しい。医療側の明らかなミスや怠慢は別ですが、患者の生命を救おうとした治療の過程で起きた事故を、法体系の枠組みで解釈するのは困難です。


西川 おっしゃるとおり、維持管理は臨床医学に似ているんです。コンクリート橋にとって塩害は大敵です。橋の寿命を縮める。どうすれば予防できるのか、延命できるのか、いろいろ試行錯誤しました。その結果、要するに塩害は「肝臓病」だと気づきました。肝臓は我慢強い臓器なので、症状が出てからでは遅すぎる。だったら「血液検査」をしましょう。橋のコンクリートのコアを適当な時期に抜いて、輪切りにして検査をします。コアの表面にどの程度塩が飛んできているかと、浸透した塩分量でコンクリートの質がどうかをチェックすれば、将来像が大体わかります。

■1990年代前半に提唱した「工学的永久橋」と「ミニマムメンテナンス」

山岡 なるほど。そうした研鑽を経て、西川さんが提唱されたのが橋の長寿命化に向けた「ミニマムメンテナンス」。1990年代前半、土木業界では「橋の寿命は50年」と言われていた時代に、長持ちさせて、きちんと補修しながら使おうと正論を唱えられた。なかなか勇気がいったでしょう(笑)。

西川 ははは。土木学会の研究討論会で長寿命化の話をしたら、そんなことをしたら橋の需要がなくなるじゃないか、と面と向かって言われました。私、そのとき大声で怒鳴り返しました。そういう時代でした。

山岡 怒りはどこからこみあげてきたのですか。

西川 あのころ、15m以上の主要な橋が13万橋。50年で寿命が尽きるなら、13万橋を維持するには、13万を50で割って、毎年2,600橋架け替えないといけないことになります。新設橋は年間大体2,000橋でした。更地につくることが多い新設橋と違って、使われている橋の架け替えは仮橋をこしらえたり、交通規制を行なったりしながらの工事になる。お金も手間も時間もかかります。日本各地で、そんな工事が行われれば大渋滞が発生して、途方もない社会的損失になる。現実問題として2,600橋の架け替えなどできるわけがない。

山岡 できもしないことを、当然のように言うのは幻想ですね。西川さんの維持管理のリアリズムに反したわけだ。では、ミニマムメンテナンスとは?

西川 「工学的永久橋」という概念を提唱しました。そもそもメンテナンスフリーで、全然手入れをしないというのは大間違いです。最小限の手入れ=ミニマムメンテナンスで、永久橋、当時は1000年橋と言っていましたが、最近、かなり値切られて100年になりましたけど、要は長持ちする橋をつくろう、という考え方を提起しました。最小限の手入れでも、永久橋ができる。橋の寿命を延ばすには、計画設計、施工、維持管理の3回チャンスがあります。まずは、計画設計段階で、環境に応じた仕様が大切です。たとえば、橋桁の鋼材でも、山間部の寒冷地で腐食の心配が少ないところなら耐候性鋼材の無塗装のものが使える。一方、海岸部であれば、塩害、腐食のリスクが高いので溶融亜鉛めっきと塗装の併用が望ましい、とか。

山岡 1000年橋とは、強烈なインパクトがあったでしょうね。


西川 橋梁メーカーはショックを受けたようですが、いろいろ一緒に考えてくれるようにもなりました。誤解しないでほしいのは、私は橋の架け替えがダメだと言っているわけではないのです。重要度の高い橋や、損傷の度合いの大きな橋のなかには、当然、架け替えねばならないものもあります。あるいは国に経済的に余裕ができて、陳腐化した橋を国民の生活水準に合ったものに架け替えようというのであれば、やればいい。問題は、根拠の薄弱な理由で、どんどん架け替えればいいとする、安易な考え方なのです。年間2600橋の架け替えなんて無理。橋の平均寿命が50年というのは、50年経った橋の50%がダメになるという考え方です。私は、この割合を20%、10%にできないか、と考えたのです。全体を後ろのほうに倒すのであれば、架け替えの仕事も、なくなりはしません。

■市町村が管理する橋に国のモノサシ(保全基準)は合わない

山岡 時代を先取りしたミニマムメンテナンスの提案から、20年ちかく過ぎました。予想どおり、古い橋が増えています。ところが、橋の維持管理をできる技術者が減っていると聞きます。これは由々しき問題ではありませんか。

西川 かつては、建設省が土木・建築業界にどのくらいの需要があるか目配りをしていました。昨今は、公共事業削減が続く中でほとんど目配りできていない。その結果、最低限必要な技術者すらいなくなっています。その一方で、技術開発、技術の継承をしろ、というのは矛盾でしょう。困っているのは、長大橋です。すごく厳しいです。10年以上、日本の企業は大きな吊り橋を架けていませんからね。辛うじて、海外で下請けの架設をやっていたり、地方自治体の離島架橋をやっていたりしていますが、技術の継承と言ってもぎりぎりのところではないでしょうか。

山岡 本四連絡橋は、日本の橋梁技術の高さを象徴するものでしたが……。

西川 残念ながらもう仕事がないんです。本四の会社に残っている人で、実際にご自身で吊り橋をつくることに関わった人は、ほとんど退職した。あるいは辞める間際の人しか残っていません。その後、入った人たちは、気の毒だけど、つくるところは経験していない。でも、本四連絡橋は、当初、かなりお金をかけているし、対策も練っています。まだ、大丈夫です。

山岡 では、日本の橋全体の維持管理は、どこから、どう手をつければいいでしょうか。

西川 私も国交省にいたころは、国直轄の国道とか、高速道路の橋しか頭になかったのですが、いまは地方のことで頭がいっぱいです。小さな橋を含めると日本には60~70万もの橋があります。そのうち76~77%が市町村の管理なんです。国は、えらそうなことを言ってますが、直轄は、数で3.1%、延長にしても12%足らずです。圧倒的多数の市町村管理の橋が、ピンチです。点検する人も、補修する人も足りません。

山岡 過疎地の市町村道では橋の維持管理が問題になりますよね。

西川 そもそも国の高速道路や直轄国道は、地図に落とせば日本の骨格になっています。どこかの路線が使えなくなれば、国の形が崩れます。だから、考える余地もなく、朽ちてきたら架け替えます。ハイレベルの予防保全基準に則って、高度な管理をしなくてはいけません。が、しかし、よく見てください。地方道は、骨格ではなく、むしろ神経系にたとえた方がよさそうです。とくに市町村道は、行政サービスなどを住民ひとり一人に伝える末梢神経です。ですから、神経につながる地域や集落の動向によってきめ細かい対応をする必要があるのに、国道に近い維持管理が求められて困っているようです。

山岡 中央官庁は、このような問題があることをわかっているのでしょうか。

西川 わかっているとは思えません。たとえば、市町村が橋を架け替えたり、大規模な補強をしたりする際、とくに国から補助金を支給された場合は、国の技術基準に準拠しなくてはなりません。この要求水準が高すぎて、地元の土建屋さんは背伸びをしても届かないのです。これでは意味がない。手の届くレベルにして、向こう10年間、とにかく、騙し、騙し使ってもたせる。まずは応急処置でやってみて、期限がきたら、また手を加える。そんな方法も検討されていい。今後、日本全体の人口が減っていくなかで、高度成長期の右肩上がりのころの基準は、使い勝手が悪いのです。

山岡 国のモノサシは合わないのですね。ただ基準を下げて、安全面はどうですか。 

西川 南海トラフが動いて、大地震が発生したら、ごめんなさい、です。過疎地で橋の維持管理に困っている人たちに、そう言ったら、皆さん、「そうなったら仕方ない、いいんだよ」とおっしゃいます。これは、一種のリスクコミュニケーションかもしれません。

山岡 実際に西川さんは、地方に出向いて、橋の維持管理の指導もされていますね。

西川 はい。一例をあげると、長野に「NPO法人 橋梁メンテナンス技術研究所」があり、「あなたもできる橋の点検」と題して、素人の向けの点検要領をつくっています。点検要領は紙1枚で、「橋の下から眺めて、白い筋が入っていませんか」などのチェック項目に、○×で応えるといった、まさに「あなたにもできる」点検になっています。また、宮崎県では、全体を見て、橋が折れたり、くの字になっていたら、まずい。桁の端部だけ近寄って見なさい。ハシゴで行ける所までで点検は止めて、高くて、怖いところには行ってはいけません、など基本的な助言をしました。

山岡 住民自身が、点検をすることで、どんなメリットがあるのでしょうか。

西川 まず、人件費のコストを下げられますよね。また、問題のない橋を省けるので、橋当たりの点検料が節約できるし、情報を早く集められます。自信のない人は、最後の判断をしてはいけませんが、見ないで放置するよりは、よほどいい。


■人口減少下の維持管理―キーワードは日本流「共通善」

山岡 もうひとつ気になるのが、施工不良の問題です。老朽化が進むうえに、元々の施工が悪ければ、これは大惨事になる怖れがあります。

西川 つくった後の施工チェックは、難しい、わからないんですよ。コンクリートが固まったら見かけでは判断できません。鉄も、工場で溶接してしまうと、なかなかチェックできない。だから施工中の品質管理が大事なんです。鋼橋では、大事なところは、超音波とエックス線撮影で検査をします。海外の落橋事故のなかには、鋼材の溶接が薄皮一枚のような状態だったケースもあります。本来はエックス線検査をすべきだったのでしょうが……。

山岡 東京五輪の突貫工事でつくった道路や橋は大丈夫でしょうか。

西川 工期が短かったので、多少、懸念はありますね。ただ、日本人の感覚から考えて、危険につながるようなひどい手抜きはしていないでしょう。2000年ごろに首都高速に疲労亀裂が出たので、橋脚を一つひとつきめ細かく点検し、補修しました。道路に比べると、鉄道の維持管理はレベルが高いです。ほとんどすべての橋が標準設計なので、あるところに亀裂が出たら、同じ条件の場所を洗いだして、一斉に点検する。並行して、亀裂の原因解明と改良方法を練る。検討結果が出たら、まだ亀裂が出ていない所も含めて、全部、改良するんです。何か問題があれば、問題自体を消す、いわゆるトラブル・シューティング。米国海軍流の最高レベルの予防保全です。

山岡 さて、国土強靭化基本法も、国会に提出されました。いままで後回しにされていたインフラの維持保全にも光が当たりそうですか。

西川 現場は、手応えを感じ始めたところでしょうか。われわれは、いま、三つの大きな災厄に向きあわねばならないと思っています。ひとつは、確実に発生すると予告されている巨大地震、二つ目がインフラの老朽化、三つ目が想像を超えた人口減少です。国土技術政策総合研究所の所長時代、毎月、部長会議で、この三つを同時に考えてほしいと言い続けました。

山岡 人口減少社会を前提に、どんな優先順位で取捨選択をするか。悩ましいですね。

西川 人が足りないということは動かせない前提条件なので、発想を逆転して、「全員参加」をモットーになるべくたくさんの一般住民の方を橋のちかくまでお連れして、維持管理の話をしています。皆さん、非常に興味を持っていきいきと聞いておられます。インフラの大切さを再認識されるのですが、地域を支える基盤との距離が縮まることは非常に重要だと思います。
山岡 今日、お話しながら、広い意味で私たちの思想が試されていると感じました。インフラに手を入れて、長く使い続けることの正しさは、おそらく政治学でいう「共通善(Common good)」に直結しています。共通善とは、聞き慣れない言葉だと感じる人が多いかもしれませんが、単純化して言えば、社会や国家など政治共同体全体にとっての善を指し、ある特定の個人や集団にとっての善とは明確に区別されるものです。明治維新以降、日本が真似た西欧社会の底辺に脈々と流れている価値観ですね。そこが、いま試されているのだろうと思います。

西川 米国なら、仮に橋や道路が荒廃しても、極論すれば、ダメになったところは放り出して、どこかへ行けばいい。国土が広いですし、社会にそういう価値観が根づいています。古い街並みがスラム化して、治安が悪化すれば、お金のある人は、どんどん他へ移る。日本では、そのやり方は不可能です。山が大部分を占める国土で、平地という平地は開発し尽くされています。ダメになって放り出せば、社会機能がマヒする。なんとか手を入れて、長持ちさせて、使いながら、更新できるものは更新する。ステップ・バイ・ステップで、やっていくしかありませんね。

山岡 日本には「もったいない」と「お互いさま」という二つのキーワードがあります。そのあたりが、日本流の「共通善」の鍵を握るような気がします。

2013年9月30日月曜日

第10回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(後編)

■土木と医学と化学工学の三本柱で「環境工学」を開拓

山岡 丹保さんの学問領域は、土木と医学(衛生学・細菌学)、化学工学の三本柱で成り立っておられます。土木から他分野へと専門が拡大した経緯を教えてくれませんか。

丹保 僕が北海道大学に入学した1950年当時、日本の水道普及率は、わずか26%です。都市問題イコール水問題だったので、ダムを造りたくて土木の河川工学を専攻しました。昭和27年の北大3年生の時の実習先は建設中の東京水道の小河内ダムでした。1938年に着工して戦争で工事が中断し、米国のフーバーダムやTVAのダムのテキストを参考にして、何とか造っていました。機械もフーバーダム建設で使った中古品でね、しばしば故障していました。僕の目の前でケーブルクレーンの支索が切れて、二人の作業員がビューンとはね飛ばされて亡くなりました。生まれて初めての経験です。それから1週間、工事は止まって、お葬式が行われました。現場で人が亡くなるとは、こういうことかと知りました。小河内ダムでは87名の方が犠牲になっています。

山岡 いまとは比べものにならないほど危険だったのですね。

丹保 そのままダムをやるつもりだったのですが、大学4年のときに日本で初めて、京大とともに北大に「衛生工学科」ができることになりまして、指導教授から、先発要員として行ってはどうか、と言われ、従いました。大学院では土木に籍を置きながら、半分、医学部に通って細菌学、衛生学を勉強しました。1957年に日本で最初の衛生工学科が北大に設置され、講師、助教授となって、米国へ留学したんです。

山岡 助教授時代、日本の河川では初めて、石狩川の水質基準を決める調査をなさっていますね。

丹保 はい。当時、江戸川と石狩川で水質基準が作られることになりました。どちらも製紙会社が廃水を川に流して、周辺の漁民、農民と衝突していました。江戸川は建設省の御膝元ですから調査はできます。北海道はなかなか人がいない。開発局から北大の研究室でやってくれないか、と丸投げで依頼されました。山歩き用の大きなリュックに、川水採取用の瓶をいっぱい詰めて、列車で最寄り駅まで行く。そこに開発局のジープが待っていて、現地へ行って水を採取して戻って分析、試験をする。毎週、毎週、そうやって石狩川の上流から下流までくまなく歩いて、石狩川の最初の水質基準を定める基礎資料を作りました。

山岡 米国留学のきっかけは?

丹保 あるとき、東北大学で開かれた物理科学分野の「コロイド(膠質)化学」のシンポジウムが催され、水処理の基礎を学ぼうと聴きに行きました。ところが、何のことやらさっぱりわからない。三日か四日聴いたけど、さっぱりわからない。これが理解できなければ、水処理の分野には踏み込めません。そこで米国で物理化学/化学工学を勉強することにしたんです。戦後の占領期間中、GHQはマッカーサーの指示で、日本の大学の応用化学の講座を化学工学に切り替えるよう助言したのですが、北大は出遅れていました。留学すれば、遅れを取り戻せるだろう、と。

山岡 GHQは日本の石油化学の勃興を視野に、化学工学を奨励したのでしょうか。

丹保 GHQの工業教育使節団が日本で遅れている分野として化学工学の全面的展開と中心的大学に3校ほどの衛生工学を作るように文部省に勧告しました。とにかくプラスチックができたばかり、ナイロンが出始めたばかりでした。化学工学は先端の科学でした。いまでこそ流体や応用力学と同じように扱われていますが、化学工学は最先端だった。日本には化学を産業化する機械工学との組み合わせの化学工学、医学と土木の組み合わせの衛生工学といった複合的な総合工学がないと示唆したのです。それで米国に渡って、水を凝集して、水がもっている物理、化学的なことなどを勉強しました。だから米国の友だちは、いまでも僕は物理工学、化学工学屋だと思っています。

山岡 そのまま米国に残ろうとは思わなかったのですか。

丹保 独身だったけど、米国人として残ろうとは思いませんでした。当時、北大の給料は70ドル(2万5200円)。米国の研究機関の給料が540ドル(19万4400円)。研究所のボスに「ここにいたら、来年は年俸1万ドルのポジションをつくってやる」と言われたけど、帰国しました。衛生工学を一歩進めて、日本に環境工学を確立するために留学したわけですからね。

■水処理における東西文化の違い

山岡 米国から戻られた翌年、1964年に東京五輪が開催されています。東京五輪は渇水危機のなかで、開幕が迫っていたのでしたね。

丹保 あの年、東京で国際水質汚濁会議が開かれました。平河町の都市センターが会場でした。現在の建物とは違う、古い建物だったのですが、水がなくてね、宇井純や、僕らはトイレで流す水をバケツで汲んで運びあげていました。

山岡 水俣告発で有名な、東大都市工の良心といわれた宇井さんとご一緒に、ですか。

丹保 そうです。都市センターでトイレを流す水がないものだから、外の井戸でバケツに汲んで、せっせと運びあげました。まったくひどいもんです(笑)。東京の水道は利根川とつながっていなかったから、小河内ダムができても焼け石に水。河野一郎さんの英断で、中川とつながってやっとオリンピックができました。

山岡 それからの上下水道の普及の早さは、目を見張るものがあります。下水道の普及率は、現在では75%くらいになっていますね。

丹保 日本は官僚組織が全国一律、号令一下、補助金つけて一気にインフラを普及させました。欧州で100年かかったところを、30~40年でやった。だから日本の上下水道は、バリエーションがなく、おもしろみに欠けます(笑)。フランスは、パリのなかでも200年くらいの幅で建設した水道、下水道の設備があります。だから、古いものをリフォームする際、最先端の技術を採り入れられる。ドイツもそう。ルール川は、広域水道、下水道のトップランナーを走っています。

山岡 汚れた水をきれいにする水処理の方法は、それぞれ国柄の違いがあるのでしょうか。

丹保 国による違いよりは時代の違いが顕著です。1930年代頃までは緩速砂濾過法という方法が採られています。ふつうの沈殿池に原水を、半日くらい静かに置いて、それを静水圧で1日に3~4mというゆっくりした速度で濾過を均一に進行させて浄水をつくります。もとは1820年ころ英国で発明された濾過方法なのですが、テムズ川のほとりに大きな池をいっぱいつくっていて、半日から1日、場合によれば10日も溜めた水を濾過している。自然発生的な技術です。1900年代に入って人口増加の著しいアメリカ東部で、アルミニュームや鉄塩の凝集剤を用いて水中の粒子を集塊沈殿させて、その水を1日に120m程で高速濾過する急速濾過法が開発され世界に普及します。日本の処理法の大半もそうです。

ライン川の下流に位置するドイツやオランダでは様々の微量汚染物質が流れ込んでくる長大河川の下流の複雑な水質から人々を守るために、活性炭吸着をして、さらに地下帯水層に流しこみます。それを井戸で汲んで、配っています。地下帯水層に長時間おくことによって、瞬間的に原水に汚染物質が混じるようなことがあっても長時間の平均化で対応できますよね。オランダでもアムステルダムの砂丘の浸透濾過池に水を突っ込んで、3か月くらい溜めてから出して、処理して配る。一回、地中に戻した水は、大地の恵み、と欧州人は思っているようです。発想が全然違います。

山岡 江戸時代の江戸は、水の循環が衛生的で優れていたとよく耳にしますが。

丹保 江戸だけでなく、当時の城下町はきれいな浄水を汲んで飲んでいましたね。そしてし尿は全部肥料に回していた。し尿は資源でした。汚水といっても、当時はそんなに出さないでしょ。米のとぎ汁くらいなもので、紙だって、全部手習いの習字に使って、最後は焚きつけですね。ほとんど始末がついていた。それが明治以降、人口が増えて、大正時代に東京市清掃条例というのができた。し尿を汲みとって、きれいに処理しましょう、垂れ流してはいけませんという条例です。ここからし尿が廃棄物になりました。

■水循環はフラクタクル―皇居のお濠の水も飲めるようになる

山岡 水をコントロールする技術は、自然と人工との合作なのですね。

丹保 要するに、溜まって止まっている「静水」と、流れている「流水」の組み合わせなんです。静水と流水のいろんなパターンが、小川から大河川まで、フラクタクルにくり返されています。東京のような大都市は、フラクタクルなパターンをぶち抜いて水道、下水という大規模なパイプ網をつくって高速で流していますが、田舎の一軒家のなかには天水を溜めて、使って、排水しているところもありますね。これはフラクタクルの一部のエレメントです。分散型の極小といえるでしょう。

山岡 分散自立型の水代謝のシステムをつくろうとしたら、このフラクタクル構造を利用し、制御しなくてはならないのですね。そうすると、どの程度の規模なら分散型でコントロールできるのでしょうか。

丹保 それは情報系によって決まります。一軒家くらい小さければ、少ない情報を家主がコントロールして水を使えますが、地方の自治体レベルでやろうとすると、知恵も腕力もないリーダーが変なことをして失敗するよりは、能力のある都道府県レベルに頼もうか、となるかもしれません。情報をコントロールできる能力が、規模の大小を決めます。

山岡 ふと『方丈記』の冒頭を思い出しました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。この淀みに浮かぶ泡の生滅もフラクタクルの一要素のようです。フラクタクルの概念が最適化された分散自立の規模とは、どのくらいなのでしょうか。

丹保 わかりませんね。水道水だったら、1日に大きくて10万トン。小さければ、数千トンでしょうか。その場合でも、情報は人間が使うものだから、ネットワーク系をつくって、ハードウェアは小さくても、トータルで制御している人がいればいいんです。つまりインテグレート・システムでやればいい。たとえば東京なら、皇居の周りのお濠にあれだけの水があります。でも、お濠の水、飲めませんでしょ。あれを全部きれいにして、飲めるようにするのは、さほど難しくない。いっぺんにやろうとしたら大変です。しかしお濠の裏側に小さな浄水場をつくらせていただくとか、たくさんの水を皇居の林に捲かせていただくとか、毎日、水を回していけば浄化できます。もしも東京で大災害が起きたら、すべて補給品になりますね。

山岡 それこそ国土強靭化ですね。大きな堤防をつくるだけが能じゃない。

丹保 利根川の上流に新しいダムを造りたくなければ、飲み水だけは既存のダムから東京に運ぶ。そしてビルや工場の雑用水は、芝浦運河を淡水化して賄う。芝浦に水門を造ってね、品川運河をすべて淡水化してしまう。膜処理技術が発達したから、ビルなら通常の正常な淡水さえ手に入れば、困らないでしょう。いずれ、そういうローカルな分散自立型のシステムはできるだろうと僕は思っています。隅田川で泳ぐのは夢ではないのです。

■「ふたつで一つ」の日本文明が「近代の崖」を超える?

山岡 前回の対談で、丹保さんは2100年、世界人口が100億人に達したら、近代文明は終わる、日本は、そのとき新たな文明の担い手として浮上するチャンスがある、とおっしゃいました。『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンチントン氏や、生態学者の梅棹忠夫氏は、日本文明を融通無碍で東洋と西洋の仲立ちをし、融合できるものととらえていました。そのあたりにも「近代の崖」を超える可能性を感じておられるのでしょうか。

丹保 日本は中華文明の端に位置しているのですが、縄文から定住して一万年の歴史を持っています。中国は、確かに巨大だけれど、時代ごとに中心の場所が変わっています。もともと西方に位置していた国が山東半島まで掌中に収めたのです。こうして見ると、一万年前に縄文文化を持った日本の普遍性は、注目されていい。先端に出るかもしれません。

山岡 日本文明の普遍性ですが、突きつめると「ふたつで一つ」という原理ではないかと思います。『西欧キリスト教文明の終焉―日本人と日本の風土が育んだ自然と生命の摂理』(中西真彦・土居正稔著 JPS出版局)という本に示唆を受けたのですが、たとえば、朝廷と幕府、風神と雷神、火の神と水の神、あうんの狛犬……日本では大切なものをふたつ用意してきました。天皇の権威と政府の権力を使い分けてもきました。両方が並び立って、初めてひとつとなる。この考え方が基本にあったから、外から流入してくる文物を相対化し、多元的にとらえられたのではないか、と想像します。都市づくりや、インフラ整備も「ふたつで一つ」といった対概念、補完的な思考が不可欠ではないかと思います。

丹保 確かに伊勢神宮も、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)という二つの正宮がありますね。伊勢神宮は、インフラの神様ともいえます。式年遷宮もあり、新陳代謝=メタボリズムを象徴しています。メタボリズムは人間の生活の基本です。建築家のなかにはメタボリズムの名を借りたグループもありましたが、建築物の水道や下水を「裏から見た○○」といった言い方しかしない。建築家のメタボリズムは、せいぜい空調と揚排水までです。やっぱり違うなぁと思いますね。

山岡 彼らは様式美や意匠への関心が強すぎて、メタボリズムの本質論まで深められないのではないでしょうか。構造物や建物をデザインする人が、せめて対概念をもっていないと、単一的で直線的な価値観にとらわれる。そういうデザインは、弱い。

丹保 僕は大学に長くいましたが、半世紀以上も前、留学した米国のシビル・エンジニアリング学科には、経済学、生物学、素材学の教授たちがいましたよ。土木一辺倒じゃない。

山岡 多角的なアプローチのほうが、学びは深まりますね。

丹保 そうです。近代というのは科学技術の文明です。違った表現をすれば、真似ることが学ぶこと。日本では大学の4年間で決まった範囲しか学ばない。米国の大学は、社会人がどんどん入ってきます。社会で経験を積んで大学に戻るから、全体のレベルが上がります。

山岡 日本の製造業が元気だったころ、新卒の学生を会社は全人的に鍛えるしかない、とモノづくりの大部屋に叩きこみました。エンジニアや営業、技能士、デザイナーや購買が一緒になって「知識創造」をして、モノをつくった。そのなかからイノベーションが起きて、市場を変革しました。大学教育の実践編を企業が担っていました。

丹保 そのときに、企業は大学を利用しなかったのですよ。なぜ、米国の大学が世界で1、2のレベルにあるかというと、そのときに大学を使うんです。工学系では、世界で一番優秀なのはカリフォルニア工科大学、次がハーバードかMITですが、企業で経験を積んだ人が、ポスドクとして大学に勉強しにきている。博士号を取った上で、別の勉強をする。だからレベルが高いんです。

山岡 科学技術、あるいは学問というのは、さまざまな刺激を受けて、単純に直線的に上昇するのではなく、スパラル状に向上します。そういう道筋を大切にしてほしい。

丹保 おっしゃるとおり。歴史も、必ずスパイラルです。そして、この伸びしろが学問の進歩なんだと思います。基本的には、クローズとオープンで、歴史も回っています。閉じたり、開いたりの連続です。縄文時代から、古代、中世、近代、そしてまた新中世。「閉じた代謝と開いた心」の文明が始まるかもしれません。文明を支える技術は、すべて違います。しかも、伸びしろがあります。伸びしろは、人が増えるからできます。アイヌの人は確かに自然と共存していました。そのころのアイヌの人の人口密度は1平方キロに0.5人。いま、北海道には1平方キロ60人が住んでいます。日本全体では350人。東京では6000人を超えています。これでは、アイヌの人と同じ文明では暮らせません。地球の人口が100億人を突破するまで、あと80年余りです。私たちの置かれている状態をしっかり認識し、将来ビジョンを議論しなくてはならないでしょう。

2013年9月15日日曜日

第9回 北海道立総合研究機構理事長 丹保憲仁さん(前編)

対談日:2013年6月28日  於:土木学会会議室


丹保憲仁さんプロフィール
1933年北海道生まれ。工学博士。1957年北海道大学大学院工学研究科土木工学修士課程修了。北海道立総合研究機構理事長。第89代土木学会会長。北海道大学総長、放送大学長などの要職を歴任。
専門は環境工学、著書に『人口減少下の社会資本整備-拡大から縮小への処方箋』(2002年、土木学会など。)









■2100年、世界人口が100億人を突破したら「近代」が終焉

山岡 水の循環、環境システム分野のオーソリティである丹保憲仁さんは、文明史的観点から地球の近未来に警鐘を鳴らし、近代の終焉、文明転換の必要性を説いておられます。バブル期にデザイン界がもてはやしたポストモダン論などとは次元の違う、本質的な問題提起だと思います。まずは、そのあたりから、お話をお聞かせいただけますか。

丹保 この図が、今日お話したいことの根本にあります。


西欧は産業革命後、西暦1700年ごろから中世に別れを告げ、近代へと入ります。蒸気機関、内燃機関が発明され、石炭、石油の化石燃料をエネルギー源として大量生産、大量消費のパターンが世界に広まりました。食料が増産され、列強諸国は海外に植民地を求め、人口が爆発的に増えます。北海道立総合研究機構の研究者に「そもそも現生人類は、紀元前1万年くらい前から現在までに何人ぐらい生まれたのか。西暦1800年以降の近代が始まってから今日までにどのくらい生まれたのか」と問いかけて、推算してもらいました。

山岡 文明史的に人口増加の変化を推定したわけですね。

丹保 すると、生まれた現生人類の総数は1050億人ほど。そのうち紀元前1万年から西暦1800年にかけて、つまり1万年以上かけて誕生した数は700億人ほど。これに対して、近代に入った1800年以降、わずか200年少々で生まれた数は、なんと350億人ほど。近代以降は、それ以前と比べて平均して年間25倍ほどの勢いで増えていることになりそうです。

山岡 今後、日本は人口が減っていきますが、中国、インド、アフリカを中心に世界人口はしばらく増加し続けますね。

丹保 2100年に100億人に達します。ここで僕は近代文明が終わる、と思います。その終わり方がカタストロフィーなのか、そこから少しずつ人口を減らしてじりじりと違う文明へと移行するのか、わからない。大変なことが起きる予感がします。たとえば地球の水の総量と、世界総人口の大きさを比べてみましょう。100億人になれば、世界人口10億人の時代に西欧でつくられた近代上下水道システムを使い続けるのは難しくなるでしょう。100億人超の時代がきても、1人1年間2000m3ほどの水がなければ食物生産を含む生存のための需要は満たせません。できれば2000~3000m3の水が欲しい。1000m3の極限量に世界人口100億人を掛けると世界の総降水量の15%が必要となる。常識的にはその2倍が恒常的な農業生産の維持に必要なので、総降水量の30%が必要になります。これでは、インド亜大陸、中国本土、中近東、アフリカ乾燥地帯では近代の水システムを未来にわたって使うのは困難です。まったく異なる水利用/循環のシステムが求められます。

山岡 水と並んで、従来型のエネルギー資源も枯渇の壁にぶち当たりますね。

丹保 いま、現代人は、化石エネルギーに核分裂型の原子力エネルギーを併せ持って、人類史上初めて、そしておそらくただ一度の最大量と思われる105TWh/年ほどの非再生型エネルギーを使って、地球規模で高速大量輸送技術に支えられた大量生産、大量消費の日々を営んでいます。しかし100年も経てば、化石燃料や核分裂(ウラン235型)によるエネルギー供給は難しくなります。次の集中型エネルギー源に核融合がくるのでしょうか。100億人超の地球を支える再生可能な新自然エネルギー時代を、現生人類は、エネルギー・イノベーションで、いつ、どのような規模で迎えるのでしょうか。社会構造を変えて成長型の近代文明を止揚し、はびこりすぎた人類の数と過剰資源消費を漸減させ共生の新文明にたどり着く前に、滅亡の危機に合わないで済むのでしょうか。大切なのは、100億人超の時代とその先の後近代に向けて、論点を絞りながら検討を進めることです。


■最後は腹を切る覚悟で西欧技術を身につけた近代の父たち

山岡 人口爆発に従来型システムでは対応できない「近代の崖」にわれわれは追い込まれているようです。が、一方で私たちの思考は1900年ごろの「坂の上の雲」を追った当時の開放型、膨張型のパターンに慣れてしまっています。グローバル化した市場での競争が死活問題と信じ込み、ついそのような近代的パターンを志向しがちになります。

丹保 日本が明治維新後、わずか数十年で近代システムを取り込み、西欧列強に対抗する国家になったのは、近代の礎をつくった世代が「サムライ」だったからです。たとえば後藤新平(1857~1929)、内村鑑三(1861~1930)、新渡戸稲造(1862~1933)、彼らはそれぞれの分野で日本の近代化を推し進めたキーパーソンですが、少年期には、ちょん髷つけて漢籍を学んでいます。根っこの精神は近代でも何でもない。根性はサムライで、最後は腹を切る覚悟で、西欧の新しい技術やしくみを身につけようと猛烈にがんばった。だから、強い。後藤新平なんて、相当に過激なことをしていますね。

山岡 ええ。台湾で民政長官を務めていた初期には、日本の統治を受け入れようとしない人たちを大勢殺しています。後藤自身がそう言っている。あるいはアヘン政策、敵対する言論への弾圧など、凄まじい行動をとっています。最後は、政治の倫理化運動のために脳溢血で死ぬのを覚悟で岡山へ演説に赴く列車のなかで倒れ、京都で亡くなりました。

丹保 腹を切る覚悟で生きているから、近代化をあんなに速く達成できたのです。新渡戸の同級生に廣井勇(1862~1928)という「港湾工学の父」と呼ばれた土木技術者がいます。小樽港や上海の築港に辣腕をふるい、多大な業績を残しています。彼は、自分が設計した橋梁の上を、列車が試運転する「渡り初め」のとき、橋のたもとで震えていたというんです。そのくらい自分がやった仕事が怖かった。彼らが幼少期に習った学問と、西欧近代技術というのはもの凄いギャップがありました。だから緊張し、緊張に耐えて、技術を採り入れた。パイオニアは、自分のやったことを自分では評価しないものです。震えながら他人の評価を受け入れる。そういう姿勢がまた緊張感を生むのでしょう。

山岡 なるほど。かつて福沢諭吉が『瘠我慢の説』という本を書き、勝海舟を批判した際、事実誤認や訂正があれば教えてくれ、と草稿を勝に見せました。すると勝は、「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候」と応えた。出処進退は自分で決めること。その善し悪しを論じるのは他人の仕事。どんな評価を下していただこうとも、まったく依存はございません。送ってくださった草稿は、(おもしろいので)このままいただきたい、と切り返した。福沢も福沢なら、勝も勝です。

丹保 やはりサムライなんですね。

■世界に例のない東海道メガロポリスと海洋開放系

山岡 日本は戦争に敗れ、国が破綻しましたが、戦後の復興、高度成長にはサムライに薫陶を受けた世代がまだ生きていました。戦後の経済発展をどうとらえればいいでしょう。

丹保 日本という国で、ふつうに太陽エネルギーだけで生きていける人口は4000万人です。日本列島を潜水艦に囲まれ、封鎖されても4000万人なら飢え死にせず、喧嘩しないで生きていけます。ところが、現実は1億2500万人。8500万人も過剰です。これだけの人口が生きていられるのは、東海道から山陽道、北九州に至る沿岸部に、千葉、東京、川崎、横浜、静岡、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡とメトロポリスが連なり、世界最大(断突)の東海道メガロポリスを形成しているからです。海岸線にこんなに巨大都市が連なった例は、世界にありません。世界中見渡しても、半径50キロを超えるメトロポリスはない。水を運んで、下水に捨てて、ゴミを処理して、都市交通体系で通勤できる都市を造ったら半径50キロ圏になってしまう。それを超えそうになるとパリでもニューヨークでも衛星都市をつくる。ところが、日本は、太平洋岸に串刺しのようにメトロポリスを連ねました。

山岡 そして、太平洋ベルト地帯に工業生産が集中しました。

丹保 石油、石炭、鉄鉱石など原料はすべて大容量の船で海から運んできて、大量にものを製造しました。だいたい50兆円ほどの原材料を輸入し、50~60兆円ほどの輸出をして貿易黒字を出してきた。現在は、円安と石油・天然ガスなど輸入燃料の価格高騰で貿易赤字になっていますが、おおよそ日本のGDPは約500兆円で、貿易依存度は10~15%少々。じつは、ものすごく内需の大きな国です。イギリスは外需の割合が15%、ドイツが40%、韓国は50%ちかいですね。東海道メガロポリスは、膨大な内需と外需を支える生産地帯。土木は、インフラを構築することで、その大都市帯建設に貢献してきました。海を介して、外へ開き、大量のものを運ぶシステムが機能してきたのです。

山岡 日本の強みは海を媒介にできる点です。列島が南北にのび、海岸線が長い日本は、領海と、沿岸から200カイリの「排他的経済水域」を合わせた海の広さが447万平方キロメートルと世界6位。しきりに太平洋へ出ようとしている中国の場合、領海と排他的経済水域を足しても89万平方キロメールと、日本の約5分の1です。

丹保 中国は、歴史的に鄭和(1371~1434)の遠征以来、しきりに海洋へ出ようと試みましたが、本質的に大陸国家です。いくら経済発展してきたからといって、日本のように沿岸部にずらりとメトロポリスを建設することはできません。北京の港は天津、そこから上海まで沿岸部に大都市はできない。大艦隊を建造して、太平洋に出てきても、運べる資源がもうすぐなくなる。アフリカが成長したら中国に資源を渡さなくなるでしょう。

山岡 中国は2030年に14億超で人口のピークを迎えるといわれていますが、かつて日本がたどった近代化コースをもの凄いスピードで走ってきています。

丹保 中国は、いまのうちにきちんとインフラを造っておかないと、高度成長を維持できなくなったとき、社会不安が増大します。大陸や半島での動乱で、大量の難民が日本に押し寄せてきたら、大変な事態になるでしょう。

山岡 日本の高度成長途上では、交通インフラも動脈としての役割を担ってきました。

丹保 なかでも東海道新幹線は、世界で初めて人間しか乗せない高速鉄道として産声を上げました。人間しか乗せないのだから、新幹線は情報系なんですよ。東京―大阪間を日帰りできるほどの高速で人間が行き交い、情報を創造することで高度成長は達成できたともいえるでしょう。

■ポスト近代「閉じた代謝と開いた心」へどう転換するか

山岡 東海道メガロポリスの産業集積は、海の向こうに開いて、1億2500万人の人口を支えてきたわけですが、さぁ、あと80年少々で、世界人口が100億人を突破します。一方で、日本の人口は7000万人くらいまで減ります。日本が22世紀もしっかり生き延びていくには、どのようなパラダイムの転換が求められるのでしょうか。

丹保 ひょっとすると、長い歴史時間の中で、中華文明の下流に位置する日本が、近代を駆け抜けて、一番先に脱近代のチャンスをつかめるかもしれません。縄文以来で初めて、この列島の住人が、世界の次の文明をリードするチャンスを得るかもしれない、と思います。ふり返れば、近代以前の中世は、水や食物、エネルギーの代謝が一定の範囲で閉じ、人びとの心も宗教的規範に従って閉じていました。宗教的規範に忠実に生きる人が、尊敬を集めました。近代は、逆に代謝を開放し、人の心も開放させました。宗教に代わって経済が価値の中心に移って、市場の拡大を善としてシステムが増殖したのですが、それだけでは世界が立ち行かなくなる状況が次々と近代社会を揺さぶり始めます。日本は、世界に先駆けて「閉じた代謝と開いた心」を持った新文明へと転換する成熟度と実力を兼ね備えています。分散自立型都市代謝システムの確立と自然生態系の安定確保がポイントです。

山岡 具体的に、たとえばインフラの整備はどうとらえればいいでしょう。近代150年かけて築いたインフラが老朽化の波をかぶりながら、広範囲にちらばっています。

丹保 思い切ったスケールダウンは必要でしょうね。それと自然とのジョイントをいかにうまくするか。地中にパイプも電線も入っていますけど、それをうまく使いながら、質が若干劣っていてもいいものは、そのまま使う。質の高いものにだけ投資をする、とか。
電力や水、食べ物にしても、質によって使い分けるのが次のテーマだと思います。日本は一番質のいいものを、必要な量だけ供給する近代のぜいたくを尽くした末に、その過剰インフラ構造の保全更新に困難を感じ始めているわけです。現在、日本の食料自給率はカロリーベースで40%ですが、コストベースでいくと70%ちかい。すごく高いものを食べています。食べ物を買えるときは買ってもいい。自給だけを目的に社会を動かすとおかしくなります。しかし、アメリカ・オーストラリア、ロシア・ブラジルが食べ物を売ってくれなくなったとき、どうするのか。中国がもしも人口減少に失敗してね、海外の食べ物にどんどん手を伸ばしてきたら、どうするのか。そこを考え、実行するのは為政者、経世学者の仕事ではないでしょうか。まぁ、インフラ施設は50年かけないと格好がつきません。100年かからないとモノになりません。上下水道にしてもそうです。だから、慌てないこと。ボロボロになったら、手を加えて使えるところだけを使っていればいい。

山岡 情報系とおっしゃった新幹線は、東海メガロポリスだけでなく、東北、上信越、北陸、九州、さらに北海道へと延びようとしています。地方でも情報系の効力は生きますか。

丹保 いや、まったく違うものになるでしょう。東海道では、経済的闘争のために新幹線を10分に1本走らせていますが、北海道や九州では1時間に1本で十分です。人だけを運ぶのではなく、収穫された労働集約型の高級農作物を積む軽貨物車輌をひとつくらい連結して、関東地方に運んで配ってもいい。朝積めば、昼には関東のマーケットにくるでしょう。

山岡 自然とのジョイントもポイントと指摘されましが、どういうイメージですか。

丹保 川で言えば、利根川も隅田川も上流から下流まで泳げるようにする。全部、泳げるように再生する。永代橋のたもとあたりで、とぶーんと飛び込んで水泳大会をしてもいい。江戸時代なんて、そんな感じでしょう。川の上下流(流域)で、江戸の諸藩はまとまりをもって郷国を作り上げてきました。川はその要です。

山岡 都市の構造そのものが変わるのでしょうね。

丹保 これは乱暴な意見かもしれませんが、日本人は22世紀初頭に7000千万人に減っても、グリーン自立には2000万人くらい過剰です。そこで日本を二層構造にして、東京をシンガポールのような経済特区する。そして2000万人の経済戦士に東京圏に住んでもらう。特区ですから、税金のかからないフリーマーケットにして、電力も水も食料も、他地域からお金を払って買ってもらう。東京はグローバルな競争に勝ち抜くための戦士の集団と化す。そして闘いに疲れたら、北海道にきて休んでいただく(笑)。

山岡 人口7000万人社会を前に、どんなビジョンを描くかが大切ですね。東京の話で思い出しましたが、ご著書の『都市・地域 水代謝システムの歴史と技術』(鹿島出版会)によれば、首都圏の水資源量は極端に少ないのですね。

丹保 世界で住民一人当たりで最も水がないところは、年間1000m3/人程度しかないサハラ砂漠以南のサブサハラアフリカです。年間1人1千トンの水で、辛うじて生存を維持しています。その次に少ないのが、日本の関東地方なんです。4000万人もの人が集中していて、GDPはフランスより高く、経済活動で水を使いまくっています。関西には琵琶湖がありますが、関東は利根川上流に、大量に溜めておくところがない。

山岡 関東圏はいつ水飢饉が起きても不思議ではないのですか。水の代謝を維持しようとしたら、周辺にたくさんの水甕(ダム)を造らなきゃいけなかったのですね

丹保 はい。雨はコンスタントには降りませんね。ふだんは水が足りなくても、大雨が降れば洪水が起きる。ある程度溜めておかなければいけません。それで利根川上流に20幾つものダムが造られたのです。

山岡 では、後半は、水の循環、上下水道のシステムに話題を移したいと思います。
(後編に続く)

2013年8月31日土曜日

第8回 極東鋼弦コンクリート振興取締役最高顧問 仁杉巌さん(後編)

■土木技術者の仕事師はマネジメントができる

山岡 前回は戦前~戦後、高度成長の華・東海道新幹線の建設に至る鉄道事業の流れを歴史の証人として語っていただきました。今回は、経営者の視点で鉄道事業をふり返ってもらいたいと思います。なかでも国鉄改革、分割・民営化の渦中で総裁に就任され、改革に尽力されたことは現代史のエポックでもありました。
 まずは、公共事業とマネジメントについて、どのようにとらえればいいでしょうか。

仁杉 土木技術者の本当の仕事師というのは、マネジメントができる人です。技術者もマネジャーでなければと思います。古い話になるけれど、1959年12月末、僕は国鉄の名古屋幹線工事局長に就いて、名古屋に赴任しました。夕方、名古屋駅に着く特急で行ったら、迎えは総務課長を含めてたった3人。人がいなかった(笑)。局長が先に決まって、他の職員はまだ職務発令されていなかった。その晩は、事務所の当直室みたいな所に泊まりました。
 局長で着任したのはいいけれど、全然、体制も整っておらず、人を集めるところから始めました。当時は、名古屋でも鉄筋コンクリートの建物はほとんどなくて、伊勢湾台風(59年9月)で傾いたままの大きな家が城山にあったので、そこを借りて、幹部の宿舎にしたんです。賄いのおばさんを頼んでね。

山岡 名古屋は新幹線建設の要所ですよね。工事局の人はどこから集めたのですか。

仁杉 一番たくさん出してくれたのが下関と岐阜の国鉄工事局、名古屋や金沢の鉄道管理局、東北、北海道、大阪など全国から集まってきました。事務所がないものですから、名古屋鉄道管理局に頼みこんで、管理局の五階の講堂に事務所を置かせてもった。講堂だから、大部屋も大部屋(笑)。仕切りが何もなくて、だだっ広いところに、幹線工事局に集まった約300人のうち現場に出ている人以外の100人あまりが机を持ち込んで、作業に当たりました。こういう体制づくりは、大学の先生が黒板に何か書いて教えるのとは違います。人を集めて、寝泊まりできる場所を確保し、彼らを働かさなきゃいけない。しかも国鉄のなかの人だけでなく、外の人もいる。大切なのは、マネジメント。そういうことを知っている土木技術者は、非常に少ない。そこを教えなきゃいけないのだけどね。


■用地買収の難しさ~相手を説得することが不可欠

山岡 新幹線の建設では、用地買収も大変だったと聞いています。

仁杉 名古屋の幹線工事局の範囲内では、戦前に計画された弾丸列車の用地として、豊橋から蒲郡あたりまで土地を買ってありました。終戦後、返還運動も起きましたが、売り戻さず、耕作を認める形で処理していました。新幹線は、ほぼこのルートを走ることになり、東京―名古屋間は概ね決まりました。ただし、1964年10月の東京オリンピックまでに新幹線を開業させねばならない。それが至上命題でした。

山岡 沿線の家々と土地の売買契約を結ぶわけでしょ。膨大な交渉ごとになりますよね。

仁杉 国鉄が実際に一軒、一軒と交渉していてはとても間に合いません。そこで沿線の各市町村に対策委員会のようなものをつくってもらい、協力していただきました。各市町村や県会議員、国会議員の方々にずいぶんお願いに上がり、汗も流しましたね。

山岡 いまでも語り草になっているのが、名古屋から関ヶ原のルートの選定です。名古屋を出た下りの新幹線は、枇杷島、清州あたりまで、しばらく東海道線と並行に北上します。その後、南へカーブして、稲沢市、尾西市の外れを通って「岐阜羽島駅」を経由し、大垣市、垂井町を通過して、ふたたび東海道線と少し並走して関ヶ原に至る。このルートは、どのようにして決定されたのでしょうか。

仁杉 当初は、もっと南の、名古屋から岐阜羽島より南の桑原を通って、まっすぐ養老山系に向かい、北東に曲がって関ヶ原へ抜けるルート案が考えられていました。ルート案に沿って、本社の職員がある程度、杭を打って歩いていた。この案では、名古屋と関ヶ原の間に駅を設ける計画はなかったんです。ところが、岐阜は、自民党の党人派の大御所、大野伴睦さんの地元です。大野さんから「何だ。俺のところを通りながら、駅を造らないとは」とお叱りを受け、桑原に駅を置こうとなったんです。すると、こんどは岐阜県知事の松野幸泰さんが、「あんな南のほうへ線路をもっていかられても困る、もっと北へあげてくれ、そうでなければ協力しない」と言いだした。

山岡 岐阜側は、もっと北へと要望したのですね。歴史的に徳川家の親藩御三家のひとつ「尾張(愛知)」と、北の「美濃(岐阜)」には対立感情があったようですね。特に木曽三川の治水をめぐって、堤防で守られた愛知側に対し、岐阜側は反感を抱いたとか。『仁杉巌の決断のとき』(大内雅博編/交通新聞社)を拝読すると、愛知県と岐阜県のルート争いは、知事どうしで話し合えず、国鉄本社も交渉できない、とありました。尾西市の市庁舎には「新幹線関係者立ち入り禁止」の横断幕が張り出されていたそうですね。

仁杉 そうです。「立ち入り禁止」とやられては、入っていくこともできません。しかし、入らないと仕事は進まない。相手の気もちをつかむのは大変でした。あるとき、あの周辺に大水が出てね。消毒に石灰が必要なのだが、運ぶことができなくて地元が弱っていると言ってきた。表面的には立ち入り禁止でも、話し合うパイプはつないでいた。なんとか石灰を持ってきてくれ、とSOSが入った。そこで、貨車に石灰積んで、東海道線の稲沢駅まで運んで、地元に持ち込んだ。それを契機に「国鉄は一生懸命やっているのだから、あの横断幕だけはとろうよ」となって、堂々と交渉ができるようになった。
なかなか話し合いの席に着いてくれない県会議員の先生もいましたね。ある日、その先生の家に不幸があったことを新聞で知った。日曜だったけど、担当者にすぐに香典を持って行け、と命じた。すると先生は「おお、来てくれたか」と迎えてくれました。先生も公共事業に反対しているけど、内心、忸怩たるものがあったんだね。きっかけさえつかめば、こっちを振り向いてくれる。そういうチャンスの芽をどう活かすかだ。こんなこと、大学の講義じゃ教えないね。公共事業への賛成や反対と党派はあまり関係ない。要は人ですよ。

山岡 世間は岐阜羽島に駅ができて驚いたけれど、さまざまな政治的、経済的力学を鑑みれば、岐阜羽島駅がベストだったと……。

仁杉 あそこ以外にありません。国鉄本社には伝えなくても、僕の腹は決まっていた。だから、あそこに収斂させるために、ああでもない、こうでもないと考えて、知事や市長、国会議員を説得して、了解をとったわけです。

山岡 利害関係者を説得するための勘所は何でしょう。

仁杉 向こうを説得すること。相手をバカにしては、ダメです。なかには話が通じない人もいますよ。でも、相手をその気にさせなきゃ仕事は進まない。俺は局長だ、所長だ、偉いんだというような顔をしたら、絶対にダメ。地元の有力者を探すのも大事だね。ボスのいないところはまとめにくい。ふつうは市長が実力者だけれど、議長という場合もある。そこを見極めて、しっかりつかまえなくちゃいけない。一番困るのは、自分の意見がハッキリしていない市長だ。道路なり、鉄道なり造らなきゃ、交通体系上、その自治体は困るとわかっていても、建設反対派の住民を敵に回したら選挙で不利になると考えて、なんとなく反対する市長がいる。そこをどうするか。腹のなかと言っていることが違っているケースもありますね。

■国鉄の赤字の主因は、都市部への莫大な投資を運賃値上げで回収できなかったこと

山岡 極論すれば、マネジメントは人間の気もちをどうつかむか。技術者も、ときには心理学者兼営業マンに変身しなくてはならないのでしょう。さて、1964年に東海道新幹線はめでたく開通します。東京五輪に間に合った。一方、国鉄は、この年から「赤字」に転落しました。そり後、坂を転がる雪だるまにように借金が増えて、国鉄改革待ったなし、となっていきます。素朴な疑問ですが、赤字の原因は何だったのでしょうか。

仁杉 投資に見合うように運賃水準を上げられなかった。運賃値上げをできなかったことが赤字が増えた要因ですね。世間の人は、国鉄の財政破綻の原因は赤字ローカル線の建設と思い込みがちだが、そうじゃない。大きな借金を背負ったのは、第三次長期計画(1964~68)での既設線の輸送の隘路の解消、つまり輸送力増強のための工事が主因。輸送の隘路というのはね、ほとんどが都市部にあって、地方にローカル線を建設するよりも、はるかに多くの金がかかる。用地代も、構造物も違う。いろんなものが高くなる。地方で1キロ当たり10億円でできる工事が、都会では100億円かかってしまう。
 たとえば、すでに地上に用地のある東京駅の広場の地下に総武線を乗り入れさせるために、丸の内側の地下に総武線用の地下駅を建設しました。現在の総武快速・横須賀線と成田エキスプレスが発着している地下ホーム。あれには莫大な金がかかった。あんなに金を注ぎ込んで大丈夫なのか、と思った。あれをつくって経営がうまくいくのか心配でした。かくも金のかかる投資をしながら、運賃値上げは国会で抑え込まれた。一方で、せっせと高い金をかけて、さらに線路がつくられる。運賃値上げは抑え込まれる。これじゃ破綻するのは当然だ。

山岡 運賃を上げられなかった要因は何でしょうか。政治家が公共料金の値上げを言えば、選挙で不利になるからでしょうか。

仁杉 運賃値上げは国民の反感を買うから、国会はなかなか承認しません。その背景では、鉄道省出身で、運輸大臣、総理大臣を務めた佐藤栄作さんは鉄道省出身のエースです。あの人が運輸大臣のころの国鉄運賃は確かに高かった。国鉄は金持ちでした。だから佐藤さんは国鉄には金がある。運賃は上げなくてもいい、という考え方を採ったという話があります。本当かどうか私には解りませんが、でも、時代とともにそうではなくなった。佐藤首相に対して、運賃を上げないと国鉄が潰れます、と直言する人が国鉄幹部にいなかった。鉄道省の大先輩に「運賃を抑えてはいけない」と正論をぶつける人がいませんでした。

山岡 官僚機構の序列の絶対性を打ち破れなかった。やはり政治ですね。佐藤栄作の後継者となった田中角栄は、どんな政治家でしたか。毀誉褒貶の激しい人ですが……。

仁杉 僕は田中角栄さんにはかわいがられて、いろいろやらせてもらいました。そのひとつに鉄道と道路の立体交差事業がある。鉄道の立体化工事は、だいたい費用の三分の一を鉄道が負担し、残りの三分の二を県や市町村が負担するのが原則でした。が、輸送力増強工事などで国鉄の台所が火の車になるのとは逆に地方都市が活気づいてきて、街の中心に国鉄が走っていると都市計画の邪魔になるので立体化してほしいという声が高まってきました。鉄道を立体化し、踏切をなくして道路を交差させたい、と言ってくる。
これは国鉄だけでなく、建設省、運輸省、それに自治省も絡むわけです。なんとかしようと国鉄で試算してみたら、踏切を取り除いて得られる利益のうち国鉄の分は一割程度しかなかった。メリットはさほど多くない。先に鉄道が走っていたところに道路が延びてきて立体交差を希望しているわけでしょ。それで事業費の三割も、四割も出せない。利益の九割を得る道路側、つまり建設省が立体化事業の金を出せ、と僕は要求したんです。そしたら、建設省は嫌だ、と。しょうがないから角さんのところに行って、こういう話です。建設省との話がつかないので、鉄道の立体化が進みません、と言ったら、うんわかった、とその場で田中派の道路族のボスに電話をしたんです。それで、道路特別会計から立体化事業の資金が出ることになりました。負担は、国鉄1割、建設省9割です。角さんは即断即決です。影響力も甚大でした。他の政治家には真似が出来ない。中国との国交回復も、角さんしかできなかったでしょう。ものすごい政治家ですよ。

山岡 アメリカとの関係をもう少し、うまく築いておけば……。

仁杉 惜しかったですね。戦後、仕事をした総理ではナンバーワン。もう少しスタッフをお持ちになったほうがよかった。孤立しちゃったね。

■国鉄総裁、退き際の「決断」とは……

山岡 仁杉さんは国鉄の常務理事を退任し、私鉄の西武鉄道の経営に当たられた後、土木学会会長、鉄建公団総裁を経て、中曽根政権下の1983年12月に古巣の国鉄に総裁として復帰されました。当時は、「財界の荒法師」と呼ばれた土光敏夫が会長を務めた第二臨時行政調査会(第二臨調)で国鉄の分割・民営化方針が打ち出され、大変な状況でした。国鉄を死守したい国鉄幹部、労働組合、運輸族議員、地方自治体などに対し、分割・民営化を熱望する国鉄の若手エリート、運輸省、経済界などが激しくぶつかり合っていました。分割・民営化の方針は示されたけれど、実行は至難の業。いわば渦中の栗を拾う形で総裁に就任されました。どんな気もちで政府からの要請を受けたのですか。

仁杉 ある日、後藤田正晴官房長官に急に呼ばれまして、「きみに国鉄総裁をやってほしい」と言われました。国鉄総裁に指名されたんです。辞退したい気持ちが強かったけれど、長い間鉄道で飯を食ってきながら、国鉄が大変な困難に直面しているときに、逃げだすわけにもいかない。西武鉄道のオーナー・堤義明さんの意見も聞いたうえで、引き受けました。次年度の予算も組めない状況で総裁に就任したのですが、僕自身は民営にするかどうかは負債や年金などの問題解決が前提になるので別問題としても、とにかく分割は必須と思っていた。

山岡 国鉄という組織が大きすぎる、と?

仁杉 職員30万人、北は北海道から南は鹿児島まで、ひとりの総裁が掌握できるはずがない。おまけに労働組合は、労使対立はもちろん、労労対立も激しくて、当局の言うことはきかない。現場と対話すらままならない。若手の課長クラスが「総裁、どうしたらいいでしょう。処方箋がありません」と言うので、とにかく日本には多くの私鉄があって主体的に経営している。そこにヒントがあるはずだ、と応えた。国鉄の全国の路線をA,B,Cのランクにわけて、それぞれ同じクラスの私鉄とくらべて、どんな運営をしているか勉強するところからスタートさせました。1984年の連休明けくらいにその調査がまとまった。その結果、トータルで18万人くらいの職員で十分という結論が出ました。

山岡 84年6月に記者クラブで講演をなさって、国鉄の財務状況などを説明したあとで、ご自身の意見を訊ねられましたね。「分割賛成」とお応えになって、国鉄内が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。仁杉さん以外の幹部は、ほとんど分割反対でした。

仁杉 副総裁以下、各常務は、いわゆる国体護持派でね、分割反対で凝り固まっていた。彼らの気もちの奥底には、前回の対談で、戦前の鉄道省から運輸省へと官僚機構が変わった経緯のところでお話しましたが、運輸省には負けたくない、そういう意識が根強く残っていた。根っこが官僚なのかねぇ。運輸省の言うことなんて聴けるか、というグループがいたんだな。上層部にも。一時的に騒いで、収まるかと思ったのだが……。

山岡 84年暮れには仁杉総裁の下で国鉄改革の「基本方策」ができました。しかし、第二臨調の答申を受けて国鉄改革を担当する国鉄再建監理委員会は、その案に反対しましたね。委員長の亀井正夫さんは基本方策を突っぱねました。

仁杉 監理委員会とは互いに原案を示し、フリートーキングする方向で亀井さんとも何度も話し合いました。しかし、監理委員会の案が遅れて、われわれの基本方策が先になり、ああいう形になった。あとで亀井さんは僕に丁寧に謝られましたよ。
一方で、国鉄の副総裁以下の常務には累積した20兆円の債務を担いだままでは再建は無理。債務を引き継いでくれるのは政府しかないじゃないか、と説得しました。だが、どうしても分割反対だという。事態を収拾するには「ショック療法」しかないと思い、自分が辞めるのと一緒に役員にも辞表を出してもらう策にいきついたのです。

山岡 マスコミは総裁更迭と書きましたが、随分前から仁杉さんの腹は決まっておられたのですね。

仁杉 85年の3月半ばには決心して、運輸省のごく一部の人には伝えておきました。その後、たぶん運輸省から話が洩れたのでしょう。政官界、マスコミの一部からそのような見方をされた。僕が辞める、辞めないなど、どうでもよかった。国鉄改革を前に進めるには、ある時期がきたら辞意を表明して、分割・民営化反対者も一緒に、と考えていた。やや柔軟性に欠けたかもしれないけど、自分でしまったとは思っていませんよ。僕は、どうも人とは違う考え方をしているようだ。うまく立ち回る人からみたら、ダメだろうな。だけど自分で考えたことを実行するには、言いたいことを言わなきゃいけない。

山岡 これからの土木、公共事業のあり方は、どう考えていけばいいでしょうか。

仁杉 だんだん本当のことを喋る人が少なくなってきたが、皆、フランクに、立場ばかり主張せず、日本としてこうあるべきという案をつくらなきゃいけません。作った案は変えてもいいが、土台がない。公共工事をやれと言うが、お金も人間も、材料も足りなくなって行きづまる。強靭化云々といっても、そこまで考えてないんじゃないか。
 震災で東北の海岸が壊滅的被害に遭いました。住居は仮でもいいが、真っ先に港、製氷会社、魚の処理工場などを再建して、人が働ける場所を確保すきべです。いくら高い防潮堤を造る、仮設住宅、復興住宅を建てると言ったって、住民が働けなきゃどうしようもないね。そこが出発点でしょ。私個人としてはそんな風に考えています。

山岡 いまだに建築基準法39条の災害危険区域指定に難航して、復興が進んでいないところがたくさんあります。

仁杉 決断が大事です。そして、一度決めたらどんどん下に任せる。そして、最後は俺が責任を持つ、俺についてこい。そういうリーダーが必要なんだ。